第二千九百五十七話 窮極にして最強の
憮然と、頭上を仰ぐ。
倒壊した建物の壁に穿たれた大穴から覗く空は、依然、鉛色の雲が覆っていた。吹き抜けるのは冷ややかな風であり、素知らぬ顔で渦を巻き、嘲笑うように消えていく。脳裏を埋め尽くしたウルクの記憶の数々も、風に流されていったようだった。
周囲の視線。
ラグナもマユリ神も、もはやなにもいわなかった。ミドガルドも、ただ、待っている。
ウルクでさえ、そうだ。
セツナが決断し、行動することを待っているのだ。ここでセツナが決断から逃げ、最悪の結末を迎えることなど露ほど想像してもいない、とでもいいたげな、そんな反応の数々。
確かに、それ以外に方法はない。
時間はなく、限界は迫っている。
十分足らず。いや、もう既に九分も残されていないのだろう。
ウルクの手を離し、立ち上がる。全身が燃えるようだった。燃え盛る炎に包まれているような、そんな熱気を体の内側から感じている。魔王の杖と鎧が同調し、その力を際限なく増幅していく。錯覚ではなく、現実。完全武装・深化融合によって形成された鎧こそ、眷属の真価なのだ。まだ不完全だが、完全に近づいている。後少しだ。後少しで、完全武装は、完全体となる。
その完全体一歩手前の力でも、エベルを滅ぼすことはできる。
ただ、正面切って戦うことはできず、エベルが完全な状態であれば、一方的に押し負けるだろう。いま、エベルを滅ぼすことが出来るのは、窮虚躯体によって拘束されているからだ。逃げ場もなく、本体がそこにある。依り代に肩代わりさせることはできない。窮虚躯体は、依り代ではなく、封印の器なのだ。
(窮極にして虚ろなる器……か)
確かにその通りだ。その呼び名の通り、窮極なる虚ろだからこそ、大いなる神を取り込み、封じ込めることができるのだろう。でなければ、神の力が躯体を溢れ出てしまうのではないか。そうなれば、拘束はできず、封印もできまい。
(おまえは、どうだ?)
セツナは、黒き矛を掲げ、その禍々しくも破壊的な穂先を見つめた。闇そのものを凝縮したかのような黒い穂先は、神への怒りと憎悪に激しく猛り、そのときをいまかいまかと待ち受けている。矛だけではない。メイルオブドーターも、ランスオブデザイアも、マスクオブディスペアも、アックスオブアンビションも、ロッドオブエンヴィーも、エッジオブサーストも、だれもが神を滅ぼすその瞬間を待ちわびていた。
人の気も知らないで。
(窮極にして最強の矛よ)
矛が、セツナの問いに応えるように唸りを上げた。力が渦巻き、穂先周辺の空気が歪んだ。強大すぎる力は、周囲の空間に強い影響を与える。そして、持ち主を振り回そうとする。が、セツナはその力を制御し、踏ん張るのだ。
視線を窮虚躯体に移せば、神の棺と化したそれは、相も変わらず沈黙したままだ。ウルクはもはや声を発することはなく、そのときが訪れるのを待っている。
だれもが、待っている。
セツナが矛を振り下ろし、窮虚躯体に拘束された黒陽神エベルを撃滅するその瞬間を。
だから、というわけではない。
ただ、ウルクの覚悟を無駄にするわけにはいかないから、彼は吼えた。
「おおおおおおっ!」
喉が張り裂けるほどに叫びを上げながら、矛を回転させた。切っ先を地に向け、振り下ろす。窮虚躯体の胸に狙いを定め、真っ直ぐに。矛先が黒く昏い光を帯びて、窮虚躯体の胸部装甲に触れる。反発はあった。しかし、それはカオスブリンガーの全力を妨げるほどのものではなかった。装甲を突き破り、胸に大穴を開け、内部骨格へと至る。そして心核に辿り着けば、黒色魔晶石の中に漆黒の炎が宿っているのが見えた。一瞬。ほんの一瞬の出来事だ。穂先は心核たる黒色魔晶石ごとエベルの本体を貫き、その瞬間、大爆発を引き起こした。神威と波光、そして魔王の力が激突し、物凄まじい反発が起きたのだ。
