第二千九百六十四話 父と娘(七)
深い憎しみと激しい怒りがどす黒い炎となって噴き出すのを抑えられないまま、彼は、地上へと至った。地底深くに築かれた鋼鉄の迷宮、その暗闇を軽々と擦り抜けて。
元来、本能のままに生きてきたのだ。抑えられるわけがない。人間風情の企みを見抜けぬばかりか、人間風情に後れを取り、その結果、致命的な痛手を負った。
それも致し方のないことだ。自身を保全し、自己を護るためには、滅びを演出する必要があった。魔王の使徒がエベルを滅ぼしたという手応えを掴まなければならなかった。でなければ、魔王の使徒を騙すことはできない。魔王の使徒と魔王の杖の目と耳、ありとあらゆる感覚を欺かなければ、彼が閃いた救命策も無駄に終わる。
彼の考えついた救命策とは、窮虚躯体と呼ばれる躯体の中に強力な結界を張り、魔王の杖による破滅的な攻撃を逃れるというものだ。ただし、それだけでは、魔王の杖の攻撃を逃れる術はない。なぜならば、窮虚躯体そのものがある種の結界となり、エベルの行動を制限し、能力をも制限していたからだ。窮虚躯体の反転結界の中では、エベルは丸裸同然の状態であり、そんな状態で魔王の杖の力を注ぎ込まれれば、いかに彼といえど、滅びを免れることは出来ない。
故に彼は一計を案じた。
窮虚躯体の中でも特に頑強に造られた頭部に本体を隠し、胴体と頭部の間、つまり首に強力無比な結界を形成したのだ。前述の通り、ただ本体を隠すだけでは駄目だ。本体と、膨大な力を残した分身に別れる必要があり、分身を魔王の杖に滅ぼさせる必要があった。そうでもしなければ、魔王の使徒と魔王の杖を欺くことはできない。
欺くことができなければ、せっかく頭部に逃れても意味はない。頭部ごと粉砕されるだけのことだ。
ある種の賭けだった。
そして、その賭けに勝ったのだ。
勝ち、生き延びた。
その事実そのものは、多少なりとも溜飲の下がることではあったが、彼の激情は、それだけでは収まらなかった。
魔晶城の上空に至り、晴れ渡る夜空に輝く星々を見遣る。星の海をたゆたう無数の光は、彼の敗走を冷ややかに眺めているようであり、嘲笑っているようでもある。そう受け取ってしまうのは、己の惨めさをだれよりも理解しているからだ。
敗走。
これは敗走なのだ。敗走以外のなにものでもなく、故に彼は、激しい怒りに燃え盛るしかなかった。
燃え盛り、全身を再構築する。肉体を持たない精神体のままだが、構うことはなかった。新たな依り代を見つけるまでは精神体のまま行動する必要があるのだ。両腕を構築し、胴体を造り、下半身、両脚を伸ばす。そして頭部を生み出せば、背後に炎の輪が生まれる。
太陽神たる彼の威容が再びこの世に顕現したのだ。
彼は、収まることのない怒りを眼下にぶつけようかとも想った。
魔晶城は、先の戦闘で壊滅的な被害を受けており、もはや廃墟同然だ。その廃墟に攻撃を加えたところで、怒りが収まるわけもないが、魔晶人形や魔晶兵器を尽く破壊し尽くせば、話は別だろう。魔王の使徒に一泡吹かせることもできるし、ミドガルドにもいい置き土産になる。
そう想ったが束の間だった。
エベルは、右腕が肘の先から寸断されたのを認めた。なにが起きたのかわからなかった。ただ、凄まじい痛みに襲われ、彼は思わず叫び声を上げそうになった。依り代の肉体ではなく、本体たる精神体を傷つけられたのだ。その痛みたるや、並々ならぬものがある。
(なんだ!? いったいなにが……!?)
