第二百九十三話 セツナたち
「ビューネル砦……か」
セツナは、馬車の中で黒い子犬と戯れているミリュウをぼんやりと眺めながら、攻略対象のことを考えていた。魔晶灯の淡い光の下、子犬は駆け回ったり飛び跳ねたりしながら、ミリュウにじゃれついている。ミリュウはミリュウで、子犬と同じように荷台の中を動き回り、度々ファリアに注意されていた。注意されると一応おとなしくはなるのだが、子犬がはしゃぎだすと、それに呼応するかのように動き出すから手に負えない。とはいえ、大声を出しているわけでもないのだ。他の部隊に迷惑がかからない以上、特に注意することもない。
「ビューネル砦がどうかしたの?」
ファリアが寝惚け眼を擦りながら尋ねてくる。彼女はさっきまで仮眠していたのだが、ミリュウと子犬の騒がしさに寝ていられなくなったのだろう。多少、不機嫌そうなのはミリュウと子犬のせいだ。
「いや、ちょっとね」
ビューネル砦。ザルワーンの首都・龍府を守護する五方防護陣、その一角を担う砦であり、五竜氏族ビューネル家の名を冠している。黒い砦ということなのだが、未明の現在、その特徴的な外観は闇に紛れてしまっているということだった。
砦の外観が黒い理由は、五竜氏族に関連する施設であるからだといい、つまるところビューネル家を象徴する色が黒だということのようだ。
「なになになになに? ふたりだけで秘密話? あたしも仲間に入れなさいよー」
「たいしたことじゃないよ」
子犬を抱えたまま体当りしてくるかのような勢いで迫ってきたミリュウに困惑しながら、セツナは愛想笑いを浮かべることで彼女の追求を逃れようとした。しかし、彼女はこちらの状況など構いなしに顔を寄せてくる。対面のファリアの冷えきった視線が痛いのだが、セツナにはどうしようもないのも事実だ。
馬車の荷台には、当然のように荷物が積み上げられているものの、セツナたち三人と子犬一匹が過ごせるだけの空間は確保されている。ミリュウと子犬がはしゃぎ回れるくらいの広さがあるのだ。もっとも、三人が横になって寝るのは難しく、同時間帯に就寝するということはなかった。セツナとファリアでミリュウの監視をしなければならないということもあり、それは構わないのだが、疲労が取りきれないというのは困りものではある。
というより、馬車に揺られながら寝ると余計な疲れが溜まるといったほうが正しいのかもしれない。マイラム以来、長い行軍だった。当初こそルウファの馬に乗せてもらっていたものの、馬車で移動することも多くなった。馬車の振動や騒音には慣れてきたが、慣れがすべてを解決するということはない。
ファリアは、荷台の御者側に積み上げられた荷物を背にしており、ミリュウは子犬ともども荷台の真ん中辺りを居場所としていた。セツナはファリアとは逆側に位置し、ふたりでミリュウを包囲するようにしているのだ。彼女が暴れだしても瞬時に取り押さえられるようにという配慮ではあったが、いまのところ、ミリュウがそういった行動を起こすような素振りは見せていない。不思議なほどに協力的であり、だからこそ警戒が必要なのだと、セツナは思っていた。
「あなたは仲間じゃないでしょ」
「むう……そりゃあたしは捕虜だけどさ。でもでも、セツナがなにを考えているのか、知りたいじゃない。ファリアはそうは思わないのかしら?」
「……否定はしないわ」
「ほらね、あなただってセツナには興味津々なんじゃない」
「隊長ですから」
「へー、それだけ?」
「なによその目」
「だったら、あたしがセツナをもらってもいいのよね?」
セツナは、首に腕を回され、そのまま抱き寄せられた。彼女が抱えていた子犬は荷台に放り出されるが、彼は尻尾を振りながらファリアに飛んで行く。両腕でがっちりと抱き竦められて、セツナにはどうすることもできなくなる。
ファリアは、近寄ってきた子犬の相手をしながら、ミリュウには氷のような視線を送る。
「なんでそうなるのよ?」
「あなたにとっては上官に過ぎないんでしょう?」
「そうだけど……」
「上官がだれのものになろうと、知ったことじゃないんじゃなくて?」
「そうね。相手が他の女性ならそれもいいわ。でも、あなたはだめよ」
「えー、どうしてよー?」
「だってあなたはまだ敵国の人間じゃない。敵国の人間の手に落ちて、内通でもされたらたまったものじゃないわ」
「むう……確かに」
