第二百九十八話 異変(四)
天将カーメル=ラメルは、ヴリディア砦の中庭にいた。
二十二日夜明け前、空は闇に覆われているものの、中庭には魔晶灯の光が溢れんばかりにあった。彼が砦内にある魔晶灯をかき集めさせたからだが、中庭の各所に設置された数多の魔晶灯が放つ青白い光は、カーメルに冷静さを取り戻させるには至らなかった。
恐怖がある。ともすれば膝が震え、立っていることもままならなくなる。
ゼオルを突破したガンディア軍がこちらに迫っているという報告が入ったのは、昨夜のことだ。もっとも、以前からわかっていたことではあるのだ。
ナグラシアからザルワーン各地への侵攻を開始したガンディア軍は、三つの進軍経路を取っていた。ひとつは、バハンダールを目指す西側侵攻経路。ひとつは、スルークを迂回してマルウェールへ至る北進経路。最後が、ナグラシアから一直線に龍府を目指すかのような経路であり、その途上にあるヴリディア砦が攻撃対象となるのは想像に難くなかったのだ。
ガンディア軍がゼオルを制圧したのは十七日。ゼオルを防衛するはずの第七龍鱗軍は、その前日、ロンギ川でガンディア軍と戦闘を繰り広げ、敗れ去ったということらしい。その戦いにおいてゼオルの軍勢を率いた聖将ジナーヴィ=ライバーンは戦死、同じ魔龍窟の武装召喚師であったフェイ=ヴリディア、第七龍鱗軍の翼将ケルル=クローバーも死亡したという話だった。
ガンディア軍が圧倒的な勝利を収め、その勢いのまま守兵ひとりいないゼオルを制圧したという。
彼らがゼオルにて戦いの疲れを癒している間、カーメルはなにもしなかったわけではない。ゼオルに諜報員を放ち、ガンディア軍の動向を探らせる傍ら、スルークの龍鱗軍と連携を取ろうと試みたのだ。だが、彼の目論見は徒労に終わる。スルークの第六龍鱗軍は、既にジナーヴィの軍に吸収されており、ガンディア軍との戦いに敗れ去ったあとだったのだ。
その事実を知ったとき、カーメルは、絶望的な気持ちにならざるをえなかった。ちょうどそのころ、バハンダールが陥落したという衝撃的な報告が飛び込んできたということもあり、彼がザルワーンの前途に破滅の影を見たとしても、だれが非難できよう。
スルークの龍鱗軍が無事ならば、まだなにか打てる手はあったかもしれない。ヴリディア砦に向かってくるのであろうガンディア軍の横腹を突くことで、相応の打撃を与えることができたはずだ。敵軍を壊滅させることはできなくとも、龍府への侵攻を思い止まらせる程度はできたかもしれない。戦力が整わなければ、いくら勢いに乗るガンディア軍といえども、決戦を強行したりはしなかっただろう。
だが、カーメルの夢想は妄想に終わった。スルークに軍はなく、ガンディア軍が小部隊を繰り出すだけで制圧されるような有り様だった。ガンディア軍もそれを認識していて、放置しているに違いない。スルークのためだけに戦力を割きたくはないのだ。進軍経路のゼオルとは違う。放置しても問題のない都市には、触れる必要さえないのだろう。
「応援は来ないのか……」
彼は、膝の震えを欺瞞するように、中庭を歩き回っていた。待つのなら、椅子にでも座っていたほうがいいのはわかっている。しかし、どれだけ待っても、中央からの連絡が来ないという現実を前にすれば、座して待ってなどいられないのだ。
五方防護陣の一角をなし、龍府のちょうど南に位置するヴリディアは、西にビューネル砦、東にファブルネイア砦を持ち、通常ならば鉄壁の防衛網を構築できているはずだった。二千、三千の敵戦力など、東西の砦との連携で簡単に撃退し、あまつさえ殲滅できたかもしれない。南方から進行してくる敵軍をビューネルとファブルネイアの龍牙軍が包み込むように攻撃し、そこへヴリディアの龍牙軍が追い打ちをかける。それだけで敵軍は算を乱して逃げ出しただろう。