狼狽した彼が最初に考えたのは、魔王の使徒か神々が追いかけてきて、攻撃してきたのかということだが、そんなことはあり得なかった。彼は、窮虚躯体の頭部、その中枢に隠れていて、すべての目を欺くことに成功していた。そして、外に出るときも、時間を静止することで、あらゆる目を逃れたのだ。
あの場にいただれもが、彼が窮虚躯体の頭部から離脱した瞬間を見てはいないはずだ。彼の時間静止は、彼が地上に至るまでの間続いていた。地上から上空に到達するまでの間にかかった時間はほんのわずかなものであり、地の底からの距離は極めて遠い。
それに神々にせよ、魔王の使徒にせよ、追いかけてくるのであれば、その膨大な力を隠しきれず、エベルに察知できないわけがないのだ。
感知できないまま、攻撃を受けることなどあり得ない。
その上、右腕を瞬時に復元することができないという異様な事態に直面し、彼は、顔を上げた。視線を巡らせ、それを発見する。
それは、昏い闇の塊とでもいうべき存在だった。影そのものといってもいい。星空が生み出す光を吸い込み、その全容が明らかにならない、そんな存在。黒く、昏く、深い。闇の力の結晶。それがひとの形を成して、空に浮かんでいる。闇の翼を広げ、闇の尾を揺らめかせ、闇の矛を手にして。
双眸からは、紅い光が漏れていた。
「おまえは……!」
エベルは、理解した。
それは、魔王の使徒の影そのものだ。
魔王の使徒がその能力によって作り出した影であり、予めこの魔晶城の上空に配置されていたのだ。エベルが万が一にも滅びを免れるようなことがあり、自分たちの目を欺き、魔晶城を脱出したときのために。
万全を期して。
つまり、エベルの救命策は、魔王の使徒にも見通されていたということだ。
彼は、深く激しい怒りに全身を燃え上がらせると、右腕を根元から切除し、再度作り上げた。どういうわけか切断部分からの復元は不可能だったが、肩口からの再構成ならば問題なく実行できた。そのために多少の力を無駄にしたが、構ってはいられない。
魔王の使徒、その影が目の前にいるのだ。
ここを離脱するには、使徒の影を斃す以外にはない。
使徒の影が、エベルを見逃してくれるわけもないのだ。既に攻撃を受けている。それは警告などではなく、殺意そのものだ。エベルを滅ぼし尽くすという意思、その現れ。滅びを免れるには、影を返り討ちに滅ぼし尽くすしかない。
エベルは、全力を尽くした。
全力で以て、滅びの運命に抗ったのだ。
魔王の使徒、その影に向かって殺到し、そして、闇の矛が全身をばらばらに切り裂き、完膚なきまでに破壊され尽くした。
エベルは、断末魔の咆哮を上げることさえできないまま、魔王の杖、その影の前に消えて失せた。
「くっ。これでは、我らの願いが叶わない!」
「なんということだ……」
「ここで悔やんでいても仕方がありません。いますぐ追いかけましょう」
ミドガルドの同志たる神々が慌てふためく中、マユリ神とラグナは極めて冷静だった。
「追いかけてどうなるものか」
「そうじゃな。もう遅いわ」
「しかし……」
「エベルがどれほどのものか、おぬしらのほうがよく知っておるのではないか」
「それは……そうですが……」
ミュゼは、口惜しげにうなずく。
フォロウもラダナスも同様だった。ミドガルドとて同じ気持ちだろう。エベル打倒は、彼らの悲願であり、その悲願が叶ったと思ったばかりだったのだ。それがひっくり返された。これほど悔しいことはあるまい。
「そうだな。もう追いかける意味はない」
セツナは、静かに断言した。
周囲の索敵を済ませ、安堵の息を吐く。周囲というのは、魔晶城の周囲だ。魔晶城の上空に待機させた闇人形による索敵は、エベルの力の欠片をわずかばかりとして発見することはなかった。つまり、闇人形によるエベルの討滅は完遂されたということだ。
「では……失敗した、ということですか」
「いや、そうはならないさ」
「どういうことです?」
「地上に逃れたエベルは、俺が斃した」
セツナが告げると、その場にいただれもが絶句した。
さすがにだれひとりとして、想定できなかったようだった。