第二千九百九十一話 自由というもの(六)
自分がなにものなのか。
彼は、そう問うた。
存在する理由を。
存在する意義を。
存在する価値を。
彼は、質問として投げかけてきた。
セツナは、返答に窮した。
きっと、答えを知っていたからだ。
自分が何故、此処に存在しているのか。
その理由、その意義、その価値について。
知らないはずがなかった。
見て見ぬ振りはできない。
知らない振りをし通すことなど、できるわけもない。
此処に至るまで、随分と考えさせられた。何度となく、幾度となく。
何故、地獄に堕ちたのか。
何故、地獄を駆け抜けてきたのか。
何故、魔王の杖の眷属、その試練を受けてきたのか。
(俺には……なにもない)
セツナは、血反吐を吐くような想いで、いった。それが自分という人間のいまのすべてだ。なにもかもを失ってしまったのだ。いや、違う。みずからの意志で手放してしまったのだから、失ったのとはわけが違う。ここにいるのは自分の意志だ。だれかに命令されたからではなく、そうしなければならなかったからでもない。
矛が折れ、心までもが折れた。
そして、逃げたのだ。
現実から逃げ出すようにして、この夢幻の地獄へと堕ちた。
それはつまり、みずからの手でみずからの居場所を破壊してしまったのと同じことだ。
居場所は、ガンディアにこそ、在った。
寄る辺なき異世界で、セツナに手を差し伸べてくれたのは、レオンガンドであり、彼の国の中にこそ、セツナの居場所が在ったのだ。だから、セツナは、レオンガンドの矛となり、彼のため、彼の国のために戦い続けることができた。
すべては居場所のため。
自分の居場所を護るため。
自分を護るため。
そこに自分の価値が生まれた。
存在する意義も理由も、そこに後付けされた。
セツナ=カミヤは、ガンディアの英雄と呼ばれるようになり、ガンディアにいるだれもがその存在を認め、受け入れ、歓迎し、賞賛し、尊崇するものさえも現れるほどとなった。
それもこれも、彼がみずからの居場所としてのガンディアを護ることに躍起になっていたからだ。
英雄になりたかったわけではない。
ただ、居場所が欲しかった。
だれかに認められ、必要とされたかった。
きっとそれがすべてで、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。
だから、いま、セツナにはなにもないのだ。
空白であり、虚無そのものだ。
なぜならば、みずからの意志でその居場所を見捨て、地獄に逃げ出したのだから。
そのとき、その瞬間、セツナの居場所はなくなってしまった。
自分を認めてくれたひとびとを見捨て、自分を必要としてくれるひとびとを裏切り、自分を信じてくれたひとびとの想いを踏みにじった。
その結果、ガンディアはどうなったのか。
マスクオブディスペアの言葉通り、失われたのだとしても、滅びたのだとしても、おかしくはない。
ガンディアは絶体絶命の窮地に置かれていた。
三大勢力による“約束の地”争奪戦が大陸全土を巻き込む大戦争となり、その中心にこそ、ガンディアが在ったからだ。大陸小国家群に属する国々が次々と蹂躙されていく中で、ガンディアの領土も三大勢力の圧倒的軍事力の前では為す術もなかった。
飲み込まれ、取り込まれていった。
最後に残ったのは、王都ガンディオンだけだ。
だから、セツナは、戦った。
最大勢力を相手取り、戦って、戦って、戦い抜いた。その果てに死が待ち受けていようとも、構わないと想った。なぜならば、ガンディアこそが自分の居場所であり、自分のすべてだったからだ。ガンディアを失うということは、自分のすべてを失うのと同義だ。死んでも惜しくはない。
そう、想った。
「だったら、どうしてそこにいるんだい?」
疑問の声に、ぎょっとする。
レオンガンド・レイ=ガンディアの声は、ひどく穏やかで、故にこそ鋭く研ぎ澄まされた刃のようにセツナの心を抉った。
「どうして、死ななかった」
非難しているわけでも、詰っているわけでもない。ただ、疑問に想ったことを口にしているような、そんな口調で、彼はいってくる。
「わたしの矛となり、わたしのために戦ってくれるといってくれたのは、嘘だったのかい?」
レオンガンドの問いかけに対し、セツナは、返す言葉を持ち合わせていなかった。
いつか交わした約束を破ったのは、ほかのだれでもない、自分自身なのだ。信頼を踏みにじったのも。絆を破り捨てたのも。なにもかも、セツナ自身のしたことだ。
あの日、あのとき、あの場所で。
セツナは、現実から逃げ出した。
だから地獄に堕ちて、ここにいる。
返答は出来ない。なにをいってもただの言い訳になる。どのような理由があれ、セツナがガンディアを見離してしまったという事実を否定することはできないのだ。
たとえ、戦いの果てには死しか待っていなくとも、だ。
「どうして?」
ファリアが問うた。
「どうしてよ?」
今度はミリュウが、聞いてくる。
「なぜでございましょう?」
「なんでだよ」
「なにゆえ、じゃ?」
「どうしてですか?」
「どうしてなの?」
レム、シーラ、ラグナ、ウルク、エリナ――つぎつぎと浴びせられる疑問の言葉に対し、セツナは、なにも言い返せなかった。ルウファにエスク、それ以外にも数多くの声が、セツナに問う。なぜ、ガンディアを見捨てたのか、と。なぜ、あの場を去ったのか、と。
なぜ、最後まで戦い抜かなかったのか、と。
その結果、命を落とすことこそ、本望だったのではないか。
望むところで三大勢力に挑んだのではないのか。
勝ち目のない戦いだった。
たとえ黒き矛と眷属の力を用いたところで、覆しようのない戦力差があり、どう足掻いたところでどうしようもないことはわかりきっている。
もちろん、雑兵如きに後れを取るセツナではない。黒き矛と眷属たちを用いれば、何千何万の敵を殺戮し、その圧倒的かつ絶大な力を見せつけることはできるだろう。それこそ一騎当千、古今無双の戦いぶりとなるはずだ。
が、それがいつまでも続くわけではない。なにせ、帝国は膨大な数の武装召喚師を保有し、聖王国は数多の魔晶兵器を擁しているのだ。それらとの戦いが本格化し、長引けば、いつかは消耗し尽くして、力尽きることくらいわからないセツナではない。
そしてそうなれば、セツナとて死ぬ以外にはないのだ。
それでもなお、戦うことに拘ったのは、セツナ自身だったはずだ。
ガンディオンに留まり、三大勢力を迎え撃ったのも、死を覚悟してのことだ。
勝てる見込みはなかった。
覆せるわけもない。
大海に挑む蟻のようなものだ。
ただ飲み込まれ、命を落とすだけのこと。
そんなことはわかりきっていて、それでも我慢ならないから、戦ったのだ。
許せなかった。
ただ、それだけだ。
ガンディアを、自分の居場所を蹂躙するものたちへの怒りがセツナを駆り立て、突き動かした。その怒りと衝動の果てになにが待ち受けていようと構わなかった。
むしろ、死に場所をこそ、求めていたのではないか。
だったらどうして、ここにいるのか。
死なずに逃げて、生き延びて、地獄に落ち延びたのか。
『どうして?』
詰るでもなく、憤るでもなく、ただ、純粋に疑問を口にしたかのような数多の問いは、セツナの心を塗り潰していく。
空白の、虚無のような心を、混沌たる色彩で埋め尽くしていく。
声も出ない。