第三千七話 魔王への道(一)
昇降機が塔の最上階に到着するまで、然程の時間もかからなかった。
それこそ、喪服の女と談笑にしゃれ込む暇などまったくないほどであり、それはむしろセツナにとってはありがたいことだった。喪服の女は、頭巾の中に隠れた目でセツナのことをじっと見つめているようだったのだが、その視線に込められた感情の不可解さには辟易していたからだ。彼女がいったいどのような感情をセツナに対して抱いているのかなど、知る由もない。
彼女は、この塔の、いや、この地獄の主に仕える存在であることから、セツナに対し、愉快とはいえない感情を抱いていたとしてもなんら不思議ではなかったし、まなざしから感じる無遠慮なまでの刺々しさは、セツナを敵視しているような、そんな気配すらあった。
そんな女と談笑しようなどとは想いもしない。
セツナの目的とは一切関係がないのだ。
セツナが地獄に堕ちた目的は、自身を鍛え上げることだけであり、それ以外のなにものでもなかった。
この地獄の主催者が黒き矛たる魔王であるということがわかったのだって、ここに来てからのことだ。まさか地獄が黒き矛の本来在るべき世界である、などとは、想像しようもない。
黒き矛には魔王の杖という異名がある。
百万世界の魔王、その力の発露であるともいわれるその召喚武装が属する世界が、魔王の本拠地だということは考えなくともわかる。だが、それが地獄だとは、想いも寄らないことだった。魔王と地獄が結びつかなかったからだ。
しかし、よくよく考えてみれば、ありえないことではない、と思い至った。
地獄も魔界も冥府も黄泉も、似たようなものなのではないか。呼び方が違うだけで、同じ領域、同じ世界を指しているのではないか。などという結論に至ったからだ。
(そしてここは、魔王の塔)
この地獄の空をも貫くような長大な塔こそが魔王の牙城であり、伏魔殿であるらしいのだが、魔王の本拠地としては、多少、奇を衒いすぎなのではないか、と想わないではない。もっと立派で荘厳な宮殿や王城こそ、魔王の居城に相応しいような気がする。
(とはいえ)
そんなことを考えている場合ではなかった。
昇降機が止まり、扉が開いたのだ。
つまり、最上階に到達したということであり、開かれた扉の先には、無明の暗黒空間が口を開けて待ち受けていた。
一切の光が存在しない完全なる暗黒空間は、まるで虚無の闇であり、セツナは、その光景を目の当たりにした瞬間、唖然とした。混じりけのない闇が昇降機の扉の先を満たしている。どれだけ目を凝らしても、なにも見えない。なんの手がかりもなければ、足がかりも見つからなさそうだった。
これでは、なにがあったものかわかったものではない。
そう思っていると、喪服の女が淡々とした足取りで闇の中に踏み出していった。昇降機の床を踏むことで鳴っていた軽やかな靴音が、闇に入った途端、なにも聞こえなくなる。光だけでなく、音までも吸収されてしまうかのように、だ。
そして、喪服の女の装束もまた、闇に溶けていた。闇そのものを身に纏っていたような女だ。その後ろ姿となれば、完全に闇と同化してしまいそうであり、目を凝らさなければその存在を認識することも難しいのではないか。
「ここが最上階です。が、当然のことながら、謁見の間まではしばらく歩く必要がありますので、気をつけてくださいね」
幸い、女の声は、セツナの耳に届いた。反響することはなく、余韻も残さず消えていくようなか細い声だが、集中していれば聞き逃すことはない。ただ、疑問は浮かぶ。
「気をつける……って、なにに?」
「闇に飲まれぬように、です」
「闇に……」
セツナは、思わず女の周囲を見回した。女は、闇の上に浮かんでいるのではなく、立っている。つまり、足場はあるのだが、その足場が狭いのか、それともまっすぐな通路になっていないのか。
「足を踏み外せば最後、闇に飲まれ、奈落の底へ逆戻りですので」
「逆戻りっていっても、死にはしないんだろ?」
「さて……どうでしょう?」
「なんでそこで自信なさげなんだよ!」
「だって……ここまで辿り着くことができたお客人は、セツナ様が初めてですので……」
彼女はこちらを振り向き、どこか申し訳なさそうにいってきた。頭巾から除く顔の下半分と首の辺りだけが、異様なほどに白く、浮いている。
「闇に飲まれたものがどうなるかなど、わたしには知る由もなく……」
「おいおい……」
「まあ、わたしの歩いた通りに進めばいいだけのことですから、問題はないかと」
「……そうだけど」
なんだか不安になったのは、彼女が悪意を働かせないとも限らないという想像があったからだ。しかし、彼女を信用してついていくしか道はなく、迷っている場合でもなかった。
セツナが昇降機の中からおそるおそる出て、足場を確かめていると、女は、口辺に笑みを浮かべたようだった。ちなみに、足下には確かに床があり、それはかなり硬質だった。塔の床と同じ材質かどうかはわからないが、少なくとも木製などではない。
「なにかおかしかったか?」
「いえ。あまりにもおっかなびっくりされているので」
「そりゃあそうだろ」
セツナが憤然というと、女はことさらに楽しげに嗤うのだ。
「最終試練を突破されたほどの御方が、なにを恐れる必要があるのです?」
「あんたが恐怖を煽ったんだろうが」
「それは……まあ、そうですが」
女が少しばかり戸惑ったような素振りを見せる。その仕草にはどことなく見覚えがあるような気がするのだが、気のせいだろう。似たような身振り手振りをする人間など、数多といるはずだ。それが記憶のいずれかに引っかかった、その程度に過ぎない。
「ですが、鍵の試練を乗り越えられたのであれば、自信もついたはずなのでは?」
「自信……自信ねえ」
「つかなかった、と?」
「どうだろうな。なんともいえねえや」
正直な感想ではあった。
地獄では、合計九つの試練を与えられ、突破してきたことになる。
試練をひとつ突破するたびに着実に成長し、強くなれているという実感があった。ランカイン、ウェイン、ルクスの試練もそうだったし、鍵の試練もそうだ。どの試練も、セツナの成長を大きく促進させるものであり、すべてを終えたいま、試練以前の自分とは比較しようもないほどに鍛え上げられた、と、胸を張っていえた。
確信がある。
この試練は、決して無駄にはならず、以前のような弱い自分と決別するには十分過ぎるほどのものだった。
だが、しかし。
これでは、足りない。
これだけでは足りないのだ。
もっと、もっと強くならなければ、ならない。
もっと、どこまでも。
求め始めればきりがないが、欲深な人間なのだから、それでいいのだと思わないではない。
求め続ける先にこそ、強い自分がいる。
そう信じることができるようになったのは、この地獄の試練の成果のひとつといえるだろう。
「では、もう一度、一から試練をやり直しますか?」
「はっ」
セツナは、苦笑するしかなかった。
「さすがにもういいだろ」
地獄の最初から試練をやり直したところで、より強くなれるかというと、なれないだろう、と思わずにはいられない。
乗り越えてきたのだ。
地獄に示された試練の数々を突破し、凌駕し、超越してきた。
だから、ここにいる。
だからこそ、ここにあるのだ。
「でしたら、御自分を卑下なさらず、自信を持ってわたしの後についてきてください。満ち溢れる自信こそ、この傲慢極まる闇を退ける唯一の力ですから」
「傲慢なる……闇……?」
「では、参りましょう。主がお待ちです」
「あ、ああ」
気になる言葉ではあったものの、問い質したところで喪服の女が答えてくれるとも思えず、セツナは、早々に歩き出した彼女の後についていくしかなかった。