第二百九十六話 異変(二)
グレイと思しき人物が、皇魔ブフマッツに騎乗していたのを目撃したというのだ。
物見からの報告を聞いたとこ、彼は自分の耳を疑ったものだ。
人間と皇魔が共闘するなど、聞いたこともない。皇魔にとって人間とは殺すべき害敵であり、人間にとって皇魔とは憎むべき天敵だった。ザルワーンの長い歴史においてもそうだ。ザルワーンはかつて、国内から皇魔を一掃するべく全精力を注いだこともあったが、徒労に終わった。皇魔の住処を根絶できたと思っていても、それは表面的なものでしかなかったのだ。皇魔は滅ぼし得ない。が、放置することもできず、皇魔対策のためだけの戦力の確保をまじめに検討したこともあったようだ。結局は、各都市の龍鱗軍や各砦の龍牙軍が対応することになったのだが。
皇魔とは駆逐するべき対象であり、そんなものを軍馬として扱うなど、普通、考えられないことだ。いや、ブフマッツの外見や馬力を考慮すれば、思いつくことはあるかもしれない。だが、実行には移さないだろう。そもそも、皇魔と交渉を持つこと自体が不可能なのだ。彼らが人語を解するというのならまだしも、ただ敵意だけを振り回す化け物と触れ合うなど無理な話なのだ。
だが、目の前で起きている物事を否定するほど、ゼノルートは愚かではない。物見がファブルネイア砦を陥れるために嘘をついたとも思えない以上、信じるべきなのだろう。彼らの耳目は信頼できるものだ。
ゼノルートは、当然、龍府に報告している。同時に、援軍の催促を行いはしたものの、望み薄かもしれないとも思っていた。龍府に届けられた報告書がミレルバスの目に入るまで、どれだけの時間がかかるのか。もちろん、龍府には龍府の目があり、耳もあるだろうし、それはゼノルートの情報網よりも優れた精度と確度を誇るものであるはずだ。
前方、闇の彼方になにかが蠢いているように見える。ファブルネイアの高い城壁の遥か先だ。ファブルネイアの周囲には、五方防護陣の他の砦と同様に森林が横たわっており、影に覆われた森の間を一本の街道が貫いている。イクセンと名付けられた街道の向こうからなにかが迫ってきているように思うのだが、気のせいかもしれない。いくらこの部屋が砦の天守にあり、昼間は街道の遥か先まで見渡せるとはいっても、この闇だ。特別、視力がいいというのなら話は別かもしれないが。
(恩を仇で返すか)
ゼノルートがこの期に及んで考えるのは、あの老将のことだ。彼が裏切る前までは、立ち居振る舞いも涼やかな武人だと思っていのだが、どうやら違うようだ。
グレイ=バルゼルグが、ザルワーンに反旗を翻した理由はわからない。しかし、彼がザルワーンへの恩を忘れ、悪逆の徒と成り果てたのは一目瞭然だった。グレイの祖国メリスオールはザルワーンに敗れたのにもかかわらず、彼は、破格の待遇でもってザルワーンに迎え入れられたのだ。彼の陣容には国主ですら口出しできないというのは、破格も破格といっていいだろう。以来十年余、グレイはザルワーン最強の将の名をほしいままにし、その活躍に見合うだけの報いを受けてきたはずだ。国主ミレルバスは彼を信任すること厚く、グレイ=バルゼルグは、だれがどうみてもこの国を代表する人物だったのだ。
だというのに、彼はミレルバスを裏切り、ザルワーンを裏切った。
彼の裏切りさえなければ、ガンディアとの戦争はザルワーンが優勢のまま終始したのではないか。だれもがそう推測するほどに、ガロン砦に籠もったグレイ軍の存在は大きかった。彼らは動かないことでその存在感を発揮し、ザルワーンに致命的な痛手を与え続けたのだ。もちろん、ガンディア軍が無能ならば、いくらグレイ軍によってザルワーンの動きが牽制されていても、意味はなかっただろう。ガンディア軍もまた、有能であり、勇猛だったのだ。
(どうするおつもりですか、父上)
国主となって以来、ミレルバスのことを父と呼ぶことはなくなっていた。ミレルバス=ライバーンは、常にザルワーンの国主であることを自分に強いていたのだ。どんなときであっても、国主として振る舞い続けていた。私人としてのミレルバスは死んだのだと、彼はいっていた。それくらいの覚悟がなければ、国を変えることなどできなかったに違いない。
ミレルバス=ライバーンによる改革は、少しずつではあるが、間違いなくこの国をいい方向に変化させつつあった。古くから血統第一主義であったザルワーンの体質を根本から変えるのは並大抵のことではない。骨が折れるという次元の話でもなかっただろうが、ミレルバスは妥協せず、徹底した。が、それでもゼノルートが天将になり、ジナーヴィが聖将に抜擢されたところを見ると、彼であっても家族は特別だったのかもしれないとも思うのだ。
