第二千九百七十話 父と娘(十三)
「ウルク、無事に目が覚めてよかった」
駆け寄ってくるなり、セツナが身を乗り出していってきた。間近に見るその顔には、明らかな優しさがあった。心からの安堵がその表情、全身に溢れていて、それだけ心配をかけていたのだと思い知る。セツナのみならず、皆に心配をかけたのだ。いや、心配どころではない。
ウルク自身、再びこうやってセツナたちの声を聞くことができるとは、考えてもいなかった。窮虚躯体は、その体そのものがエベルを拘束する器であり、神の棺ともいうべき代物だったのだ。神の本体を捉え、縛り付け、弱点を曝け出させた上で、黒き矛の一撃を叩き込む。
それによって大いなる神でさえも滅ぼし尽くすというのがミドガルドの計画であり、その結果、窮虚躯体に移植されたウルクの頭脳もまた、消滅するだろうと考えていた。
それは、彼女にとってとても恐ろしいことだった。
セツナと逢えなくなるのだ。
セツナと言葉を交わし、セツナと触れ合い、セツナを見守る――彼女の夢も希望もそこにあった。それが終わりを迎える。
これほど辛いことはなかったし、苦しいことはなかった。
けれど、セツナを失うよりは遙かにいい。
だから、覚悟ができた。
覚悟をし、時を待った。そして時が来て、終わりを迎えた。
そう想っていた。
しかし、ミドガルドは、どうやら、ウルクが想っていた以上に彼女のことを考えていてくれたらしい。
ウルクの頭脳であった術式転写機構が無傷で残り、その上、新たな躯体、新たな機構に移植されたということは、即ち、そういうことだろう。
ミドガルドは、ウルクにエベル討滅のための中心戦力になる機会と、今後のために必要となるだろう躯体を用意してくれていたのだ。
「はい、セツナ。ですが、わたしは眠っていたわけではありませんよ」
「ああ、そうだったな」
セツナが、少しばかりはにかんだように笑った。その笑顔の柔らかさに心が温かくなる。いつだって、セツナの笑顔というのは素晴らしいものだ。心核が力を増し、全身に波光を漲らせる。波光は、躯体中に張り巡らされた回路を駆け抜け、肆號躯体の出力の凄まじさを自覚させた。無論、窮虚躯体のほうが圧倒的としかいいようがないものの、弐號躯体とは比較のしようもないほどに強大な力を感じる。
これならば、いままで以上にセツナの力になれるだろう。
彼女は、ミドガルドに感謝しなければならないと想った。
それから、セツナの頭の上を見れば、翡翠色の小飛竜が細長い首を伸ばして、こちらを覗き込むようにしていた。ラグナだ。ラグナシア=エルム・ドラース。三界の竜王の一翼にして、セツナの第二の従僕であり、ウルクの先輩。
「先輩も無事でなによりです」
「うむ、わしも後輩の活躍ぶりに御満悦じゃぞ」
「まさかおまえが対エベルの切り札になるとは、想像したこともなかったが、素晴らしい働きぶりだったというほかないな」
「マユリ様も」
「うむ」
ラグナに続いてウルクの様子を覗きに近寄ってきたのは、女神だ。美しい少女の姿をした女神の背中には、同じような姿形の少年が張り付いている。マユリ神とマユラ神は、表裏一体の神であり、普段はどちらかが起き、どちらかが眠っているのだ。
ウルクは、マユリ神にも、感謝しなければならないことがある。ウルクがセツナたちと行動をともにできていたのは、マユリ神のおかげなのだ。女神の御業がなければ、ウルクは機能停止状態のまま、修復のときが来るのを待ち続けなければならなかった。
その場合は、セツナたちがいつか気まぐれにここを訪れるときまで待ち続けなければならなかっただろうし、そのときには、どうなっていたものか。
そんなことを考えていると、セツナが質問してきた。
「それで、躯体の調子はどうなんだ? どこかおかしいところとか、あったりしないか?」
「わたしの調整を疑いますか」
「あ、いや、そういうことではなくて」
「ではいったい?」
「えーと、ですから」
セツナとミドガルドのやり取りに、ラグナがセツナの頭の上で頭を振った。
「どうなのじゃ、ウルクよ」
「そう……ですね」
ウルクは、なんとも答えようがなく、上体を起こしてみた。躯体の調子を確かめるにも、仰向けに寝転がっていては、なにもできない。いや、もちろん、躯体が万全であることは、躯体制御機構の報告によってはっきりとわかっている。どこにも損傷はなく、機能不全も起きていない。神経回路を通じて送られてくる信号は、すべて正常そのものだ。
心核が少しばかり異様な数値を弾き出しているが、それは、セツナの笑顔を間近で見たせいであると断言できた。
起動した直後にセツナの顔を間近で見るというのは、あまり良くないことなのかもしれない。
そんなことを考えて、くすりと笑う。
「どうしたんだ?」
「いえ、なんでもありません、セツナ」
顔を横に向ければ、セツナはすぐ側にいた。見たこともない調整器がまるで彼女のための寝台のようであり、その上に寝かされていたことがわかる。セツナたちは調整器の右側に集まっていて、見れば、イルとエルも無事な様子だった。ほっと胸を撫で下ろす。
窮虚躯体による強制同期は、同期中の心核に蓄積された波光を強制的に解放するものだ。その結果、魔晶人形ならば魔晶人形の、魔晶兵器ならば魔晶兵器の、それぞれの本来の役割が果たせなくなる。身動きひとつ取れなくなるのだ。
エベルとの戦いに巻き込まれても、防衛行動を取れないのだ。躯体が損傷するだけならばまだしも、頭脳である術式転写機構の核が破損するようなことがあれば、取り返しがつかなかっただろう。
ウルクがいまこうして自分を確信し、セツナのことを想い、皆のことを考えられるのも、術式転写機構の核が無事だったからだ。
そこに自分がある。
「そうですね。躯体のどこにも異常は見受けられません。すべて正常であり、なんの問題もありません。ただ……」
「ただ?」
「少々、慣れるのに時間がかかりそうですね」
「それはそうだろう」
ミドガルドが、当然の結果だといわんばかりにうなずいてくる。
「肆號躯体は、弐號躯体とは別物なのだ。君は、窮虚躯体を体験したが、肆號躯体は窮虚躯体ともまったく異なる代物といっても過言ではない。セツナ殿にも説明したが、窮虚躯体は、躯体の最終強化形。肆號躯体は、躯体の最終進化形なのだよ」
「最終進化形……ですか」
「現状では、だが」
ミドガルドが軽く咳払いをするような仕草をしたのは、段々と研究意欲が湧いてきたからなのかもしれない。彼は、エベルへの復讐心に囚われ、駆り立てられていた。彼が打倒エベルに人生を捧げ、命を捧げ、人間性さえも捧げたということは、窮虚躯体という最強無比の躯体を制御する中で理解できたことだった。
帝国において絶大な力を振るったナリアと同等の力を持つエベルをも圧倒して見せたのが、窮虚躯体だ。それだけの兵器を作り上げるには、どれほどの覚悟と決意が必要だったのか。
ウルクには、想像もつかない。
ただ、復讐を果たしたミドガルドが、なにもかもやり遂げ、燃え尽きかけていたのではないか、ということは、考えついた。
人間にはよくあることだ、という。
なにかを成し遂げたものは、それによって自分自身の魂をも焼き尽くし、目標を見失うのだ、と。
ウルクにはよくわからないことだが、ともかく、ミドガルドが変わり果てた姿ながらも、やる気を見せ始めたことには嬉しく思うのだった。