第二千九百八十六話 自由というもの(一)
闇の中にいる。
なにも見えない。
なにも聞こえない。
なにもわからない。
ただ、暗闇だけがあって、その中にいるのだということだけが確かだった。
あらゆる感覚が失われていて、故にすべてが定かではない。
そもそも、これは本当に現実なのだろうか。
夢を見ているのではないか。
悪い夢を見ているだけなのではないか。
だとすれば、いつかは醒めるはずだ。
いつかは目覚め、いつものような朝が待っているはずだ。
(いつものような……?)
疑問が生じる。
いつも通りの朝とは、いったいどのような朝なのか。
いつも通りはいつからか失われていた。
いや、新しいいつも通りになったのか。
日常は非日常に取って代わられ、非日常こそが日常になった。
そして、血みどろの戦場こそが、自分の居場所となった。
では、目が覚めればそこは戦場なのか。
そうかもしれない。
どこにあっても、どこにいても、そこは戦場なのだ。
地獄のような現実が待っている。
だったら、このまま目が覚めない方がましなのではないか。
目覚めず、暗闇の中に留まっていた方が、ずっといいのではないか。
馬鹿げたことだと否定しようにも、否定するための言葉が見つからない。目覚めても血の惨禍の中ならば、暗闇の中に囚われていたほうが、ずっとましだ。
(そんなわけがないだろう、なにをいってんだ)
頭を振る。振ったつもりになる。感覚はなく、故に体が動いているのかさえもわからない。意識だけだ。意識だけで、そうしている。だからだろう。肉体がどう動いていたのかという感覚さえ、わからなくなっていく。手足の感覚も思い出せない。
自分がどんな姿形をしていたのかさえ、思い出せなくなっていく。
記憶が失われているのだろうか。
だとすれば、この自分という意識も、このまま、暗闇の中に溶けて消えていくのか。
(冗談じゃねえ!)
叫ぼうにも、声は出ない。
音もなく、ただ、心の中に思い描いただけだ。
力も失われ、なにもなくなっていく。
自分とはなんなのか。
そんなことすらどうでもよくなっていく。
これが呪いだというのか。
これがアシュトラの呪いの力だというのか。
彼にはわからない。
わからないまま、思い浮かべるのは、自分のことではなかった。
愛するひとたちのこと。
それだけが、自分のすべて。
自分の拠り所なのだから――。
はっと顔を上げると、闇があった。
暗黒の闇ではない。昏い闇が支配的な空間であり、光がないわけではなかった。
闇色の波が寄せては返す海辺。波間に反射する光は、この闇の世界に光が存在することの証明なのだろうが、しかし、光がどこにあって、どこから降り注いでいるのかはわからなかった。闇なのだ。どこもかしこも暗闇に覆われていて、だが、確実に光が存在する。
その光が、この海辺を認識させている。
海辺。
海辺なのだ。
灰色の砂浜がどこまでも続き、そこへ闇色の波が打ち寄せている。そんな海辺の一角にある黒々とした岩場は歪そのものであり、奇妙な形状の岩が独特な世界を作り上げるのに一役も二役もかっている。闇の世界。闇の海辺。
闇色の波が奏でる音は、静かに、不規則に耳朶に響く。不快感はなく、むしろ心地いい。身も心も包み込み、洗い流していくかのようだ。
だが、そこで身を委ねてはならない。心を任せてはならない。
これは、試練。
最後の試練。
最後の扉に飛び込んだ途端、このような場所に放り出されたのだ。一瞬、気が遠くなったのは、そのせいだろう。これまで何度もあったことだ。なにも驚くことはない。
異世界のような光景も、ある意味、見慣れているといってもいい。もちろん、これまでの試練とはまるで異なる景色ではあるのだが、この空間が、地獄とは隔絶されたような領域であることそのものに疑問も抱かない。
欲望の海であり、棺の墓場であり、怒れる大地であり、ラブホテルであり、大食い大会の会場であったりしたのだ。
闇の海辺のほうが、むしろ、地獄に近い空気感がある。
とはいえ、この暗闇に抱かれた浜辺というのは、どうにも落ち着かなかった。押しては返す波間に煌めく光が、完全な闇の中ではないと教えてくれるのだが、それにしても、寂寞としていて、孤独感に押し潰されそうだった。
自分以外にはだれもいなければ、聞こえるのは波の音だけであり、その波音にすべてを持って行かれそうな、そんな気がした。
すべて、というのは、言葉通りの意味だ。
意識も肉体も心も魂も、なにもかもすべて。
だから、ぐっと堪えてみたのだが、意味があったのかどうか。
「よくぞここまで参られましたな」
波間を割るようにして低く嗄れた声が聞こえたのは、そのときだった。
「神矢刹那殿」
闇の海面が真っ二つに裂けたかと思うと、大量の水飛沫が空中高く舞い上がり、その中から声の主が姿を現した。
それは、一見して、凝縮した闇そのもののように思えたが、目を凝らして観察することで、闇色の海面や水飛沫よりも昏く深い黒の衣を纏う人物だということがわかった。人物。低く嗄れた声からの想像通り、年老いた男の姿を取っていた。
それが本当の姿なのか、仮初めの姿なのか、偽りの姿なのかはわからない。
いずれにせよ、この試練空間の創造主であり、試験官であることに間違いはあるまい。もしそうでなければ、なんなのか、ということになる。
(いや……別人の可能性もあるか)
エッジオブサーストの試練を思い出して、考えを改める。
が、海面に浮かぶように佇む黒衣の老人には見覚えがあったし、声にも聞き覚えがあった。記憶力に自信があるというよりは、聴覚と視覚が刺激されたことで記憶が呼び起こされたというべきか。
掘り起こされた記憶に寄れば、その瞳だけを爛々と輝かせる老人は、マスクオブディスペアであり、だとすれば、試練の主と一致していた。
これまで五つの試練を乗り越えてきて、その最終最後の試練は、マスクオブディスペアのものとなるはずだからだ。
これでこの試練の主催者がまったく別のなにものかであったとすれば、それこそ、なにがなんだかわからない、ということになる。
セツナは、紅く輝く老人の目を見つめて、問うた。
「あなたがマスクオブディスペア?」
「そう呼ぶものもおりますな」
老人は、セツナの推測を肯定すると、その皺だらけの顔で殊更渋い表情を作り上げた。しかしよく見れば、顔立ちが整っていることがわかる。目鼻立ちがはっきりしていて、髪もたっぷりとあった。真っ黒な髪に紅い瞳は、ほかの眷属たちとの共通点といっていいだろう。それに闇よりも黒い装束も、眷属たちの共通項かもしれない。
魔王の杖の眷属なのだ。
闇と黒を象徴とするのは、必然といってもいいのではないか。
「イルス・ヴァレにおいては、クレイグ・ゼム=ミドナスがわたしをそう呼びました。故にあなたもそう呼ぶようになった。わたくしを言い表す名は、ほかにも数多にあるというのに。多くの場合、わたしはそう呼ばれるようになってしまう。絶望の仮面、と」
彼は、少しばかり残念そうに頭を振った。
「まあ、嘆いたところで致し方在りますまい。それが我らのさだめ。我らの定義。我らの宿命。存在意義と言い換えても、いい」
「存在意義……」
「マスクオブディスペアという名に込められた想いこそ、わたくしの存在する意義であり、理由。ランスオブデザイアがそうであるように。アックスオブアンビションがそうであるように。我ら眷属のすべてがそうであるように」
そして彼は、絶望的な表情でこちらを見た。