第二千九百四十三話 窮極にして虚ろなるもの(五)
「いや、妥当なのかもしれないな。君は人間だ。小さな頭蓋の中に収まった脳髄だけが知識のすべて。知恵のすべて。思考の、思索の、思慮のすべて。無尽広大なる思考域を持つわたしとは、最初から比べるべくもなかったのだ」
嘲笑うでもなく、冷厳と、ただ事実を告げるように述べるエベルの表情には、余裕があった。表情だけではない。その悠然たる態度、仕草、反応、どれをとっても余裕に満ち溢れていて、絶大な力を発揮しているはずのウルクの猛攻も涼風を浴びているかのようだった。波光の弾幕を黒炎の弾幕で受けきり、魔晶城上空を爆煙で黒く塗り潰していく。爆音と爆風が地上までも席巻し、凄まじい熱風が汗を噴き出させる。
セツナは、ウルクの圧倒的な力を認めながらも、ひとつの懸念を抱いていた。確かにウルクはいま、エベルに食い下がるだけの力を発揮している。エベルに拮抗しうるだけの力を発揮し、食らいついている。波光砲の威力も凄まじい上、その凶悪なまでの出力から繰り出される打撃は、神の肉体を容易く吹き飛ばすだけのものがあった。ウルクひとりで、ここまでの戦いを繰り広げることができるなど、だれが想像できただろう。決着をつけるには程遠いものの、それでも十分過ぎる成果といっていいのではないか。そう想ってしまうくらいの戦いぶりだった。
だが、エベルがもし、本気を出しておらず、実力の何割かの力で応戦しているのだとすれば、話は別だ。
実際、エベルは、セツナを殺すために分霊を寄越していた。分霊とは、神の分身であり、神の全力とは、分霊すべてを合わせた力だ。
ナリアとの戦いにおいて、セツナが様々な加護や支援を得た上で戦いを優勢に運ぶことができたのは、ナリアの分霊を尽く撃滅したからであり、ナリアが本来持ちうる全力を発揮できなかったからにほかならない。そして、エベルもまた、全力を発揮していないのは、いうまでもないのだ。
セツナの鼓膜を耳障りな爆音が穢したのは、そう考えた矢先だった。衝撃波から無意識に身を守ったそのとき、周囲の瓦礫の中から光が立ち上り、魔晶人形の躯体がその光の中に浮かび上がった。髪色や姿形の異なる量産型魔晶人形たち。エベルの分霊だ。
セツナが咄嗟に矛を振り上げたときには、魔晶人形の躯体は力を失ったように崩れ落ち、光だけが飛び去っていった。全部で八つの光が、エベルの元へ集合する。分霊の本体たる光は、エベルの肉体に取り付くと、容易く吸い込まれていく。分霊をひとつ吸収するたび、エベルの光輪がその激しさを増した。八柱の分霊すべてを吸収し終えたエベルは、煉獄の業火の如き炎の輪を背負い、全身に黒い炎を纏わせる存在となり、見た目からして先程までとはまるで異なる印象を受けた。
印象だけではあるまい。その力も、大幅に増幅していることは、想像するまでもない。
その直後、エベルがこちらを一瞥したのは、セツナに差し向けた分霊を取り込んだからだろう。
「魔王の使徒よ。君の相手は、後にするとしよう。まずは、このくだらない茶番を終わらせることのほうが先決だ」
「茶番だと」
「そうだろう。君はこの舞台でわたしを滅ぼそうと画策したようだが、その脚本はあまりにも杜撰で無惨な内容なのだ。わたしは、神々さえも恐れ戦く大いなる神だぞ。黒き太陽神、無窮なる日輪、始原より終焉を照らすもの、大いなる光――それがわたしだ」
朗々と語るエベルの軽く掲げた右手の先に黒い炎が膨れ上がっていく。大気が震え、大地が揺れる。凄まじい密度の神威に黒き矛や眷属たちが怒気を隠さない。その怒りの衝動が、セツナを突き動かす。地を蹴り、飛ぶ。ラグナがセツナに向かって手を伸ばしようだが、もう遅い。セツナは一瞬にして最高速度に達すると、ウルクとエベルの間に割り込み、エベルが解き放った黒い炎の渦を“闇撫”で受け止めて見せた。ロッドオブエンヴィーの籠手から伸びる巨大な闇の掌が、濃縮された神威を受け止め、焼き尽くされる。
「うおおおっ!」
