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第二千九百九十三話 自由というもの(八)


 逢いたい。

 ただそう想った。

 そう想うと、途端に、真っ白な空白であるということに拘っている自分が馬鹿馬鹿しくなった。居場所は確かに大切だ。そして、その居場所をみずからの意志で失ってしまったという事実もまた、忘れていいことではない。だが、それはそれとして、皆に逢いたいという本当の気持ちに嘘をつくことなどできるわけもなかった。

 皆の期待を裏切り、信頼を踏みにじり、約束を破った。

 その事実に対する罪も罰も、皆に逢って直接受けるべきことではないのか。

 どくん。

 聞こえたのは、心音のようであり、世界の鳴動のようでもあった。

 世界。

 真っ白な空白を取り囲む怨嗟の如き混沌の奔流。

 自分以外の他を示すそれらは、セツナが導き出した結論を嘲笑うかのように震え、蠢いた。

「勝手なことをいうものだ」

 だれかがいった。

「裏切ったのは、君自身だろう」

「信じていたのに」

「期待していたわ」

「約束したじゃない」

「踏みにじっておいて、逢いたい?」

「そんな身勝手な振る舞いが許されるとでも?」

 いくつもの声がこだまして、数多の想念が絡み合い、幾多の悪意が渦を巻く。セツナを取り囲み、そのどす黒い極彩色でもって世界を塗り潰していく。より強く、より激しく、より鋭く。空白の領域に迫り、侵蝕を始める。

(ああ、わかっている。わかっているとも)

 どのような非難も受け入れよう。否定されようとも、罵倒されようとも、断罪されようとも、すべて、受け入れる覚悟があった。むしろ、その程度の覚悟もなく、一度裏切ったひとびとに逢いたい、などと想ってはいけないのだ。

 軽い気持ちで再会を期待してはいけないのだ。

 わかりきったことだ。

 なにもかも、わかりきっている。

「どこにもあなたの居場所はないのに、戻ってきて、どうするの?」

 鋭く痛い響きだ。

 だが、それは、そんなことは、いま考えることではない。

 いまはただ、皆に逢いたい、その一心だった。

 それだけがすべてで、だから、混沌の奔流が空白の中に流れ込み、全身を体の内側から引き裂き、切り刻み、破壊していくようなその痛みさえも受け入れることができたのだろう。なにもないはずなのに肉体の存在を自覚し、知覚する。足の爪先から頭の天辺まで、その存在を認識し、故に激痛が意識を責め立てる。

 頭の中が真っ白になるくらいの衝撃の連続。体がばらばらに砕け散るような痛みの連鎖。痛みが痛みを誘発し、重なり合って膨れ上がり、爆発的に増加していく。

 骨を砕かれ、筋肉を潰され、皮膚を割かれ、内臓に穴を開けられていく――そんな感覚。

 それが現実のものなのかどうかなど、考えていられるような状況ではなかった。

 ただ、痛みだけが膨れ上がり、空白が埋め尽くされていく。

 真っ白な空白が、混沌とした色彩に塗り潰されていく。

 そして、それら極彩色の世界が血となり肉となって、肉体を形成していくのがわかった。

(ああ、そうか……)

 セツナは、唐突に理解した。

 真っ白な空白が自分で、混沌たる極彩色の世界が他人なのではない。

 真っ白な空白も、極彩色の混沌も、すべて自分なのだ。

 流れ込んでくるのは、他人の意志ではなく、自分が思い描く他人の意志だ。

 つまり、セツナから見たファリアであり、セツナから見たルウファであり、セツナから見たレオンガンドだった。

 自分を取り囲み、自分を罵倒し、呪い、恨んでいたのも、全部、自分自身そのものであり、自虐であり、自己否定であり、自暴自棄といっても差し支えのないものだったのだろう。

 でも、だからといって、自分が犯した過ちについてのすべてが許されるわけではない、ということも理解しなければならない。

 罪が軽くなることも、事実が覆ることもない。

(わかっている。わかっているさ)

