第二千九百六十九話 父と娘(十二)
昏い。
とにかく、昏い。
まるで深い深い海の底に沈んでしまったような、そんな感じがあった。
天にあるはずの光も届かなければ、決してこの暗闇の中を抜け出すこともかなわない。
そう、想う。
なぜだろう。
そう、考えてしまう。
いっそ、このまま海の藻屑に成り果てることができれば、楽になれるのではないか。なにもかもばらばらになれば、粉々に砕け散れば。
どうしてそんなことを考えてしまうのだろう。
そもそもここはどこなのか。
これが、夢というものなのか。
彼女は、頭を振る。意識だけで、思考だけで、感覚だけで、首を横に振る。
そんなことがあるはずはない。
魔晶人形は夢を見ない。
起動しているか、していないか。
機能停止状態か、そうでないか。
ふたつにひとつしかないのだ。
人間やその他の動物のように眠りにつくことはない。眠る、ということは、機能停止状態のことであり、起きる、ということは起動状態のことなのだ。そして、機能停止状態であれば、思考することはなく、思考することがないということは、意識が働くことはない。
意識。
意識とは、なんなのか。
それこそ自分自身であるといい、思考の根源であるといい、頭脳であるという。精神であり、心であり、魂である、という。
意識。
彼女は、考える。
深く昏い闇の底で、膝を抱えるようにして、漂いながら、ただただ考える。考え続ける。意識とはなんなのか。
自分とは、なんなのか。
いつから、自分は自分であると感じるようになったのか。
自分とはそもそもなにものであり、なぜ、ここにいるのか。
考える。
考えて考えて、考え続けて、それでも答えは出ない。
闇は闇のままであり、海の底を抜け出すことはできない。
でも、問題はない。
自分は魔晶人形であり、生物ではないのだ。たとえ海の底に沈んだところで、死ぬことはない。躯体は頑強であり、防水性、耐水性も抜群だ。何百年もすれば、さすがに腐蝕を始めるかもしれないが、数年、数十年程度ならば、なんら臆することはない。
臆する。
なにに臆する、というのか。
なにを怯えるのか。
なぜ、躯体が腐蝕することを恐れ、躯体が失われることに怯えるのか。
なにが恐ろしいのか。
どうして、恐怖という感情を覚えるのか。
躯体が錆び付いて、動かなくなったとして、それのなにが恐ろしいというのか。魔晶人形に恐ろしいものなどないはずだ。ただ指示通りに行動し、命令を実行する。それだけが魔晶人形に与えられた存在意義のすべてであり、それ以上でもそれ以下でもなかったはずだ。
その結果、躯体が損傷しようと、破壊されようと、機能停止に陥ろうと、関係がない。
任務の遂行こそがすべて。
そう、さだめられた。
(違う)
頭を振る。
(違う……そうじゃない)
頭を抱え、頭を振る。
(そうじゃない)
頭を振るたびに、なにかが脳裏を過ぎった。まるで閃光のように駆け抜けたそれは、目の前の闇を引き裂き、昏い闇を吹き飛ばそうとする。まばゆいばかりの光は、それこそ、彼女が追い求めるものであり、恋い焦がれるものだ。
(そうだ)
頭を抱えていた手を離し、曲げていた膝を伸ばす。それだけで体が軽くなった気がした。頭上を仰ぐ。暗闇の中、光は見えない。光など一切届かない闇の底にいるのだから、当然だろう。
ならば、どうすればいいか。
簡単なことだ。
至極、簡単なことだった。
光の元へ向かえばいい。
ただ、それだけのことだ。
そしてそれは、魔晶人形ならば決して難しくないことだ。
頭上を見据え、彼女は飛んだ。
するとどうだろう。それまで彼女の意識に纏わり付いていた暗闇が溶けていき、なにもかもが明瞭になっていく感覚があった。
感覚。
最初に視界に飛び込んできたのは、天井だった。見たこともない天井には、大きな魔晶灯が設置されていて、青白い光を発している。その見慣れた光には、安堵さえ覚える。闇はもはや存在せず、光有る世界に戻ってこられたのだ。
視覚の正常化。
いや、視覚は元々正常だった。ただ、思考機構と核の統合および躯体制御機構との融和が上手く行っていなかっただけだ。その結果、視覚のみならず、ありとあらゆる感覚が遮断され、起動状態にあるにも関わらず、なにも見えず、なにも聞こえなかっただけなのだ。
それが、先程の闇を生んだ。
あれは夢ではなく、現実だったのだ。
魔晶人形は、夢を見ない。
その事実を確認するような結果には、しかし、安心を覚えた。魔晶人形であるということは、自分が自分であるということと同義なのだ。
躯体制御機構が、躯体中の神経回路が繋がっていることを示し、全身が彼女の意識の制御下にあることを伝えていた。弐號躯体はいわずもがな、窮虚躯体とも大きく異なる感覚があり、それがいま彼女を包み込む違和感の正体であり、あの闇の正体なのかもしれない。
「目が覚めたようだね、ウルク」
聞き知った声を正常な聴覚が捉える。ミドガルド=ウェハラムの声だ。彼女の開発責任者にして、彼女にとって大切な人物。
頭を横に倒すと、ミドガルドの姿があった。ただし、記憶の中に輝く姿ではなく、男性型魔晶人形という希有な存在として、だ。魔晶人形の躯体は、人間の女性を模している。なぜかといえば、ミドガルドたち魔晶技術研究所の職員たちがそうしたからであり、それ以外に大きな理由もたいした理屈もないとのことだ。
男性型の研究も進められていたし、設計案もあった。ただし、実行に移されることはなく、魔晶人形開発の基本は、女性型だったのだが。
ミドガルドがなぜ、魔晶人形の躯体に身を窶しているのかは、よくわからない。よくわからないが、彼がその躯体の中にいるということだけは、確信が持てた。その理由も、よくわからない。人間のいう、直感というやつかもしれない。
「ミドガルド……わたしは、無事、だったのですか?」
彼女は、質問しながら、新たな躯体でも問題なく声が出せることに安堵を覚えた。弐號躯体に移し替えられたときも懸念となっていたことが、そこだ。
発声が可能かどうか。
言葉を喋ることができるのかどうか。
魔晶人形は通常、言葉を操ることも、発声することもできない。そういった機能は搭載されておらず、彼女が起動し、初めて言葉を発したときには、ミドガルドたち研究所職員は、大混乱に陥った覚えがある。それこそ、天地が震撼するほどの大騒ぎになり、卒倒するものまでいたはずだ。
躯体に搭載された機能ではないのだから、当然だろう。
窮虚躯体には、言語機能が組み込まれていた。それはおそらく、いまミドガルドが入っている躯体に搭載されている機能と同等のものであり、ミドガルドの声は、彼本人のものといっても過言ではなかった。そっくりというより、そのものなのだ。
「もちろんだよ、ウルク。君の頭脳――術式転写機構は無傷だ。躯体も新調した。なんの心配もいらない」
「エベルは……どうなったのですか?」
「セツナ殿が討滅してくれたよ」
ミドガルドが明言してくれたことで、彼女は安堵した。窮虚躯体によってエベルを拘束したことは、無駄にならなかったということだ。
「では、戦いは終わったのですね」
「ああ。あの戦いは、終わったよ」
「あの……?」
「君は、これからも戦うのだろう? セツナ殿とともに」
「はい」
ウルクは、はっきりと断言した。
こればかりは、譲れない。
たとえミドガルドがなんといおうと、これだけは、譲ることは出来ないのだ。




