第二千九百三十三話 魔晶の響宴(七)
落下を防ぐ手立てならばいくらでもあった。
なにせ彼は神であり、物理法則など合ってないようなものなのだ。たとえいまは人体を依り代とし、その人間の肉体を大切に扱わなければならないという原則があったとしても、重力をねじ曲げることくらい造作もない。
だが、彼は、予期せぬ出来事によって一瞬、気を取られた。そのために崩落に足を取られ、まるで人間のように為す術もなく落下した。脆くも崩れ去った中心設計室の床の構造材にまみれながら、ただ、重力に引かれ、滑り落ちる。
暗闇の中へ。
奈落の底へ落ちる感覚とは、このようなものだったのだろうか。
不意に、そんなことを考えてしまったのは、いままさに奈落の底の主たる魔王の手先を始末しなければならないからだったし、こんなことで我を忘れている場合ではないからだ。
ようやく衝撃から立ち直った彼は、重力を制御してその場に滞空するとともに粉塵を吹き飛ばし、瓦礫が遙か眼下に落着する音を聞いた。
中央設計室の直下がなにもない空洞だということは知っていたが、その床が崩落する仕掛けが施されていたことについては見抜けなかった。というより、想像の範囲外というべきか。たかが落とし穴ひとつで神を殺せるなどと、たとえ愚かで浅ましいミドガルド=ウェハラムであったとしても、考えもしないだろう。そう、高をくくっていた。だから、そのような仕掛けが施されている可能性について、一切考えもしなかったし、設計室直下の空洞についても、元々存在していたものとして認識していたのだ。
だがどうやらミドガルドは、彼が想っている以上に愚昧で低劣だったらしい。生物ならばまず間違いなく即死するような高度も、神たる彼にとってはなんの意味も持たない。
その縦長の空洞を降下する内に、設計室の床や机が瓦礫の山の如く積み重なっている光景が見えてきた。見上げれば設計室の灯りが闇に溶けるほどに遠ざかっており、いかにこの空洞が縦に長く、底深いかがわかるだろう。そして、その奈落の底に辿り着けば、彼は、改めてミドガルド=ウェハラムという男について考え直さざるを得なかった。
大空洞の底は、一種の広間になっていた。それもただの広間ではない。まるで宮殿の内部のような造りをしていて、人間の支配階級が好みそうな複雑かつ精緻な装飾の数々が見受けられた。残念ながら大半が設計室の残骸に押し潰されており、なにもかも無駄になってしまっているのだが、だからこそ、彼は思索するのだ。ミドガルドは、中心設計室の直下になぜこのような権威主義的な広間を造り、そこに彼を陥れようとしたのか。
この部屋の造りそのものは、ミドガルドの趣味ではあるまい。
ミドガルドは、権威主義的なものを極端に嫌っていたし、人形遊びのほうが大好きだったはずだ。宮殿の広間のような部屋よりも、人形がずらりと並んでいるほうが、余程、ミドガルドの趣味に合っている。
そう考えながら視線を巡らせていると、円形の広間だと思っていた奈落の底の一方が口を大きく開いていることに気づいた。そこには段差があり、深紅の絨毯が敷かれていた。その絨毯に沿って視線を上げていけば、頂点に豪奢な玉座があり、人形が一体、腰を下ろしていた。魔晶人形だ。ただし、これまで目の当たりにしたどの人形とも違う。ミドガルド率いる研究所が開発し、生産した魔晶人形というのは、すべて女性型だった。彼がその研究成果を奪い取って量産したのも女性型だが、それは余計な変更を加える手間を惜しんだからだ。
ともかく、男性型の魔晶人形を見るのは、彼にしても初めてのことだった。
「ようこそ、わたしの王国へ」
それは、いった。
しっかりと抑揚のある、極めて人間的な音声を、それは発した。男性型魔晶人形。質感はともかくとして、肌の色、顔の造作、体型、どれをとっても人間そっくりな上、声音までもが人間と変わらないという点では、革新的といっていいのではないだろうか。人語を発する唯一の魔晶人形ウルクすら、声に抑揚をつけることは出来ないはずだ。