セツナは、吼えた。焼き尽くされていく“闇撫”を増強し、増幅し、炎の侵攻を食い止めようとする。すると、背後から物凄まじい熱量が迫った。いや、違う。迫ったと感じたときにはセツナを追い抜き、炎の渦を大きく迂回し、エベルの背後を取っている。ウルク。その超高速機動は、現状の完全武装以上といっても過言ではない。だが、エベルは、笑っていた。
「ウルク!」
「見え透いているぞ」
エベルの左手が、ウルクが叩きつけんとした右足首を掴み取った。かと思えば、一瞬にしてウルクの全身が黒い炎に飲み込まれ、そのまま眼下に放り投げられる。黒い流星が魔晶城の一角、まだ無傷だった工場設備を一撃で粉砕し、大爆発が巻き起こった。魔晶城は、いわば魔晶兵器工場だ。引火すれば爆発を引き起こすようなものが大量に存在したとして、なんらおかしくはない。もっとも、いまの爆発は神威によるものであり、エベルがウルクの躯体を破壊し尽くすために遠慮なく神威を叩き込んだせいだろうが。
「おまえは!」
セツナは、怒りに任せて“闇撫”を膨張させ、炎の渦を吹き払った。エベルは、涼しい顔でこちらを見ている。
「魔王の使徒セツナよ、君を殺すのは後だといったはずだ。残り少ない人生の時間、楽しみたまえよ」
「ふざけんじゃねえ!」
「ふざけているのは君だ、セツナ=カミヤ。せっかく、短い人生を振り返るだけの時間をくれてやるというのに、その温情を台無しにしているのだからね」
「温情?」
セツナは、黒き矛を構え、エベルを睨み据えた。ミドガルドに対する発言といい、セツナに対する発言といい、エベルはひとの神経を逆撫でにせずにはいられない性分でもあるのかもしれない。
「冗談も休み休みにいえってんだ!」
「魔王に選ばれようと、所詮は愚かな人間の愚かな一員に過ぎないということか」
「はっ!」
吐き捨て、飛翔する。一瞬にしてエベルに肉薄するも、エベルは、空間を歪めてセツナを遠ざけた。強制的な空間転移だ。そして転移先には炎の塊が待ち伏せていて、セツナを四方八方から攻撃した。だが、それら炎の罠は、深化したメイルオブドーターが生み出す防御障壁によって防がれ、セツナは、無傷で凌いで見せた。
メイルオブドーターの深化は、黒き軽鎧を重装化するものだ。悪魔めいた禍々しさはさらに凶悪なものとなり、ロッドオブエンヴィーの籠手とアックスオブアンビションの脚具が結びつくことで、全身鎧となる。その上で、メイルオブドーターの背中からは闇の翼が生えていた。それは、メイルオブドーターの翅ではなく、エッジオブサーストが深化変形したことで生まれた翼であり、龍の飛膜にも似た翼は、魔王の杖の眷属に相応しい姿だった。
エベルを見遣れば、表情に変化はない。炎の罠では殺せないことなど知っていたとでもいわんばかりだ。
「ならば、そうだな……まずは君の相手をしよう。君を殺し、すべての希望を断とう。竜王も、彼らも、哀れなミドガルドも、君にこそ希望を見出しているようだ。絶望の申し子であるべき魔王の使徒たる君にね」
「俺は死なねえ。殺されるかってんだ!」
「威勢だけはよくても、その程度の力では脅威にはなれんよ」
「それでも俺を殺そうというのはさ、結局のところ、怖いんだろ」
「なにを……」
「黒き矛が、魔王の杖がさ!」
「幼稚な挑発だ」
「てめえにいわれたかあねえよ! なあ、ウルク」
セツナは、エベルを見据えたまま、後方に話しかけた。ウルクは、先程の攻撃で斃されたわけではなかった。それどころかすぐさま戦線に復帰できるくらいの軽傷であるらしい。
「セツナ……エベルの相手は、わたしに任せてください」
「なにいってんだ!?」
「この窮虚躯体は、エベルを討つための躯体です。だから」
「だから、わたしならばエベルを斃せる――そういいたいのかね?」
エベルが呆れたように肩を竦めて見せた。背に負った黒炎の輪が噴き上がり、エベルの感情を示すようだった。怒気なのかもしれない。
「随分と自信を持っているようだが……順番が変わったのだ。君は、あれらの相手をしているといい。なあに、すぐに済むさ」
そういってエベルが示したのは、遙か眼下であり、魔晶城の地下から噴き出す膨大な量の波光がセツナの視界を青白く染め上げた。




