第二十九話 飛翔将軍の魔剣
「おおお!」
雄叫びとともに振り回した漆黒の矛があざやかな弧を描き、眼前の敵兵を、その全身を覆う分厚い鎧ごと真っ二つに断ち切った。黒き矛の前では鋼鉄の鎧も意味はなく、肉も骨ももろともに両断される。
その瞬間、セツナは、今度こそみずからの手で殺戮を行ったのだと認識した。肉体を突き動かしたのは純然たる殺意であり、敵を討ち果たさんとする純粋な衝動だった。
そこに一切の雑念は存在せず、故に、言い訳などまったくもって存在し得なかった。
黒き矛の切っ先が眼前の敵兵を肩口から斜めに断ち切っていく様は、大量の血液が飛散するのと相俟って、とてつもなく鮮烈で強烈な光景だった。だが、もはやセツナの心を苛むものはなかった。先の炎による大量虐殺で、感覚が麻痺してしまったのかもしれない。
断末魔の叫びの中で絶命した敵対者の既に肉の塊と化した体が、わけもなく崩れ落ちていく様子を見届ける暇もない。
ここは戦場なのだ。
生と死が交錯し、正気と狂気が輪舞する。
剣が踊り、槍が舞い、弓が歌い、血が跳ねる。
その狂乱の淵では、立ち止まることなど許されなかった。考えている余裕もない。ガンディア軍の優勢が決定的になったとはいえ、セツナの周囲には敵兵が満ちていた。
雲霞の如くというのは言い過ぎにせよ、数え切れないほどの敵兵と、二百人そこらのガンディアの傭兵たちが入り乱れ、血で血を洗う闘争を繰り広げていた。
《蒼き風》の面々も、猛り狂っているかのような戦いぶりを見せていた。中でも、《剣鬼》ルクス=ヴェインの活躍には目を見張るものがあり、セツナは、ルクスの姿を視界の端にでも見出すと、ついつい彼に意識を向けてしまう自分に気づいていた。
彼の《剣鬼》と呼ばれる所以を垣間見れば、そうなるのも仕方がないのだろう。美しくも碧き長剣を自由自在に振り回し、数多の敵兵を容易く斬り殺していく様はまさに剣の鬼であり、素人が見ても、彼の凄さは際立っていた。
といって、シグルド=フォリアーやジン=クレールが負けているかというと、そうではない。彼ら《蒼き風》の中心メンバーだけで、百人以上のログナー兵を殺しており、それはもはや規格外の強さといっても過言ではないのかもしれない。
もっとも、強さの基準などわかるはずもなかったが。
「おまえが!」
「!」
突如としてセツナの鼓膜を突き抜けたのは、怒りに駆られた激情だった。同時に、セツナの後方から鋭利な殺気が飛来する。猛々しい敵意。ただ目の前の敵を殺したくて仕方がないという意志の塊。
セツナは、瞬時に背後へと向き直ると、ひとりの兵士が飛び掛ってくるのを目の当たりにした。
「おまえがやったのか!」
矢の如く飛来したのは、軽装の若い男だった。年のころは二十歳かそこらに見える。こちらを見据える瞳には狂気が宿り、全身からは凄まじいまでの怒りが迸っていた。
「同胞を! 友を! みんなを!」
セツナは、そのあまりの形相と剣幕に気圧されはしたものの、しかし、青年兵の勢い任せの突撃を受けるような真似はしなかった。セツナの頭が意識するよりも速く、肉体が反応したのだ。
青年兵の取った行動は、直線的な突進だった。その勢いに乗り、手にした剣でセツナを突き殺そうとしたのだろう。しかし、それはもはや無理な話だった。
「――!?」
青年兵がセツナの立っていた場所に到達したときには、既に、セツナの肉体は中空にあったのだ。
セツナは、冷ややかに告げた。
「だったらなんだよ」
敵兵の頭上で、セツナの上体が旋回する。漆黒の矛はうなりを上げながら、目標を見失った青年兵の頭を胴体から切り離して見せた。首から血が噴き出す瞬間を見届けられなかったのは、セツナが、地面に落下しなければならなかったからに他ならない。着地に失敗するのは、空中でありえないような動作をした代償だろう。
「っ!」
