第二千九百九十二話 自由というもの(七)
真っ白な空白こそ、なにもない自分に相応しい色彩であり、その孤独な世界こそが自分の居場所なのだと、理解し、認識する。
孤独。
それほど恐ろしく、息苦しいものはなかった。
人一倍寂しがり屋のくせに、そのことをひた隠しに隠し通し、だれとも群れようともしなかった。そんな子供時代を想い出しては、震える。
外の世界に居場所はなく、だから、居場所のある家に籠もったのだ。家にいれば、自室に籠もってさえいれば、孤独を紛らわせる方法はいくらでも思いついた。ふとした瞬間に我に返り、孤独という現実に直面するのだが、見て見ぬ振りをして、やり過ごすことくらい、いくらでもできた。
なぜならば、家は自分の居場所であり、安らぎがあったからだ。
自分の居場所さえ確保できていれば、維持できていれば、それだけでよかった。
それだけで、たぶん、幸福だったのだ。
なのに。
孤独の白が洪水のように押し寄せた膨大な色彩に塗り潰され、莫大な意志によって埋め尽くされていく様を目の当たりにして、息を呑む。孤独は一瞬にして消え去り、同時に数多のひとびとの意志が意識を圧迫していく。
多種多様な意志と思考、言葉と想念が殺到したのだ。
他人の言葉。他人の想念。他人の意志。他人の思考。
津波の如く押し寄せて、セツナの意識を飲み込み、塗り潰したそれらは、耳元で囁くだけでは飽き足らず、頭の中でわめき散らし、怒号を飛ばし、猛り狂った。ただの疑問は詰問となり、非難や糾弾へと変わっていく。
なぜ、逃げたのか。
なぜ、戦い続けなかったのか。
なぜ、ガンディオンとともに死ななかったのか。
なぜ、どうして。
答えようもない問いばかりが意識を席巻する。
矛が折れても、戦えたはずだ、と、だれかがいった。
その通りだ、と、いうほかない。
それは事実だ。
折れたのは黒き矛だけであり、眷属たる召喚武装を呼び出すことはできたのだ。ランスオブデザイアを召喚しても良かったし、アックスオブアンビションでも良かった。ほかの召喚武装を併用してもいいし、なんなら、まったく新しい召喚武装を呼んでみる、という手もあった。
戦いようはいくらでもあったのだ。
なのにセツナは、そうしなかった。
黒き矛とともに、心までもが折れてしまったからだ。
「そんなもの、ただの言い訳じゃない」
だれかがいった。
その通りだ。
戦うといったなら、宣言したなら、約束したなら、たとえその身が砕けようと、心が折れようと、最後まで戦い抜くべきだ。
その結果、命が失われようと。
死が待ち受けていようと。
それこそ、自分が望んだ道ではなかったのか。
だが、もはやどうしようもない。
時は、進んでしまった。もう戻すことはできない。戻ることはできない。いま此処で命を絶ったところで、それで許されることではない。
取り戻せるものなど、なにひとつないのだ。
なにもない。
(空っぽなんだ……)
混沌に染まった世界の中心に浮かぶ空白。
それが自分だ。
世界には多様な色彩があり、数多の意識思考が存在する。それらと一切混じり合わない真っ白な空白。つまり、居場所がないということだ。当然の末路だと、彼は想う。ようやく手に入れ、盤石のものとなったはずのみずからの居場所を手放してしまったのだ。
そんな薄情なものを、だれが受け入れてくれるものか。
だれが、認めてくれるものか。
だれが必要としてくれるものか。
期待を裏切り、信頼を踏みにじり、約束を破ったのだ。
もう二度と、取り戻せない。
それが現実だ。
たとえ地獄の試練を潜り抜け、黒き矛の本当の意味での使い手として成長することができたとして、その先になにがあるというのか。
あの世界に舞い戻ったところで、そこにはもはや自分の居場所はない。
なぜならば、既に自分の意志で手放しているからだ。
自分の居場所だったはずのガンディアを見捨て、逃げ出して、ここにいる。
いまさら戻ったところで、居場所を取り戻すことなどできはしない。
永久に失われてしまった。
(孤独……)
セツナは、静かに認めた。
孤独。
それがいまの自分のすべてだ。
ひとりぼっちの空っぽの存在。
真っ白な空白として虚空に溶けて、そのまま消え入ってしまうような、そんなちっぽけな存在に過ぎない。
(俺は……)
なにがしたかったのだろう。
なにを求めて、ここに来たのだろう。
なにを望み、なにを願い、なにを祈り、なにを欲したのか。
地獄の試練を潜り抜けて得られる力は、いったい、なんのためのものなのか。
セツナが現実世界において血反吐を吐くような鍛錬を続けてこられたのは、居場所を護るために必要だったからだ。黒き矛の使い手として成長するためには、肉体的にも精神的にも鍛え上げなければならず、それも生半可な鍛錬では到底足りなかった。
どれだけ鍛えても、まだ足りない。
もっと、もっとと想ううちに、やがていっぱしの戦士となり、心身ともに鍛え上げられていった。
それもこれも、自分の居場所たるガンディアのためであり、それ以上でもそれ以下でもなかった。
では、この試練はなんのためなのか。
居場所は、もはやなくなってしまった。
現実に舞い戻っても、取り戻すことなどできるわけもない。
ならばなぜ、力を求める必要があるのか。
もう必要ないのではないか。
居場所を護るために求めた力だ。
居場所がないのであれば、不要だろう。
なにも護れなかったものが、なにもかも捨ててしまったものが、さらなる力を手にしたところでどうなるものでもない。また、さらに大きな力にぶつかれば、同じように逃げ出すだけのことだろう。
だったら、諦めるべきだ。
諦めて、この空白に溶けてしまえばいい。
この孤独の空白こそ、自分に相応しい居場所ではないか。
自分のような半端者には、なにもない虚空こそが相応しい。
混沌たる世界に居場所はなく、入り込む余地もない。数多の声が、幾多の意志が、膨大な想念が、莫大な思考が、奔流となって渦を巻いている。嵐のように。洪水のように。セツナを非難し、罵り、否定し、拒絶している。
おまえのための居場所などここにはないのだ、と主張しているようだった。
おまえの寄る辺など、どこにもない、と。
(その通りだな……)
認めるしかない。
元より、寄る辺などなかったのだ。異世界イルス・ヴァレ。アズマリアの召喚に応じたがために辿り着いた異世界での日々は、いつしか、当然のようになっていた。けれどもそんなものはただの勘違いでしかなく、同一存在としてのニーウェがいたように、セツナが入り込む余地など、最初からなかったのだ。
(俺の居場所なんてなかったんだ)
寂しいが、それが現実だ。
認めたくなくとも、それが事実なのだ。真実といってもいい。
そもそも、本来在るべき世界に自分の居場所を作れないような人間が、異世界に自分の居場所を見出そうとすることそのものが間違いだったのだ。
自分には、このなにもない真っ白な空白こそが相応しく、故に孤独に苛まれるのがお似合いなのだ。
(でも……)
それでも、と、真っ白な空白の中で、セツナは、想う。
(逢いたいな……)
切実な想いだった。
逢いたい。
それだけは紛れもない事実であり、揺るぎようのない真実だった。
(俺は逢いたいんだ)
たとえそこに居場所がなくたって構わない。
たとえそこが異世界で、自分の在るべき世界でなくとも、関係ない。
ただ、逢いたいのだ。
(皆にもう一度逢って、話したいんだ)
そう想うと、いても立ってもいられなくなった。