地の底より噴き上がったのは、青白い波光の光であり、漆黒の爆炎であり、暗黒の魔力の奔流だった。大地を引き裂き、虚空を切り裂き、天をも突き破る。空を覆う雲が消し飛ばされると、頭上に広がったのは、晴れやかな星空であり、戦いの終わりを彩るに相応しい景色といえば、そうだったのかもしれない。
窮虚躯体に集中した何万の心核が生み出す波光の力に加え、エベルの持つ莫大な神威と、黒き矛カオスブリンガーの全力がぶつかりあった結果、爆心地のみならず、周囲一帯に物凄まじい破壊の嵐を巻き起こし、魔晶城の廃墟はさらなる大打撃を受けることとなった。魔晶城どころか、魔晶人形や魔晶兵器の数々も巻き添えを喰らったのはいうまでもない。
セツナは、その光景を上空から見下ろしていた。吹き荒れ、暴走する三種の力が収まるには、しばらく時間がかかるだろう。それまでに魔晶城が完全に消滅することがないように祈るほかなかった。
「いくらなんでもやり過ぎではないのか?」
セツナを抱えるようにしたまま、ラグナがいった。左手にはエルを抱えている。
「ああでもしないと、エベルは討てんよ」
とは、マユリ神。女神もまた、二体の魔晶人形を抱えている。一体はイルで、もう一体はミドガルドだ。強制同期から解放されたからか、イルとエルはそれぞれ必死にしがみついていた。意識を取り戻した、ということだ。
「終わったんだな……」
セツナは、通常の何十倍、いや何百倍どころではなく鋭敏化した全感覚を働かせて、破壊の嵐の中を探った。エベルの気配は存在しない。あるのは、残留した神威であり、波光であり、魔力だ。それらはいずれ力尽き、消滅するだろう。時間の問題だ。
エベルは、滅びた。
最後は呆気なく、あっという間の出来事だった。
「うむ。終わった」
「ああ」
ラグナとマユリ神の肯定にほっとする。
「さすがは神をも滅ぼす魔王の杖。わたしの思った通りの結末になった」
「あなたは……」
「わたしを恨むのは勝手だが、こうしなければ、あなたはいつかエベルに殺されていたのかもしれない、ということをお忘れなきよう」
「そんなこと……!」
いわれなくともわかっている、と、いおうとして、やめた。
なにをいったところで、ミドガルドの心に響くとは想えなかった。復讐鬼となったミドガルドは、エベルを滅ぼすことだけしか考えられなくなっていたのだ。そのためならば、あれほど溺愛していたウルクを利用し、その頭脳を搭載した躯体を破壊させることも厭わない。以前のミドガルドからは考えられないことであり、セツナにとっては認めがたいことだった。
セツナは、矛を握る手が震えている事実を受けて、頭を振った。
この手は、ウルクを破壊した。ウルクの宿る窮虚躯体を傷つけ、損壊し、滅ぼし尽くした。それは、自己の否定にほかならない。いまのいままで積み上げてきた、積み重ねてきた自分というものを根本から否定したのだ。
ほかならぬ自分の手で。
叫びたかった。
だが、そんなことをしてもウルクは戻ってこないし、結果は変わらないのだ。決して。
だからセツナはミドガルドを睨むことも諦め、破壊の嵐が消えていくのを見ていた。
莫大な力の奔流が暴れ狂ったあとには、絶対的な静寂が訪れる。
満天の星空の下に広がる魔晶城の広大な敷地は、荒れ果てた廃墟としかいいようがなかった。無数に聳えていた高層建造物の数々は跡形もなく倒壊し、その上に致命的な追撃を受けたことで、もはや以前の光景を思い出すこともできないくらいに壊れ果てている。工場としての機能は失われてしまったに違いなく、戦力増強を期待したセツナたちの目論見は、あえなく潰え去った。
それどころか、ウルクナクト号という移動手段まで失ってしまったのだ。
勝利の余韻に浸ることなど、できようはずもなく、セツナたちは無言のまま、魔晶城跡地に降り立った。
戦いは終わった。
エベルを滅ぼし、勝利した。
だが、セツナの胸には、虚しさしか残らなかった。