 自分自身を切り刻む自分そのものたる奔流のすべてを受け入れて、彼は、拳を握った。真っ白な空白は、混沌そのものたる自分によって満たされ、色を得たのだ。

 視界が開けていく。

 するとそこは、やはり闇の海辺だった。

 どこからともなく降り注ぐわずかばかりの光が、海辺に打ち寄せる波に反射して、禍々しくも輝く。その光こそ、この暗黒の世界を際立たせるものであり、光が在るからこそ、闇もまた深くなるのだろう。そして押しては返す波の上に、黒衣の老人が佇んでいる。

 マスクオブディスペア。

「自らの由を知ることができたようですな」

「自らの由……か」

 それが存在する意義であり、理由であり、価値なのだとしたら、セツナには、まだよくわかっていないことかもしれなかった。

 セツナが実感したのは、ただ、この地獄の試練を一刻も早く突破して、現実に帰りたいという本心であり、偽らざる本音だった。それだけがすべてといっても過言ではない。ほかのことはどうでもいい。ただ、帰り、皆にもう一度逢いたい。

 それだけだ。

 その先のことは、考えられなかった。

 それが自らの由というのであれば、そうかもしれない。

 居場所などなくたっていい。

 皆に逢えても、元には戻らないかもしれない。いや、元通りになどなれるわけもない。嫌われているかもしれない。逢ってくれないかもしれない。怒りをぶつけられるだけで済むとは考えられないし、それ以上に、もう一度逢えるとは言い切れないのだ。

 でも、それでも、逢いたい。

 その想いの強さは、自分でも驚くほどに純粋で鮮烈だった。

「たぶん、そうなんだと想う」

「たぶん、ですか。それはまた、随分と頼りのないことですな」

「でも、それが俺なんだよ」

 セツナは、老人の呆れたような表情を見遣りながら、告げた。暗澹たる闇の中、それでも老人の表情ははっきりと認識できる。目が闇に慣れているから、とか、そういうことではない。彼がそのようにして、この世界を形成しているということに違いない。

 試練の領域は、主催者次第でどのようにでも変化する。

「俺は俺なんだから、頼りなくて当然なんだ」

「開き直られても困りますが」

「開き直ってるわけでも、諦めてるわけでもなんでもない。ただ、ありのままの自分を受け入れただけのことさ」

「ふむ……まあ、よいでしょう。あなたは、御自分の存在意義を確立なされたのですからな」

 彼は、めずらしくセツナを賞賛したものの、すぐさま表情を変えた。

「ですがそれは、わたしめの試練の開始地点に立てた、ということに過ぎませぬぞ」

「え……?」

「なにを驚いておられるのです」

 マスクオブディスペアは、またしても呆れたようにいった。

「わたしがいつ、あれを試練といいましたかな」

「……確かに」

 その通りだ、と、セツナは認めるほかなかった。

 確かに老人は、あれを試練とはいわなかった。ただ、問うただけだ。セツナに対し、存在意義の有無を聞いただけであり、それがあの空白と混沌を生み出したのだ。このマスクオブディスペアの領域では、自分を確立できないものは、ああいう目に遭う、ということだろう。

 そうとしか考えられない。

 そしてそれを突破して、ようやく試練になる、ということだ。

「とはいえ、もはや自らの由を知るあなた様に小難しい試練を受けさせる意味などありますまい」

 老人が、右腕を掲げると、手のひらを海面に向けた。すると、暗黒の波が渦を巻き、黒い奔流となって立ち上っていく。まるで黒い竜巻のようなそれは、急激に巨大化し、マスクオブディスペアすら飲み込みかけた。が、さすがにそうはならなかった。

 マスクオブディスペアは、竜巻を逃れるようにして遠くに離れ、闇の海を飲み込むほどに成長を続ける竜巻を見守り続けた。

 セツナは、身構えた。

 最終試練がついに始まったからだ。


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