第二百九十二話 二人の軍団長
西進軍が遠方にビューネル砦を望む場所に到着したのは、二十二日未明のことだった。
休憩を挟みながらの行軍ではあったものの、予定通り目的地に到達できたのは、ミリュウたちとの戦闘以来、ザルワーン側からの妨害がなかったからだ。ザルワーンに戦力が余っていないからなのか、それとも、五方防護陣の防衛力に自信があるからなのか。西進軍は、ミリュウたちとの戦いに勝利した後、戦場となった草原を何事も無く縦断することができたのだ。
ビューネル砦を望む場所に陣取ったとはいうものの、騎馬でも半日はかかる距離があった。ビューネル砦になんらかの動きがあっても、十分に対応できるだけの距離だ。ビューネル砦南方に広がる森の中に軍勢を潜ませたものの、ザルワーン軍がこちらの動きを把握していないはずがない。ビューネル砦は、既に五方防護陣の他の砦と連絡を取り合っているに違いなく、援軍の準備も進んでいることだろう。
とはいえ、ビューネル砦に援軍を派遣することができるのは、龍府北西のライバーン砦と、龍府だけだ。ビューネルから南東のヴリディア砦は、いまごろ、中央軍の接近への対応に追われているはずだ。そして、ファブルネイア砦には北進軍が近づきつつあるはずであり、龍府包囲の布陣は整いはじめていると言っても過言ではない。
「穴だらけの包囲網……か」
「ガンディアの戦略自体穴だらけですよ」
ドルカの冷やかしに笑みをこぼしながら、エインは、夜明け目前の闇の先にあるものを見ていた。未明であり、なおかつ曇り空であるために彼の視力では確認することはできないのだが、遥か前方にビューネル砦が確かに存在するのだ。斥候からの報告に間違いはない。何度も確認させたことだし、地図を見る限りでも、西進軍が陣を張った森の北にこそビューネル砦が聳えているのだ。
地図は、ミリュウたちに付き従っていた龍牙軍兵士から手に入れたものであり、エインが用意した地図よりも余程正確に描き記されている。バハンダール周囲の湿原地帯が入念に記されているのは、ザルワーン軍が多大な血を流して得た教訓によるものなのかも知れず、湿原で散ったものたちの怨念なのかもしれない。そう考えさせるほどに、湿原地帯の描写は細かく、バハンダールの北と南を走る街道の微妙な歪みさえ、精確に描かれている。
ビューネル砦の周辺だけではなく、ザルワーン領土全域が記された地図だ。マイラムから出発する前に入手できていれば、もっとまともな戦略を練ることができたのではないか、と思わないではない。もっとも、エインが考えた戦略が上に採用されるということはないだろうが。アスタル=ラナディースが指揮を執る西進軍だからこそ、エインの策が採用されるのだ。エインが右眼将軍のお気に入りだということと、西進軍を構成するのがログナー方面軍だということ。そういった要素が上手く噛み合った結果、エインは軍師のように振る舞うことが許されている。普通、軍団長にそこまでの権限を与えようとはしないだろう。アスタルがエインに対して甘いのか、ログナー方面軍そのものが、エインになんらかの期待を抱いているのか。
両方あるだろう。
踵を返して森の中の陣幕に向かいながら、冷ややかに認めた。エインは、自分に向けられた期待や甘さを利用しているのだ。そうでもしなければ、十六歳の若輩者が表舞台に立つことなどできない。いや、彼は表舞台に立ちたいというわけではない。しかし、エイン自身の望みを叶えるには、そうならざるを得ない。戦果を上げ、評価されなくてはならないのだ。でなければ、彼のわがままを通すことはできない。
もっとも、ナグラシア以来、エインの望みは叶い続けていて、これ以上ないほどの幸福とともにあるのだが。
「おや、将来を嘱望される軍団長がそんなことをいってもいいのかな?」
「だれかに聞かれでもしたら、まずいかもしれませんけどね」
先の発言は、ザルワーン侵攻を企てたガンディア王と軍部への批判そのものなのだ。周囲にひとがいれば別の言葉を返しただろう。だが、周りにはドルカひとりしかいなかった。彼の副官さえいなかったのだ。エインがそれを望んだわけでもない。そして、彼が気を利かせた、ということでもない。ニナ=セントールを休ませているだけの話だ。しかし、おかげで素直になれたのも事実だった。ニナが彼の傍らにいるのといないのとではわけが違う。
つい、気が緩んだ。
「俺、聞いてたんだけどなあ」
「ドルカさんが俺を陥れるような方だとは思いませんよ」
エインがドルカの顔を横目に覗くと、彼は多少呆気に取られたような表情を浮かべていた。
「参ったな」
「なにがです?」
「そこまで信用されていたのかね、俺」
「ええ」
即答すると、またしても彼は困ったような顔をしていたが、エインは特になにもいわなかった。ドルカとは特別親しくしてきたわけではない。ログナー時代は立場も大きく違っていた。エインは飛翔将軍の親衛隊に選出されており、小隊長のドルカとは言葉を交わす機会さえなかった。
エインが彼を知ったのは、アスタルによる謀反の後のことだ。ログナーの状況を憂い、王に反逆したアスタルの元に集った人材の中に、ドルカ=フォームの名があったのだ。もっとも、アスタルはドルカの実力に早くから目をつけていたらしく、ログナーの改革後、彼の立場を向上させようと思っていたらしい。が、ログナーの改革は実らず、ガンディアに制圧されるという結末を迎えた。