つまり、それは、魔晶人形としてある種の到達点にいるものであり、その事実に彼は目を細めた。ミドガルド=ウェハラムの声であるという事実とともにだ。
「……亡国の間違いだろう」
告げて、頭を振る。それも間違っている。たしかにこの廃墟同然の広間は、亡国の廃城に見えなくもないが、前提がおかしいのだ。
「いやそもそも、国ですらないな。すべて、わたしが与えた。場所も資金も資源も人材も時間も……そして知恵すらも。なにもかもすべてだ。君がみずからの力で得たものなど、なにひとつないのだよ、ミドガルド。人形たちの王を気取る資格など、持ち合わせてはいない」
「はっ」
玉座の上で人形は表情ひとつ変えずに笑った。人形の外見は、ミドガルドに似ても似つかない。まるで芸術作品のように美しい青年であり、そこにはミドガルドの願望が多少なりとも入っているに違いない。ミドガルドとて人間なのだ。人間は、若さに執着するものだ。
「わたしを殺しきれなかったものがなにをいったところで、負け惜しみにしか聞こえないぞ」
「……それなのだが」
彼は、ミドガルドの勝ち誇る声にざわめく感情を制御しながら、問うた。
「なぜ、君は生きている。いや、本当に生きているといっていいのか? 君は、いったい、なにをした?」
純粋な疑問だった。
ミドガルド=ウェハラムは、確かに彼がこの手で殺した。ウルクに告げた通り、心臓を貫き、息の根を止めた。さらに分子の領域にまで分解したのち、完全に消滅させたのだ。ミドガルドには、この兵器工場を完成させ、将来のための戦力を大量生産するという大仕事をやり遂げてもらった以上、用済みとなった。ミドガルドの最後の仕事が、この度のウルクとセツナを誘き寄せる餌となることであり、それそのものは、ミドガルド自身が人形たちに与えた任務だった。
彼は、ウルクと再会したいというミドガルドの願いを利用しただけのことだ。
「おまえがわたしを殺しに来ることはわかりきっていた。おまえが義理堅い神であればなおさら、ルベレスが憎むわたしを野放しには出来ないだろう、とな。だが、それはすぐではない。明日明後日のことでは。おまえは、将来のためにも戦力を欲していた。だから、あのあと、わたしをこの研究所の前に転移させたのだろう?」
あのあと、とは、“約束の地”争奪戦が神々の敗北に終わり、聖皇復活の儀式が失敗したことで引き起こされた天変地異によって、大陸が引き裂かれた直後のことだ。確かに彼は、ミドガルドを魔晶技術研究所へと送り届けている。その理由も、ミドガルドが指摘した通りだった。
ミドガルドは、ルベレスへの反発や怒りから魔晶兵器や魔晶人形の研究開発にさらに熱を入れるに違いないという彼の思惑は、当たった。ミドガルドは、あっという間に魔晶技術研究所を、魔晶城塞へと造り替え、魔晶兵器と魔晶人形の製造工場を稼働させたのだ。とても、人間業とは思えない。
「わたしはすぐに気づいたよ。ああ、おまえは、またしてもわたしを手のひらの上で踊らせるつもりなのだろう、とな」
「わかっていたならば、なぜ、踊るのを止めなかった? わたしに意趣返しができるとでも、一瞬でも思ってしまったか?」
「踊っているのはおまえのほうだ、エベル。おまえは、わたしを殺しきれなかった。そして、おまえはわたしの思惑通り、想定通りに事を運んでくれたな」
「なんだと?」
「おまえは、おまえが思っているほど、全知全能ではないということだよ、エベル」
その言葉を耳元で聞いたのは、エベルが玉座に座る人形の胸を貫いていたからだ。神威を込めた右手が魔晶人形の胸甲を容易く突き破り、心核を破壊する。これにより、玉座の背もたれも壊してしまったが、問題はないだろう。人形は、物言わぬ残骸と化した。
「だからといって、君に対処できるわけもない」
「その通りだ。わたしでは、おまえを斃せない。おまえは神だからな」
ミドガルドの声は、まったく別の方向から聞こえてきた。