第二千九百二十九話 魔晶の響宴(三)
彼は、随分と窶れているように見えた。
かつて彼と知り合ったとき、既に決して若くはなかったが、それでも若々しさはあった。魔晶技術の、いや、最愛の娘たるウルクの研究に全身全霊を込める彼の姿は、いつだって若々しく、生き生きとしていた。それがミドガルド=ウェハラムを実年齢以上に若く見せていたのは間違いなかったし、だからこそ、いまの彼は、年齢以上に年老いているように見えるのかもしれない。
彼は、“大破壊”以来、ウルクと逢っていないのだ。
それどころか、ここに籠もりっぱなしだったのではないか。
身に纏った白衣もよれよれだったし、全身、やせ細っているように見えた。しかし、その容姿はミドガルド=ウェハラムそのひとだったし、声も表情も彼そのものだ。
「この三年……まあ、君に使いを出して二年ほどか。それでも、長かったよ。わたしにとっては」
「ミドガルドさん……」
セツナは、彼がウルクとの再会を心から喜んでいるように想えてならなかったし、ミドガルドを目の前にして硬直するウルクの後ろ姿に感動を禁じ得なかった。ミドガルドにとってウルクは愛娘同然であり、彼は彼女のために人生を擲ったのだ。自分の立場や命よりも、ウルクの夢や望みを優先したことは、セツナもよく知ることだ。そして、ウルクは、そのことを強く想っているに違いない。
ふたりの間には、親子の情がある。
まさに感動の再会だった。
そこは、研究室のようだった。真っ白な室内には、いくつもの机があり、机の上には資料の山が並んでいる。書棚にも、数え切れない資料や書類があり、様々な色の魔晶石が並べられた台座などもあった。調度品の類は少ない。研究のためだけの部屋といえた。
ウルクは、黙していた。
ミドガルドとの再会に感極まっているのだろう。
セツナは、ウルクの心情を察して、なにもいわなかった。魔晶人形は、本来、感情を持たない。開発当初、魔晶人形は遠隔操作か自動操縦によって戦闘を行うだけの兵器だったのだ。そこに奇跡が起き、ウルクに自我が発現した。その原因は解明されなかったが、ともかく、ミドガルドたちは、自我を得、言語能力さえ獲得したウルクを成長させることに専念した。そして、彼女は感情をも獲得し、精神的に成長していったのだ。
その彼女がいままさに成長した感情を抑えきれないといった様子なのだ。
そう、想った。
だが。
「あなたはだれですか」
ウルクは、ミドガルドに向かって、冷徹に告げた。
セツナには、彼女の発言の意図がまったく理解できなかった。目の前にいるのは、間違いなくミドガルドだった。確かに三年以上前の姿とは異なるが、しかし、それは時間経過や彼の過ごしてきた環境を思えば、当然の変化だった。ウルクが理解できないわけがない。セツナはおろか、ミリュウやファリアのみならず、成長したエリナを平然と受け入れている時点で、彼女が人間の成長や変化を理解できないわけではないことは明らかなのだ。
たとえ、最後に見た姿と多少の変化があったとしても、それが把握できないウルクではない。
「なにをいっているんだ? ウルク。わたしがわからないわけではあるまい」
「そうじゃぞ、後輩。ミドガルドならばおぬしの目の前におるではないか」
「冗談がきついぞ、ウルク、君はわたしの顔も声も忘れてしまったのか」
「あなたはミドガルドではありません。なにものですか。ミドガルドをどこへやったのですか。答えてください」
ウルクは、セツナやラグナ、ミドガルドの反応を黙殺するようにして、距離を詰めた。ミドガルドがわずかに後退りしたのは、ウルクに気圧されたからだろう。ウルクはさらに歩を進める。ずかずかとミドガルドに接近し、いまにも殴りかからんばかりの勢いだった。
ふたりの距離が縮まるのにそう時間はかからない。だからだろうか。ミドガルドが観念したかのように口を開いた。
「彼は死んだよ。わたしが殺した」