そして、ログナー方面軍の軍団長に抜擢されたエインは、同じく軍団長に任命されたドルカと出逢い、そこから彼のひととなりを知っていった。
信用に足る人物だとすぐに思ったのは、彼がアスタルの信任を得ているからでもあるが、当然それだけではない。彼は、無名の小隊長から第四軍団の軍団長へと大抜擢されたのにもかかわらず、二月に満たない期間で軍団員たちから多大な信望を得ているのだ。彼を取り巻く軍団員たちの表情を見れば、いかに彼が慕われているのかがわかる。
赤騎士として名を馳せたグラード=クライドや、ギルバース家のレノ=ギルバース、エインといった、ログナー時代から名の知れた連中とは違い、彼は一から部下たちとの関係を築いていったに違いない。無論、軍団に配属された以上、どんな上官であっても従うしかないのが、しがない兵士のさだめではあるのだが。
「じゃあ、ひとつ、聞いてもいいかい?」
「いいですけど……なにか気になることでもあるんですか?」
「ああ、たいしたことじゃないんだ。ミリュウ=リバイエンについて、さ」
「それなら散々話し合ったじゃないですか」
エインは足を止めて、声を潜めた。もう少し進めば、西進軍の陣地に足を踏み入れることになる。当然、哨戒中の兵士もいるだろう。彼らに聞かれるのははばかられるような内容かもしれないと、エインは判断したのだ。
ミリュウ=リバイエンの処遇に関する話題ほど慎重に扱わなければならないものもない。彼女はザルワーンの武装召喚師として数日前に戦った敵であり、セツナの活躍により西進軍の捕虜となっていた。それだけならばなんの問題もない。しかし、彼女との交渉の結果、彼女の身は《獅子の尾》の管理下に置かれることになったのだ。
彼女自身は《獅子の尾》というよりは、セツナの監視下を希望してきたのだが、さすがにセツナひとりに負担をかけるわけにもいかなかった。セツナに戦闘以外のことで煩わせたくないというのは、エインだけの考えではない。レオンガンド王もそう思って、ファリアに隊長補佐を任せたに違いなく、隊長、隊長補佐、副長という変則的な構成も、彼への負担を軽減するための措置と考えられた。実際、《獅子の尾》の事務や雑務を受け持つのは副長と隊長補佐であり、隊長であるセツナは、日夜訓練に勤しんでいるという。
そんなセツナたちの監視下ではあるものの、ある程度の自由を得たミリュウに対し、西進軍の兵士たちは複雑な感情を抱いているのは疑いようがない。
特に、エイン配下の兵士たちがそうだ。先の戦いで、エインの策によって誘き出されたミリュウは、エインの部下たちを数名、斬殺している。それが許せないというものも少なくはなかった。だれもが、それが戦争というものだと割り切ることができるわけではないのだ。
エインは、戦いが終わった瞬間には、そういった感情は捨て去ることができる。でなければ、エインはセツナを信奉するようなことはなかっただろう。同胞を殺していく男の姿に見惚れたことがきっかけだったのかもしれない。そんなことを考えると、やはり、すべての始まりはセツナに行き着くのだ。
「どうも、気にかかるんだよねえ。ミリュウちゃん、カミヤ殿となにかあったのかなあ、って」
「そこですか」
エインは目の前に垂れ下がっている枝を掴みながら、ついつい吹き出してしまった。ドルカの気になることというのは、ミリュウがセツナに対して異常なまでの関心を抱いているということだろう。執心といってもいいかもしれない。彼女が、自分を監視するならセツナじゃなければ嫌だ、といってきたことを思い出す。
どうしてそこまでセツナに執着しているのかは、エインには想像もできない。エインのセツナへの想いが、他人には理解できないのと同じことだ。他人の感情や心境など、真に理解できるはずもないのだ。それでも、エインはセツナの気持ちは理解したいと考えてしまう。困ったことだ。
ミリュウはセツナと直接戦い、生き残った数少ない人物だ。セツナが彼女を殺さなかったのは、彼女が気を失い、殺す必要がなかったからに過ぎない。が、彼女が意識を失ったからこそ、セツナは生き延びることができたのだという。セツナは黒き矛の複製品を手にしたミリュウに押し負け、殺されそうになっていたらしい。考えるだにぞっとしないのだが、彼がいうからには事実なのだろうが。
「そこしかないだろう? エイン軍団長は気にならないのかな?」
「気にはなりますが」
「だろう?」
「まあ、気にしたところで、どうにもなるものでもないですし」
「それもそうなんだけどさ」
不承不承といった様子のドルカを横目に見ながら、エインは、ミリュウとセツナの関係よりも、ミリュウとファリアの関係を気にしたほうがいいのではないかと思わないではなかった。ファリアが手綱を握っているとはいえ、ふたりとも強力な武装召喚師だ。セツナを巡る喧嘩が戦闘に発展しないとも限らない。そうなれば、セツナですら手が付けられなくなるのは目に見えている。
(……って、それはないか)
エインは頭を振ると、自陣への帰還を再開した。