第二百九十七話 異変(三)
九月二十二日、夜明け前。
五方防護陣の一角をなすライバーン砦は、不気味な発光現象によって大騒ぎになっていた。
「なんだ……? いったいなにが起きている?」
天将マクシス=クロンは、駆け回る兵士たちを怒鳴りつけることも忘れて、発光現象に見入っていた。
砦の壁面や床面には無数の光線が走り、複雑かつ精緻な模様が描き出されている。まるで魔方陣のようだというものもいれば、呪文のようだというものもいる。マクシスには、そのどちらにも見えたし、光の模様から浮き上がってくる光こそ、呪文の一部を切り取ったもののように思えた。
「龍府に連絡しろ! ライバーン砦が不可解な現象に襲われているとな!」
マクシスが声を張り上げると、周囲の兵士たちが一様に動きを止めた。何人かが彼に応え、その場を離れる。マクシスは、天将に任じられて日も浅く、第一龍牙軍を取り仕切るのには圧力をもって行うほかないと考えていた。なにせ、彼が天将位を授けられたのは、ナーレス=ラグナホルンを拘束した直後のことなのだ。時間があるのならば、彼本来のやり方を通すこともできたのだが、そんな暇さえ与えられなかった。
ガンディアによる唐突なナグラシア侵攻から始まったこの戦争は、天将になったばかりのマクシスにも寝耳に水の話であり、憎きナーレスが失脚したことを喜ぶこともできないまま、臨戦態勢に入っていった。もちろん、五方防護陣が即刻戦場になるということは考えられなかったが、かといって第一龍牙軍を統率するために時間を割くほどの余裕はなかった。
夢にまで見た天将の座ではあったが、歓喜にむせび泣くこともできなかったのは、ガンディアの侵攻のせいだった。なんとも間の悪いことだ。その上、魔龍窟から上がったばかりのミリュウ=リバイエン、クルード=ファブルネイアら三人の武装召喚師に天将位が授けられるという前代未聞の事態に直面し、彼はミレルバスの考えがわからなくなった。
天将といえば、五方防護陣を司る龍牙軍を率いるものに与えられるべき将軍位であり、一介の武装召喚師に与えられるべきものではないはずなのだ。無論、彼らは五竜氏族の血縁者であり、マクシスよりも余程、はっきりとした背景を持ってはいる。だが、ミレルバスが標榜する実力至上主義には血筋などなんの力も持たないはずなのだ。だからこそ、マクシスのようななんの後ろ盾も持たない人間がミレルバスの側近として引き立てられ、さらに天将となることができたのだ。マーシアスを国主とする前政権時代には考えられないことだ。身に余る光栄であり、だからこそ彼は、全生命をミレルバスに捧げる覚悟があった。
自分がいま、天将として振る舞うことができるのは、ミレルバス=ライバーンという稀代の英傑が国主となったからにほかならない。ミレルバスの才能主義、実力主義がなければ、マクシスは上り詰めても一部隊長が精々だったのではないか。かつてのザルワーンは、それほどまでに血縁の力が強かったのだ。
ミリュウたちへの天将叙任こそ疑問視したものの、彼女たちに龍牙軍の兵士を率いさせるための装飾なのだということがわかってからは、マクシスも納得せざるを得なかった。天将に率いられるべき龍牙軍の兵士たちが、無名の武装召喚師の下につくなど認めがたいものがあるのだ。ミレルバスが兵士たちの心情に配慮したということだ。
さすがはミレルバスだと彼は思った。主君と仰ぐに相応しい人物だ。自分の人生を捧げるのにこれ以上適した人間は現れないだろう。
「しかし、これはなんだ?」
マクシスは、現実に戻ると、視線を巡らせて途方に暮れた。
不可思議な発光現象は収まる気配はなく、それどころか、激しさを増していた。
アリサ=ミズウェンは、ザルワーンではめずらしい女性将軍だった。
天将の座についたのは、彼女がこれまで上げてきた戦果から考えれば妥当なものだろうというのが周囲の評価であり、アリサ自身も納得するところではあった。遅すぎるくらいだ、と思わないでもなかったが、前政権時代ではどれだけ戦功を積み上げようと、五竜氏族とは直接的な関係の薄いミズウェン家の人間が天将位を与えられることはなかったに違いない。
マーシアスの死後、新たに国主となったミレルバス=ライバーンの掲げる実力主義が、彼女の活躍を認めたのだ。
アリサは、天将となり、リバイエン砦に配属された。彼女は第五龍牙軍を統率するために全力を上げてきた。前政権のころ、五竜氏族という家柄だけが取り柄の人間が天将を務めていただけあり、第五龍牙軍の士気も練度も極めて低く、アリサを失意のどん底に叩き込んだものだ。
