第二千九百九十話 自由というもの(五)
マスクオブディスペアが、なにゆえ、過去を振り返らせるのか。
それがわかるのは、まだまだ先のことなのだろう。
そんな予感がする。
周囲に積み上がっていく死体の数は増える一方で、減る気配はない。当然のことだ。殺した結果が覆されることなどないのだ。奪った命は、この程度ではない。そして、死体は人間だけではなかった。皇魔も数多く混じっている。そして、膨大な量の血が大河の如く流れていて、膝まで浸かっていた。
むせ返るような血と死の臭いには、もはや慣れきってしまっている。
感覚の麻痺。
ひとの命を奪うことが当たり前になってしまったのは、いつからだろうか。
もはや躊躇はなく、敵となれば手当たり次第殺し尽くすことで、味方の損害を極力減らし、勝利に貢献することばかりが頭の中にあった。
単純に、考えてはいられないからだろう。
戦国時代なのだ。
人間同士が殺し合い、人間と皇魔が殺し合う、そんな時代。そんな世界。
敵を殺した数だけ評価され、命を奪った数だけ賞賛される。
大量殺戮者が英雄と崇められるのだ。
この世界、この時代においてはそれが普遍的な価値観であり、なにも間違ったことはしていない。
そう、言い聞かせていたのは間違いない。
言い聞かせ、信じ込み、自分を騙し続ける。
それを覚悟といい、決意という言葉だ飾り付けることで、欺瞞はさらに深まっていく。
虚偽と欺瞞によって、辛くも人間性を保っていたのではないか。
振り返り、直視すれば、そう想わざるを得ない。
それくらい、セツナの戦いは苛烈であり、情け容赦がなかった。
情けをかけた結果、味方に多大な被害をもたらしたことがあり、その事実が、セツナに心がけさせたのだ。
敵に情けをかけるべきではない。敵はすべからく殺すべきであり、立ちはだかるすべてのものは、容赦なく切り捨て、討ち滅ぼすべきなのだ。
でなければ、また、味方に不要な損害を出してしまう。
そうやって言い訳して、殺戮行為を正当化しなければ、自分を保てなかったのは事実だろう。
ザルワーン戦争も終盤、ガンディア軍の前に立ちはだかったログナーの守護竜との戦いは、セツナとクオンの共闘であり、それは、彼との間に一方的に抱いていたわだかまりを多少なりとも解消することとなった。それは、セツナにとって大きな出来事だったのだろう。だからこそ、強く印象に残っている。
(クオン……)
彼との再会がまさかあのような形になるとは想像もしていなかったことだが、それは、いま目の前に展開している光景とは関係がない。
ザルワーン戦争が終われば、つぎはエレニアだ。
エレニア=ディフォン。
ログナーの青騎士ウェインと恋仲だった彼女は、セツナへの復讐を果たそうとした。そのときのことは、よく覚えている。彼女の恨みと憎しみ、哀しみと怒り、様々な感情が綯い交ぜになり、刃とともに流れ込んできた。彼女の愛を奪い、絶望のどん底に突き落としたのは、セツナ自身だ。だから、その報いを受けた。
それだけのことだ。
故にセツナは彼女を恨まなかったし、当然のことと受け入れた。
あのまま殺されてもいいとさえ、想った。
彼女だけではないのだ。
もっと多くのひとびとに恨まれ、憎まれ、忌み嫌われている。
英雄になるとは、大量殺戮者になるとは、そういうことだ。
多少、弱気になった。なってしまった。それもまた、必然だったのだろう。
でも、死ななかった。
死ねなかった、とは、いうまい。
死なずに済んでよかったのだ。いまなら、そう想える。胸を張って、そういえる。生きていて良かった、と、心の底から、喉が裂けるほどの大声で断言できる。
あのとき死ななかったからこそいまがあり、多くの出逢いがあるのだ。
だから、エレニアにも死んで欲しくはなかった。絶望し、生きる意味を見失ってしまったのだとしても、それでも、生きていて欲しかった。生きて、希望を掴んで欲しかった。どうしようもないほど傲慢な考えかもしれないが、そう想った。
頭を振る。
死体の山は積み上がっていく一方だったし、血の河の嵩もまた増す一方だ。これからも増え続けるだろう。止めようがない。
レオンガンドとナージュの結婚式の前後、様々な出逢いがあった。シーラ、レムと知り合ったのも、ちょうどそのころだった。
そして、結婚式に送られた魔王からの挑戦状は、ガンディアとクルセルクの全面戦争へと発展させることとなる。
まず同盟国ミオンを攻め立てた。
クルセルク戦争においても、セツナは数多の命を奪った。敵のほとんどは、皇魔だった。魔王ユベルに付き従う大量の皇魔こそ、クルセルクの戦力であり、ガンディアを史上最大の窮地に立たせるものだったのだ。
ガンディアの総兵力を大きく上回る兵力を誇るクルセルク軍に対する秘策は、リョハンからの援軍であり、戦女神ファリア=バルディッシュと四大天侍の降臨は、劣勢のガンディア軍に大勝利をもたらすこととなった。
が、セツナの戦場は、そこにはない。
クルセルク領へ攻め込んだ突撃部隊の一員として、セツナは、クルセルクの戦場に在ったからだ。そして、クルセルクの地において、大量の皇魔を殺戮した。人間であろうと、皇魔であろうと、命は命だ。そこに違いはない。皇魔がイルス・ヴァレの人類の天敵であれ、交渉の余地もない存在であれ、命を奪った事実に違いはないのだ。
殺戮に次ぐ殺戮。
それがセツナに求められることであり、それだけが自分の居場所を確保するためにできることだった。
何千、何万という敵を殺し、命を奪い、死を与え、それでもまだ足りない、という。
もっと、もっと多くの敵を斃し、殺していかなければならないのだ。
休んでいる暇はない。悩んでいる場合ではない。迷っていることなどできはしない。
ただ戦い、ただ斃し、ただ殺せ。
戦場においては、それがすべてであり、それ以外に考えることなどなにもないのだ。
そうして思考を停止させておかなければ、やっていられない。
やっていられないのだ。
もはや辺り一面が血の海となり、大陸の如く積み上がった屍を見つめながら、想う。
クルセルク戦争で終わりではない。
ここからもさらに戦いは続く。
闘争の中にこそ、セツナの存在意義があり、存在理由があるのだから、当然だった。
そこで、はたと気づく。
(そうか……そういうことか)
屍の大陸がさらに高く積み上がっていくのを見届けることができなくなったのは、血の海が視界を赤黒く塗り潰してしまったからだ。大量の血が、口や鼻孔から入り込んできたが、そんな暴力的な現象もどうでもよくなっていく。脳裏に描かれる戦場の光景は無数に移り変わり、様々な場面を映し出す。数多の戦い、幾多の戦場、無数の闘争。
そこにこそセツナの居場所はあり、それだけがセツナの価値だった。
ガンディアにおいては。
だが、ガンディアにこそセツナの居場所があり、それを護らなければならなかったのだから、それで良かったのだ。
「その国も失われた。失われてしまった」
マスクオブディスペアの声が、血で埋め尽くされたはずの耳朶に響く。いや、耳ではなく、頭の中に聞こえているのかもしれない。低く嗄れた、しかし、聞き逃すことのない老人の声。絶望的な声音。血の海の奥底へ沈んでいく自分には、相応しいと想えた。
紅く、昏く、黒く、深く。
ただただ沈んでいく。
居場所も、護るものも、価値も、意義も。
なにもかも失ってしまった自分には、それこそ相応しい。