第二千九百五十二話 窮極にして虚ろなるもの(十四)
「先程までの威勢はどうしたのかな? 諸君」
エベルは、高らかに笑う。
ウルクの声で、愉悦に満ちた声で。エベルは依り代とした窮虚躯体の力と自身の力を統合することで、絶対的な力を得、その事実の中で感極まっているかのようだった。躯体に満ちた力は、躯体に収まりきらずに溢れだし、黒い炎やまばゆい波光となって噴出している。光の奔流と神威の波動がエベルの周囲の空間さえも歪め、世界の在り様そのものを書き換えていた。
ウルクナクト号に吹き飛ばされた真躯は、でたらめなまでに破損した甲冑のまま、エベルに肉薄する。エベルの撃滅を諦めてはいないとでもいわんばかりに騎士たちが雄叫びを上げるのだが、しかし、エベルが虚空を撫でるように腕を振り翳しただけで、虚空は撓み、衝撃波が騎士たちの真躯を貫く。神の加護たる真躯は、その一撃で粉々に打ち砕かれ、ワールドガーディアンすらも半身を消し飛ばされてしまう。
「このわたしを討ち滅ぼすのではなかったのかね。遍く闇を討ち払う黒き太陽たるこのわたしを。全知全能にもっとも近き万能の権化たるこのわたしを」
エベルは、悠然たる挙措動作でもって、ワールドガーディアンの眼前に移動した。ワールドガーディアンの甲冑が急速に修復するのを見て、冷笑したのだろう。本来変化のないはずの躯体の顔つきが歪んだ。エベルの力を以てすれば、それくらい容易いことなのだ。
「討ち斃し、滅ぼすのではなかったのかね」
エベルがワールドガーディアンの兜を指で軽く弾いた。本当に軽く、力を一切込めていないとでもいわんばかりの動作。いや、仕草といったほうがいいのではないか。親しい間柄の相手に対する戯れのような、そんな程度の力。だのに、その瞬間、ワールドガーディアンの荘厳な兜が消滅しただけでなく、上半身が粉微塵になって消し飛び、下半身もまた、追撃の波光に飲まれて消えてしまった。
それは一瞬の出来事であり、セツナたちが反応する間もなかった。そして、セツナがあまりの呆気なさに衝撃を受けている間にもエベルは動いている。光だ。エベルが上空に向けて放出した光はさながら塔のように聳え立つと、その中程で無数に分散し、数多の光線となって降り注いだのだ。
魔晶城全域に降り注いだ光の雨は、しかし、セツナたちだけを正確に狙い撃つものであり、セツナは防御と回避に専念したものの、すべてをかわしきることはできず、体中を突き破られる痛みと熱に苦悶の声を上げざるを得なかった。負傷したのはセツナだけではない。ラグナもマユリ神も、それぞれに体の様々な箇所を光の雨に貫かれていた。
イルとエル、そしてミドガルドが一切損傷していないのは、攻撃対象から除外されていたからだろう。いずれも黒色魔晶石を心核とする魔晶城製の魔晶人形だ。エベルにしてみれば、窮虚躯体の力の供給源を損なうことは避けたいのだ。
その結果、セツナたちも致命傷こそ受けたものの、死に損なったのかもしれない。セツナたちを完璧に抹消するような大規模攻撃は、周囲の魔晶人形や魔晶兵器を巻き込む可能性がある。
そんな配慮のおかげで生き延びたことには不愉快さしか感じないものの、ラグナの魔法とマユリ神の力が傷口を塞ぎ、痛みさえも除去してくれたことには感謝しかない。が、状況は変わらない。
絶望的といっていいだろう。
エベルは、ただでさえ強力無比な神だというのに、窮虚躯体を依り代としたことでその力は何倍にも増してしまったのではないか。
「ははははは、実に気分がいいぞ。ミドガルド。君には感謝をしてもしきれぬな。まさか君がわたしにとっての勝利の鍵となるとは、想像もしていなかった」
「そうかね」
「ふむ。そう考えると、これは素晴らしい舞台といっていいのかもしれないな。役者は揃い、脚本は、君の筋書き通りとは行かなかったが……それは致し方のないことだ。君は人間で、わたしは神だ。物語を作るのは人間かもしれないが、神は、その物語に干渉する力があるのだよ」