あれから数年。
脆弱だった第五龍牙軍は、見違えるほどに強くなった。実戦の経験こそ少ないものの、どこの部隊よりも多くの訓練をこなし、肉体も鍛え上げられている。兵士たちは、自分たちこそ龍牙軍最強を自負していたし、それは彼女も認めるところだ。
そうするうちに戦争が始まった。ガンディアによるザルワーン領への侵攻は、可能性として考えられないものではなかったが、ログナー戦争後からほとんど間を開けずに攻めてきたことには驚きを隠せなかったものだ。
ログナーがガンディアに平定され、一月と少ししか経過していなかったのだ。ガンディアは、ログナー戦争で消耗した兵力を回復しきれていなかったはずであり、そんな状態で全面戦争を仕掛けてくるとは想像もできまい。
五方防護陣は、首都龍府の防壁である。
アリサは、リバイエン砦が戦場になることはないと思っていたし、リバイエン砦にいるだれもが――いや、ザルワーンにいるだれもが、そう考えていたに違いない。ザルワーンとガンディアには、圧倒的な戦力差がある。いくらログナーを飲み込み、同盟国に戦力を提供してもらったところで、ザルワーンの圧倒的な戦力に敵うはずはない。
そう、高をくくっていた。
だが、リバイエン砦に飛び込んでくる情報は、アリサの予想を悪い意味で裏切るものばかりだった。難攻不落と名高い城塞都市バハンダールの陥落を皮切りに、ジナーヴィ=ライバーンたちの戦死、ゼオル制圧、マルウェールの占拠、ミリュウ=リバイエンらの敗北。連戦連敗。ザルワーンがやることなすこと裏目に出ているような情報ばかりが耳に飛び込んでくるのだ。
特に、ミリュウらの敗報は、彼女にとっても聞き捨てならないものだった。ミリュウたちに与えられた戦力の中には、第五龍牙軍の五百名も参加しており、彼女が手塩にかけて育て上げた兵士たちの生死が気になるのは当然ともいえた。もちろん、ガンディア側から情報が入ってくるわけもなく、自分の部下がひとりでも多く生き残っていることを祈るしかなかったのだが。
そして、マルウェールを制圧したガンディアの軍勢が、リバイエンの南に位置するファブルネイア砦に向かって動き出したという報告も入ってきていた。ガンディア軍の狙いがファブルネイアになったからと喜んでいる場合ではない。五方防護陣は、砦同士連携することで敵軍の龍府への接近を阻むという思想の元に配置されている。リバイエンの第五龍牙軍は、ファブルネイア砦の援軍を差し向けなければならないのだ。
だが、現在、第五龍牙軍は五百人しかいないのだ。そんな戦力でファブルネイアに取り付いたガンディア軍の後背を突いたとしても、焼け石に水程度の戦果を上げることもできないのではないか。ガンディア軍は二千人以上の軍勢であり、いくら背後ががら空きであったとしても、四倍の戦力差は如何ともし難い。それでも、援軍には赴かなければならない。
全戦力を放出しても、たった五百人にしかならない。かといって、出し惜しむ必要はない。リバイエン砦に向かってくる敵対勢力は皆無なのだ。すべての戦力を出しきっても構わないだろう。いや、戦力差を考えれば、全軍で出撃するしかなかった。他に選択肢はないのだ。
二十二日未明、アリサ=ミズウェンがリバイエン砦を襲った怪現象に遭遇したのは、以上の理由から、ファブルネイア砦への援軍を組織している最中だった。
彼女は、副将とともにリバイエン砦の南門前にあり、兵士たちが揃うのを待っていた。リバイエン砦からファブルネイア砦まで一日ほどの距離だが、最大速度で行軍すれば、夜までには辿り着けるだろう。とはいえ、ファブルネイアに取り付いたガンディア軍の背後から攻撃できなければ意味がなく、ガンディア軍よりも早くファブルネイアに到着するわけにはいかない。ガンディア軍がファブルネイアに熱中している最中、その背後に迫り、致命的な一撃を叩き込む。それこそ、五方防護陣の真髄というのだろうが、そう上手く行くとはとても思えなかった。
アリサが、兵の集まりの遅さに多少の苛立ちを覚え、副将を一瞥したときだった。
緑色の光が地面を走ったと思うと、複雑な模様を描き出したのだ。
「なんだ……?」
アリサが見ている間にも、緑光の模様は加速度的に増殖していく。光線となって地を走り、壁を登り、虚空を渡る。燐光が浮かんでは消えた。動揺する兵士たちを叱咤することも忘れて、彼女はその怪現象を見ていた。
嫌な予感がする。
なにか、とんでもないことが起きようとしているのではないか。