そういう意味では、ミレルバスもまた、ザルワーン流のやり方から完全には隔絶されてはいなかったのだろう。しかし、現在、龍府の天輪宮に勤めているものの多くは、五竜氏族とは無縁の人間ばかりであり、ミレルバスの改革が少しずつ進んでいることの現れと見ることもできた。五方防護陣が五竜氏族の管轄から離れたのも、ミレルバスの断行によるところが大きい。五方防護陣は、各砦が冠する名前の家の人間によって管理されるのが通例だったのだ。
五竜氏族の人間はなにをせずとも、天将の座につくことができたということだ。龍牙軍が使いものにならなかったのは、ミレルバスが国主になる以前の天将が、軒並みやる気のない連中だったからかもしれない。現在、各砦の龍牙軍を率いる天将は、ゼノルート以外、五竜氏族に関連する人物はいなかった。
このまま改革が進めば、五竜氏族という特権階級そのものが消滅することになるだろう。五竜氏族とは既得権益そのものと言っても過言ではない。反発はあるだろうし、そう簡単にはいかないことは火を見るより明らかだ。
なにより、目の前の敵を排除しなければ、改革の前進など夢のまた夢にほかならないのだ。だが、龍府は、ミレルバスは、この状況に至って尚、動こうともしていない。ザルワーンの都市の多くが敵の手に落ち、敵軍が首都に迫りつつある。敗色濃厚というべき状況であり、だれもが逃げ出したいと思うような状態だった。動かせる戦力も多くはない。敵を迎え撃つために戦力を小出しにしたのが仇となったのか、敵の戦力を見誤ったのか。
(両方だろう)
敵の戦力を見誤り、戦力を小出しにしてしまったのが、いまに響いている。小出しにした戦力は各個撃破され、また、各都市に散らばった戦力も倍以上の敵軍に飲まれ、敗北していったようだ。経過を分析すればするほど、こちらの悪手が目立った。無論、敵であるガンディア軍が予想外に強いというのも大きい。バハンダールが半日足らずで陥落するなど、だれが想像できるのか。魔龍窟の武装召喚師たちが敗れ去るなど、予想もつかなかった。
ザルワーンとしては、打てる手を打ってはいたのだ。結果的に悪手と見えても、戦力を考えればそういう手を打つしかなかったといえなくもないのだ。好手を打っていないのは、打てないからだ。各地の戦力を自由自在に動かせるのなら、三つにわかれた敵の軍勢を各個撃破するという手も打てた。しかし、それはグレイ軍の存在が許さない。
龍府への防衛網を薄くすれば彼らは間違いなく突出してくるだろうという大方の予想は、皇魔を伴ってのファブルネイアへの進軍という形で現れた。
ザルワーンの取る行動がすべて裏目に出ているような状況にあって、それでも生を諦めずに要られるものだろうか。ファブルネイア砦を任された第二龍牙軍の兵士の多くが、諦めの中にあるのではないか。迫り来る敵がガンディア軍だけならばまだよかった。持ち堪えられるかもしれないという淡い期待に縋ることができた。ガンディア軍の攻撃を耐え抜けば、龍府やリバイエンからの援軍が来るのだと信じることができた。
しかし、ガンディア軍よりも凶悪な敵が目前に迫りつつあるいま、淡い期待は幻想と打ち砕かれようとしている。ファブルネイアの城壁は、皇魔の群れの猛攻に耐え切れるのだろうか。首都を守護するための砦だ。ザルワーン中のどの都市や街よりも強固にして堅牢な城壁が構築されているのは疑いようがない。だが、相手は皇魔だ。人間ではないのだ。しかも、三千近い数のブフマッツが、グレイ=バルゼルグの軍勢を運んでくるという。
これを絶望と言わずしてなんというのだろう。
ゼノルートの視界をなにかが過ったのはそのときだった。
「ん?」
目を凝らすと、緑色の燐光のようなものが彼の目の前に浮かんで、消えた。と、思ったら、また彼の眼前が緑色に燃え上がった。魔晶灯の光とはまったく異なるものだ。そもそも、魔晶灯の光が天守の最上階まで届くはずがない。そう考えている間にも、緑色の光は彼の視界を踊るように瞬いていく。
(なんだ?)
妙な胸騒ぎを覚えながら眼下に目を向けると、砦の壁面や床面に淡い光の線が走っていることに気づいた。
「なんだこれは!」
ゼノルートは、ファブルネイア砦全体を使って描き出された光の模様に大声を上げた。