なにが確かになのかはわからないが、ミリュウはなにやら納得の声を上げながらセツナを解放した。セツナには彼女がなにに納得したのかはわからなかったが、ふたりの口論が終わったことには安堵する。ふたりが同じ時間帯に起きていて、なおかつ同じ空間にいる(いないということはありえないのだが)と、なにかあるたびにぶつかり合い、火花を散らせることが多かった。しかし、喧嘩に発展するようなことはなく、どちらかといえばミリュウがファリアの意見に賛同するか納得を示すことで、口論は終息した。
脳裏には、ビューネルの名を持つ男の顔がある。ランカイン=ビューネル。セツナがこの世界にきて初めて戦った武装召喚師であり、狂気の殺戮者だ。セツナは、彼の召喚武装の炎に焼かれ、死にそうになりながらもなんとか打ちのめすことができたのだ。それこそ、黒き矛のおかげであり、セツナの実力ではなかった。
セツナがあのとき彼を殺さなかったのは、殺すという選択肢がなかったからであり、そうなる前にランカインが気を失ったからだ。ミリュウを殺さなかった理由とよく似ている。状況も、似ているのかもしれない。
セツナは、あのときも死にかけたのだ。火竜娘の生み出す炎に飲まれ、全身に火傷を負った。瀕死の重傷。普通ならば助からなかった。死んでいて当然だった。死の淵から生還することができたのは、いま目の前でミリュウと口論していた女性のおかげだった。彼女の召喚武装の能力が、セツナの命をこの世界に繋ぎ止めてくれたのだ。
(運命の矢……か)
寿命を削り、生命力を極限まで活性化させるという矢は、オーロラストームの能力のひとつだ。そうすることで人体の治癒能力を限界まで引き出し、セツナの全身を覆っていた火傷を治してしまったのだ。ファリアが、ミリュウたちとの戦いの後、自分やルウファにその矢を射なかったのは、代償が大きすぎるからに違いない。ふたりは、セツナのように死に瀕していたわけでもない。ルウファは重傷ではあったが、時間をかけて治療することができるということだったし、それはファリアも同じだった。その程度の傷を癒やすために寿命を削るのは、得策ではないと判断したのだ。
寿命という眼に見えないものがどれほど削られたのか、セツナにはわかるはずもないが、多少、恐ろしくもあった。未来が奪われた、ともいえるのだ。しかし、彼女がそうしてくれなければ、セツナはとっくに死んでいたのは間違いない。
他に方法がなかったから、ファリアは運命の矢を使ったのだ。そのことに関して、セツナはファリアを恨むことはない。感謝だけだ。たとえ明日命が尽きたとしても、彼女を呪うことはないだろう。今日まで生きてこられたのは、彼女の決断のおかげなのだ。ファリアが運命の矢の行使を決断しなければ、ガンディアの黒き矛セツナ・ゼノン=カミヤは存在しなかったのだ。
その場合、歴史はどう動いたのだろう。
そんなことを考えることもある。レオンガンドがいままで以上にランカインを重用し、酷使しただろうか。それともファリアやそれ以外の武装召喚師を集めただろうか。バルサー要塞の奪還以降のガンディアの動きは、セツナの貧弱な知識と思考では、まったく想像できなかった。
セツナがいなければ、現状のようはならなかっただろうとはよくいわれていることだが、それもどこまで信用していいものか。セツナを持ち上げるための言葉ではないのか、と思わないこともなかった。
セツナは、胸中で頭を振った。いまは目の前のことに集中するべきだろう。雑念は思考を鈍らせる。常に冷静さを保ち、神経を研ぎ澄ませておくべきなのだ。それは師の教えでもある。ルクス=ヴェイン。傭兵団《蒼き風》の“剣鬼”は、中央軍を勝利に導く大活躍をしたという話だ。彼は重傷を負ったというのだが、そんな状態でも冷静さを保ち、敵将を討ったという。さすがはセツナの師だと誇りたいところではあるが、誰に対して誇るべきなのかはわからないが。
ファリアと戯れていた子犬が、ミリュウの元へと戻っていく。彼はミリュウのほうがお気に入りであるらしい。元々、ミリュウの仲間が連れていた子犬なのだ。ミリュウに懐くのも当然なのかもしれない。とはいっても、ファリアやセツナがミリュウたちの敵だったことなど彼が知っているはずもなく、ふたりにも懐いてはいるのだが。
セツナは、子犬のように気ままに振る舞えたらどれだけ楽だろうと思わないではなかった。