地面に右肩から落ちたセツナは、その衝撃と痛みに声にならない悲鳴を発した。直後に聞こえた物音は、青年兵の死体がくずおれたことによるものに違いない。なんであれ、支える力を失えば、倒れるしかないのだ。
支える力もなく落下したのは、セツナも同様であろう。そもそも空中から落ちていく体を支えるものなどあろうはずもないが。
「だったら、なんなんだよ……」
セツナは、右肩を抑えながら立ち上がると、青年兵の亡骸を見下ろした。地面に転がる頭部と、胴体。彼だけのものではない大量の血が、焼けた地面を赤黒く染めていた。感慨はない。激情もない。衝動など生まれるはずもなく、あるのは、ひとを殺したという実感だけだった。
いや。
「そうさ。俺がやった。俺が、この手で! この黒き矛で! 俺が! 俺が……!」
セツナは、心の奥底からふつふつと湧きあがってきた感情を抑えることもできず、ただ、叫び声を上げた。そうすることしかできなかった。なぜかはわからない。どうしようもない感情の奔流が、彼から冷静さを失わせていた。
矛を掲げ、視線が集まろうとも気にせずに、絶叫する。
「おおおおおおおおおおおおおおお!」
それは、魂の咆哮だったのかもしれない。
「なんだ……?」
レオンガンドは、右翼の敵陣から聞こえてきた雄叫びに、目を丸くした。それは勇猛な咆哮のようでありながら、実際のところは慟哭のようだったのだ。
(慟哭?)
レオンガンドは、みずからの考えに首を捻ったものの、その勇ましくも物悲しい叫び声に込められた想いからは、慟哭という結論しか導き出せなかった。しかし、だれが戦場で慟哭を上げるというのだろう。
敗勢へと追い込まれるログナー陣営のだれかか?
いや、それはありえないことのように想える。敗色が濃いとはいえ、ずべての将兵が絶望しているわけでもなく、絶望したところで、慟哭など発するだろうか。
では、いまや勢いに乗って勝ちを得ようとしているガンディア陣営なのだろうか。勝利を目前に控えているとはいっても、歓喜にむせび泣くようなこともなければ、慟哭することなどありえない。
ならば。
(セツナか?)
レオンガンドの脳裏を過ぎったのは、あの武装召喚師の少年のどことなく危うい表情だった。
彼もまた、レオンガンドと同じく、戦場に立つのは初めてだという。
とはいえ、彼も武装召喚師なのだ。レオンガンドは、セツナが戦場に出ることにいささかも心配していなかった。そして、予想を遥かに超えた活躍をして見せたのだ。戦局を変えるほどの大活躍。その結果、ガンディア軍は優勢に立ち、いままさに、勝利を目前のものとしていた。
勝利。
それは、レオンガンドが待ちに待った約束のときであり、それこそが、すべての始まりだった。
(セツナ、君のおかげだ。ようやく、すべてが始まる……!)
それが起きたは、レオンガンドがセツナへの感謝を心の中で紡いだときだった。
「まだまだあっ!」
呆れるほどの大声とともに、レオンガンドの前方で敵兵と交戦していたガンディアの精兵十数人が、一斉に、空高く舞い上げられた。絵に書いたような光景だった。
何の前触れもなく、レオンガンドの前を護る精兵中の精兵たちが、ものの見事に吹き飛ばされたのだ。怪力とも強力とも言えない、正体不明の力によって。
レオンガンドは、呆気に取られるしかなかった。
「あなたを殺せば、うちらの勝利ってことだろう?」
冷ややかで明確な言葉は、レオンガンドの足元からだった。吹き飛ばされた兵士たちに気を取られた隙に、忍び寄ってきたのだ。
「!」
レオンガンドは、馬の足元に視線を落とした。歪な剣を携えた群青の騎士がいた。即座にレオンガンドの脳裏を巡るのは、その青き騎士に関するいくつもの情報だった。
ログナーの《青騎士》ウェイン・ベルセイン=テウロス。ログナーの名将セイン=テウロスの孫にして、ログナーでも数少ない武装召喚師であり、そして、
(飛翔将軍の魔剣!)
レオンガンドの胸中のそれは、もはや絶叫に近かった。