一瞬だった。いや、一瞬にも満たない時間の出来事。まさに刹那といってもいいだろう。少なくとも人間の目には捉えられない速度であり、セツナは、その瞬間になにが起こったのかを理解できなかった。理解できたのは、それが終わってからのことだ。
「こんな風にな」
轟音と閃光が視界を染め上げたつぎの瞬間、ウルクの背中から腕が生えていた。それはまるで恐ろしくも美しい絵画作品のような光景だった。だが実際にはそうではない。頑強極まりない多重装甲に覆われた弐號躯体をミドガルドを名乗った男の素手が貫いたのだ。しかもただ貫いたわけではなかった。男の傷ひとつない手には黒い結晶体が取り付けられた機材ごと握り締められていた。黒色魔晶石。ウルクの心核。ウルクの心臓。
男の手が閃光を発しながら魔晶石を粉砕したとき、ようやく、セツナは反応できた。だが。
「なっ――!?」
「遅いぞ、魔王の使徒」
男のいうとおり、それは確かに遅すぎたのだ。
セツナは、心臓の辺りに穴の開いたウルクの躯体が力なくくずおれていく様を見遣りながら、その向こう側にいるはずの男が目の前に現れたことに気づき、愕然とした。
そして、咆哮を聞いた。
「なるほど……竜王か」
彼は、右腕の傷口から溢れる血液が、潔癖なまでの白さが誇らしげにその存在を主張するミドガルド=ウェハラムの中心設計室の床を毒々しく染め上げていく様に不愉快な快感を覚えることに苦笑した。こればかりは、致し方のないことだ。この五百年、人間の体を依り代として乗り継いできた影響で、感性が人間に近づいてしまっている。そのために本来不要な情念に左右され、このような目に遭っている。
それもこれも、五百年前、さらなる力を欲したが故の自業自得なのだから、如何ともしがたいことだ。
どくどくと流れ続ける血を眺めるのにも飽いて、彼は右腕を復元した。すっぱり切り取られたような断面から骨と肉、神経に至るまで、すべての構成要素が一瞬のうちに復元する。神の力ならば当然の事だし、神ならばひとりの人間に宿り続けて生き長らえることも不可能ではないのだが、彼はそうしなかった。
それは、人間社会では不自然であるからだ。
「不自然……そう、不自然だったのだよ、ミドガルド」
ミドガルド=ウェハラムは実に優秀な研究者だった。
「人間が我が身に似せて生命を作り出すなど、あってはならぬことだ。それこそ、神の御業。神にのみ許される行い。そう定めたのが、君ら人間だったはずだ。だのに君は神の領域に挑んだ。だからわたしは君に知恵の実を与えてやったんだがね」
聴衆などひとりとしていない空間で、彼は、ただ勝ち誇る。
万事、上手く行っている。
ミドガルドを餌とすれば、ウルクは必ずや現れるだろう。そして、そのときウルクは必ずセツナを連れてくるはずだ。ウルクがたったひとりでここに辿り着く可能性もなくはなかったが、その場合はその場合で、つぎの手は考えてあった。
それにミドガルドの作品たるウルクを破壊し、抹消することもまた、彼にとっては必要不可欠な儀式だった。ルベレス・レイグナス=ディールの心を慰めるためには、ミドガルドを完膚なきまでに叩きのめさなければならなかった。でなければ、ルベレスの怒りは収まらない。
それはともかくとして、彼は、自身の構想通りに事が運んでいることに気をよくしていた。
思った通り、ウルクは、セツナを連れてここにやってきた。竜王までもがセツナに与しているとは予想外だったが、問題はない。竜王による空間転移は、失敗に終わったはずだ。
この城は、すべて彼の支配下にある。
城に起こる出来事は、彼の力の影響を受けるのだ。
斃すべき敵は魔王の杖の護持者だ。
そのためのお膳立てがこの城だ。
もちろん、ミドガルドは、彼に利用されるともつゆ知らずに作り続けたのだが。
「待っていたのだよ、このときを」
「わたしもだよ」
不意に、声が響いた。
「待っていたのだ、このときを」
「おまえは――」
そしてそのとき、中心設計室の床が崩壊した。