第二千九百八十七話 自由というもの(二)
絶望の仮面という名は、老人の姿を取る召喚武装、その本質を示しているのだろう。故に彼は、召喚するものたちにそのような名をつけられてきた。ランスオブデザイアがそうであるように、アックスオブアンビションがそうであるように、ロッドオブエンヴィーがそうであるように。
黒き矛が、そうであるように。
老人の人相が絶望そのものを表現したのも、その本性を現したからに違いなく、セツナは、意識を飲まれるような感覚に遭った。
「では、あなたの存在意義は、理由は、なんなのでしょうな? 神矢刹那殿」
「俺の存在意義……存在理由?」
「あなたがいまここに在るのは、どういったわけなのでしょう。ここは地獄の最下層にして、我らが主の居城であり、主の間へ至るための鍵の試練、その最終最後の試練の場」
マスクオブディスペアは、セツナの疑問に対し、懇切丁寧に答えてくれる。その間、表情は変わらなかった。絶望そのものを表現したまま、こちらをじっと見ている。
セツナは、そんな彼の顔を見ているだけだというのに、深淵を覗き見ているような気分になった。
「ここまで至ることができたのは、あなたが初めてのことです。神矢刹那殿」
彼の予期せぬ言葉にセツナは驚くほかなかった。
「地獄に堕ち、魔王が居城に至るものは数あれど、五つの試練を突破できたものはひとりとしていないわけですな。つまりは、わたくしがこうして試練を課すのも初めてのことでして。故に問い質さねば、と、思った次第なのです」
「初めて……俺が……?」
「はい」
老人は、にこやかにうなずいた。絶望的な表情の絶望的な笑み。それは、この闇の海辺の潮騒を遠ざけ、彼の表情だけをセツナに認識させていく。ほかのすべてがわからなくなっていく。
「ランスオブデザイアは、彼はいい。なにせ、最初の試練です。たとえここまで試練を突破できないようなものであっても、試練を課すことができる。試練の内容に悩むことがない。その点わたくしはというと、試練の内容について、考え続ける時間ばかりが増えるものですから、悩み、迷い、ついには絶望さえしてしまった」
苦笑を交えつつ語る老人の表情は変わらない。皺だらけの顔に絶望が張り付いたまま、こちらを見つめている。紅い瞳。血のように紅く、煉獄の炎のように輝いている。その瞳の輝きだけは強く、激しい。
「そして、ついに辿り着いた答えが、これなのです。あなたへの質問。それこそが最終最後の試練に相応しいものである、と、思い至ったのですな」
「これが……試練。いまの質問が……」
「そういうことですな」
自分の声と老人の声だけが耳朶に届く。それ以外の一切の音は世界の外に在って、セツナには届かなくなってしまっている、そんな感じがした。
(試練……)
胸中で反芻するようにつぶやいたのは、呆気に取られたからだ。
最後の試練ということで身構えていたし、どれほど恐ろしくおぞましいものが待ち受けているのかと想像を巡らせてもいたのだ。だというのに、マスクオブディスペアは、その質問こそが試練である、という。
存在意義、存在理由を答えること。
そんな簡単なことが、最終最後の試練でいいというのか。
これまで、セツナは様々な試練を潜り抜けてきた。
この城に至るまでの試練を含めれば、ほとんどが死闘そのものだったが、戦闘以外の試練もあった。戦いとなれば、血で血を洗い、死で死を塗り替えるような激闘死線ばかりであり、戦闘以外の試練もまた、苦難そのものだった。
時には、我を忘れかけるようなこともあったのだ。
それら試練に比べれば、なんと簡単で、単純な試練なのか。
「では、今一度問いましょう」
マスクオブディスペアが開いた口から聞こえたのは、やはり、絶望的な声だ。耳から入り込み、意識の奥へ、心の底へと浸透する呪詛そのもののような声音。
「あなたがここに存在する意義、理由とはなんなのですかな?」
セツナは、老人の目を見据えた。
「俺は――」
口を開き、回答しようとしたとき、彼はふと、疑問を持った。
自分がここに存在するのは、どういう理由からなのだろうか。なぜ、ここにいて、地獄そのもののような試練を潜り抜け、血反吐を吐く想いで、ここまで辿り着いたのか。どういった意味が在って、なんのためなのか。なにゆえ、死に続けてきたのか。
そんな疑問をどうしていま、思い浮かんでしまうのか。
いまここに至るまでの間、そんなことを深く考えるまでもなかったはずだ。
だからこそ、ここまで走り続けることができた。駆け抜けることができたのだ。全身を粉々に破壊され、数多の死を経験し、絶望的な目に遭ってもなお、前進し続けた。それは、なぜか。それしかなかったからだ。それだけがすべてで、それ以外になかったからだ。
それが、理由なのか。
それが存在意義であり、存在理由だとでもいうのか。
それはつまり、流されて、ここにいるということではないのか。
(流されて……?)
自問は、脳裏の虚空に記憶を描く。
流されて、ここにいる。
最初から、そうだったのではないか。
自分の意思で決めたことなど、なにひとつなかったのではないか。
異世界に召喚され、黒き矛の召喚者となり、ガンディアの一員となり、幾多の戦場を駆け抜け、膨大な死を乗り越え、数え切れない屍を踏み越え、勝利を重ねてきたのも、すべては他者の意思に従ったまでのことではないのか。そこに自分の意思は在ったのか。
だれかの思惑によって動くだけの操り人形。
ガンディアの敵を滅ぼすための殺戮兵器。
それが、それだけが、自分の存在する意義であり、理由だったのではないか。
そこに疑問を持ったことはなかったし、たとえ疑問が生じるようなことがあったとしても、見て見ぬ振りをしてきたのではないか。
(その通りだ……)
考えないことで、処理してきたのだ。
自分とはいったいなにもので、なんのために生きているのか。
一番大事な部分から目を逸らし、顔を背け、耳を塞いで、生きてきた。
「俺は……いったい」
疑問が口をついて出た。
すると、どうだろう。老人の纏う空気そのものが変質した。
「自分がなにものかもわからぬものが、なにゆえ、ここにおられるのでしょうな?」
質問というよりは、糾弾に近い。
「神矢刹那殿。あなたは、ただ、状況に流されるまま生きてこられた。そこに自分の居場所があると信じ、自分の存在理由があるのだと思い込み、考えることを放棄された。そういう生き方を否定はしませんが、しかし、事此処に至るものに相応しい在り様ではございませんな」
マスクオブディスペアは、冷淡に告げてきたが、セツナにはその言葉を否定することなどできなかった。ここは彼が主催する試練の場であり、すべての決定権は彼にこそある。そもそも、セツナ自身が揺らいでいた。確固たる自分を告げることができない時点で、負けているのだ。
それこそ、試練なのだということを思い知る。
彼自身がいったことだ。
その質問こそが試練である、と。
つまり、その質問に回答できなければ、試練に失敗したということなのだ。そしてセツナに明確な答えが思い浮かばない以上、試練を乗り越える方法はない。どれだけ必死になって頭の中を探し回っても、正しい答えは存在せず、空回りするばかりだった。
自分とは、いったいなんなのか。
疑問ばかりが虚空に浮かぶ。
「あなたは今一度、自分がなにものなのかを知るべきなのでしょう」
老人の双眸を紅い光が満たしたかと想うと、セツナは、意識が飲み込まれるような感覚に包まれた。