エベルは饒舌だった。余程機嫌がいいのだろうが、彼の立場に立ってみればそうもなろうというものだ。彼は、つい先程まで追い詰められた、とはいわないまでにせよ、窮虚躯体に押されていたのは間違いないのだ。依り代を捨て、乗り移るという選択肢は、エベルにとっての最終手段だったに違いない。そしてその最終手段が成功し、絶大な力を手にした。
調子に乗らないほうがおかしい。
「だが、嘆くことはないよ、ミドガルド。君が血と汗と涙を流して紡ぎ上げた物語は、わたしという偉大なる神によって神話へと昇華されていくのだからね」
「なにが神話だ。冗談じゃねえ」
セツナは黒き矛を握り締め、エベルを睨んだ。胸の内で燃え盛る怒りの炎は、黒き矛と眷属たちの意識と同調し、禍々しいまでに猛り狂っている。エベルの存在を許してはならない。そう、だれもが叫んでいる。魔王の杖も眷属も、神への敵意の塊であり、殺意の塊なのだ。その執念たるや凄まじいものであり、セツナは、自身の感情をその想いに重ねた。
エベルがこちらを見た。余裕に満ちた表情に変わりはない。が、その表情こそ、違和感の塊だった。ウルクに表情はないのだ。無表情こそウルクの特徴であり、その鉄面皮が崩れていることそのものが怒りを増幅させる。ウルクの体を乗っ取り、操っているという事実がだ。
「おや、魔王の使徒。まだそんなところにいたのかね。君の底は知れた。君がどれだけ足掻こうと、わたしには敵わないことがわかったのだ。どこへとなりとも失せるがいい。そして、わたしがこの世界の、いや、百万世界の覇者となるときを見届けたまえよ」
「だれが百万世界の覇者になるって?」
「聞こえなかったかね。わたしだよ」
エベルが右腕で前方の虚空を薙いだ。その瞬間、巨大な光の刃がセツナの視界を真っ二つに切り裂き、反射的に身をかがめなければ、危うくセツナの首が飛ぶところだった。体勢を立て直す勢いで地を蹴り、飛び出せば、エベルが冷笑を浮かべてきた。
「それでわたしに勝てるつもりかね」
「やってみるさ」
「せっかく拾った命、無駄にするとはな」
「てめえなんかに情けをかけられたくはねえっての!」
叫び返すも、セツナは、エベルに接近することもできなかった。飛びかかったはいいものの、光の弾幕が視界を埋め尽くした直後、空間転移現象に襲われたからだ。
気がつけば、魔晶城の一角、魔晶人形と魔晶兵器たちが突っ立つ廃墟の上にいた。ラグナかマユリ神、いずれかの判断であり、両者もまた、セツナの側に転移していた。ラグナが難しい顔をしていた。
「どうするつもりじゃ?」
「ここは一度、退いたほうがいいと思うがな」
「そうはいうが……ここであいつを見逃せば、それこそ世界の終わりだ。あいつは、エベルは百万世界の覇者になるつもりなんだろ」
「それが本音かはわからん。ただ……まあ、力さえ有れば、この世界を滅ぼすのは間違いないだろうがな」
「そうじゃな」
マユリ神の導き出した結論をラグナが苦い顔で肯定する。
聖皇の召喚に応じた神々のほとんどすべては、本来在るべき世界への帰還を望んでいるのだ。聖皇の死によって叶わなくなったその望みは悲願となり、神々をして五百年の長きに渡る暗闘の日々を送る羽目になったことは、セツナたちもよく知ることだ。
そして“約束の地”が発見されたことにより、争奪戦が始まり、最終戦争が起き、“大破壊”へと繋がったのだが、それもこれも、聖皇の復活によって在るべき世界に送還してもられるという期待があったからだ。
聖皇復活の儀式が失敗に終わり、つぎの機会が不透明となった以上、神々は在るべき世界への帰還を切望しながらも、諦観の淵に追いやられてしまった。
召喚者でなければ、召喚されたものを送還することはできないという絶対の法理がある。それは、神々の力を以てしても破ることのできないものであり、故に神々は、この世界に留まり続けている。
ただひとつだけ、召喚物が召喚者による送還以外で在るべき世界に還る方法があるとすれば、召喚物を縛り付ける楔たる世界が滅び去ることだ。