それこそ、五方防護陣の真価であり、各砦に天将と龍牙軍が配置されている理由なのだ。雑兵に毛が生えた程度の龍鱗軍ではなく、精鋭の龍牙軍。そして、翼将ではなく、天将。五方防護陣とは、首都龍府を守護するための最終防衛網であり、そこに配属されるのは龍眼軍の所属となるよりも光栄なことだというものもいる。
しかし、それは五方防護陣が機能してこその話だ。ガンディア軍が部隊を複数に分け、各砦に同時攻撃を仕掛けてくるとなると、砦同士の連携は期待できなくなる。相互作用を失った五方防護陣など、ただの砦に過ぎない。ヴリディアの戦力こそ、他の砦よりは多いものの、そんなものが慰めになるはずもない。
敵は、ジナーヴィの軍勢を打ち破った猛者なのだ。ガンディアの大将軍アルガザード=バルガザールを総大将とする軍集団には、無敵の傭兵団《白き盾》や傭兵団《蒼き風》が参戦し、ルシオンの白聖騎士隊、ミオンの騎兵隊なども同行しているというのだ。黒き矛のセツナが別の部隊にいるということが救いにすらならなかった。
戦力差は大きく、砦に篭っているということが有利に働くものかどうか。そもそも、籠城というのは、援軍がなければ意味をなさない。篭っているだけでは勝てないのだから当然だが、その援軍も期待できるものでもない。龍府が首都そのものの防衛戦力たる龍眼軍を差し向けてくれるというのなら話は別だが、龍府の反応は思わしいものではない。
カーメルとしては、龍眼軍の全戦力と第四龍鱗軍の全力を以って、ヴリディアに迫る敵軍を打ち払い、そののち、ファブルネイアかビューネルを救援。ガンディア軍を各個撃破していくことで、絶望的な現状からの脱却を図りたかった。しかし、龍府はなにを考えているのか、カーメルの催促に対してなんの返答も送ってこなかった。
(龍府でなにか起きているのか……?)
例えば、政変でもあったのではないか。
起きたとしてもおかしくはないような状態が続いていた。此処数年、ザルワーンの政情は常に不安定であり、人心も乱れていた。軍は、頻発する内乱の鎮圧に追われ、外征など考えられるはずもなく、ザルワーンは国土の維持で精一杯という状況が続いていたのだ。そんな折、属国ログナーがガンディアに制圧されてしまい、ザルワーンの威信は地に落ちた。属国を奪われては、大国の面目は丸つぶれといっても過言ではなかった。即座に取り戻すべきだという声も多かったが、ザルワーンを取り巻く状況がそれを許さなかった。グレイ=バルゼルグの離反は、ザルワーンの行動範囲を極端に狭めるものだったのだ。
そんな状況下にあって、国主ミレルバスはナーレス=ラグナホルンを拘束してしまった。
ナーレスといえば、ガンディアから流れ着いた天才軍師の異名を持つ人物だ。軍師としての才能や実力はともかく、きらびやかな結果には異論を挟む余地もない。彼はログナーをザルワーンの属国に仕立てあげた人物であり、ミレルバス政権の象徴ともいえる存在だった。彼はどうやらガンディアに通じていたらしいという話がまことしやかに流れているのだが、事実はわからない。龍府からの正式な発表はなく、カーメルが部下に探らせても正確なことはなにひとつわからなかった。ただ、ナーレスが失脚したことは事実であり、ミレルバスの腹心の座は空白になっているということまでは掴んでいた。かといって、カーメルがミレルバスの腹心として成り上がるための好機とは到底考えられない。むしろ、彼を取り巻く環境は最悪といってもいい。
カーメルが天将の座にいられるのは、ナーレス=ラグナホルンの推薦によるものであり、元々しがない文官にすぎなかった彼には思いもよらぬ出来事であり、栄達であった。妻も子も、親類縁者一同が歓喜にむせび泣いたのはいうまでもない。カーメルはナーレスに心の底から感謝し、彼のためにも天将の名に恥じないように努力してきたのだ。そのナーレスがガンディアの工作員だったとすれば、カーメルの立場もまた危うくなるのではないか。