第二千九百十八話 息を潜めるように(二)
状況が大きく変わったのはいつだったか。
ログノールを取り巻く情勢は、獅徒ウェゼルニルとの戦い以降、良化する一方だった。
ネア・ガンディアの獅子神皇、その使徒たるもの、獅徒ウェゼルニル。その到来は、ログノールのみならずログナー島に絶望を突きつけるものだった。なにせ、ログナー島の全戦力を結集しても、どうにもならない相手だったのだ。にも関わらず、ログノールがネア・ガンディアから自由を勝ち取ることが出来たのは、セツナ一行が助勢してくれたからにほかならない。
セツナたちが獅徒ウェゼルニルを撃退してくれたことで、ログナー島は一時の安息を得た。
ログノール、エンジュール、メキドサール、その他諸々は、その一時の安息が永遠に続いてくれればいいと想ったが、それは不可能であるとも悟ってはいた。
ネア・ガンディアと名乗る組織があり、その組織の目的が世界全土を支配下に置くことならば、いずれ再びログナー島は戦場と化すだろう。
そのときまでにできることはなんなのか。
ネア・ガンディアの再侵攻に備え、出来うる限りの準備を整えておく必要があった。
ただ、そういった準備をしたところで、ネア・ガンディアが本腰を入れれば一溜まりもなく、エインたちの想像を絶する戦力の投入の前にログナー島は沈黙した。
飛翔船の大船団がログナー島の頭上を覆い隠し、太陽光線さえも遮るかのようだったのだ。
数多の船が天と地の間を埋め尽くしただけで、エインは敗北を悟った。圧倒的な戦力差を眼前に突きつけられたのだ。勝てるわけがない。抵抗しても意味がない。その事実は、エインのみならず、彼の伴侶でありログノール軍の将軍であるアスタル=ラナディースも、ログノールの総統ドルカ=フォームも理解していた。
故にメキドサールが神威砲の一撃で滅ぼされたという報せが入るなり、エインは参謀から罷免され、アスタルも将軍の座を追われた。それ以外にも多くのログノールの重臣が罷免されたが、それはネア・ガンディアへの降伏を余儀なくされたドルカが考え抜いた末の策だった。
ネア・ガンディアに降伏すれば最後、ログノールの自由はない。当然、人事にも介入してくるだろうし、もしかすると、ネア・ガンディアがエインやアスタルといった優秀な人材を欲しがるかもしれない。もし、エインたちが役職についたままであり、ネア・ガンディアがそのような要望を出してきた場合、断固拒絶することなど、できるわけもなかった。
故にドルカは、記録上、エインたちを殺した。
エイン、アスタルを含む、ログノールの多くの人材は、ドルカに罷免されたことを恨み、メキドサールに身を寄せていた――ということにされ、ネア・ガンディアによってメキドサールもろとも滅ぼされたことになったのだ。
そのため、エインたちは、記録上死人であり、少しばかり愉快な境遇となっていた。
「それにしても、ここのところのエイン殿は、どこか楽しそうですな」
「ゴードン殿もそう想いますか」
「ということは、アスタル殿も?」
「ええ」
「そりゃあ死人として生きられることなんて、そうあることではありませんから」
エインは、エンジュールの司政官ゴードン=フェネックと愛しい伴侶の会話を背後に聞きながら、言い返した。視線は、森の中で繰り広げられる鍛錬に釘付けだった。屈強な戦士たちは、黙々と肉体をいじめ続けている。
公的に死人となったエインたちログノールの元重臣たちは、散り散りになっている。エンジュールに身を寄せるものもいれば、エインのようにメキドサールに身を隠すものもいるが、マルスールに隠れ住んでいるものが一番多い。メキドサールはいわずもがなだが、エンジュールは温泉郷であり、ネア・ガンディアの軍人たちによって支配されているようなものだからだ。
エインとアスタルがこうしてエンジュールを訪れることすら、細心の注意を払わなければならなかった。
とはいえ、エインたちが半ば堂々とエンジュールを出入りすることができているのは、ネア・ガンディアの軍人のほとんどが元ヴァシュタリア人という事実があるからだ。
ネア・ガンディア軍の中でも聖軍と呼ばれる軍隊が、ログナー島の占拠を任されている。聖軍は、最終戦争時、最終決戦の地に結集したヴァシュタリア軍の将兵によって構成されているというのだが、なぜなのかは、いまもって不明だった。というのも、聖軍の兵士たち、いわゆる聖兵たちから情報を聞き出すことは困難を極め、彼らがヴァシュタリア人であるということくらいしか教えてくれないからだ。それ以上に情報を引き出そうとすると、強く警戒された。
新生ガンディアと名乗る組織の戦力の大半がガンディアとは無縁のヴァシュタリア人というのは、不思議だったし、奇妙なこととしか言い様がない。
しかし、ネア・ガンディアの頂点に立つ獅子神皇レオンガンド・レイグナス=ガンディアは、かつての獅子王レオンガンド・レイ=ガンディアそのひとであるということはドルカが肉眼で確認しているし、かつての大将軍や《獅子の牙》隊長、《獅子の爪》隊長の姿もあったという。つまり、ネア・ガンディアの上層部は、ガンディアの上層部そのものといっても過言ではないということだ。そこに神々が加わり、獅徒が加わり、聖軍や神軍が加わって、ネア・ガンディアなる超巨大戦力が作り上げられている。
「とはいえ、いつまでも死人のままでは退屈になるんでしょうけど」
「いつ、息を吹き返します?」
「それは……またいずれ、というほかないでしょう」
エインは、苦笑交じりに返すしかなかった。
現状、ログナー島の全戦力を結集したところで、ネア・ガンディアに勝ち目はない。この島に降り立った聖軍将兵を撃退することもままならないだろう。
聖軍は、聖将と呼ばれる指揮官と聖兵と呼ばれる兵士たちによって構成されているが、それら聖将と聖兵はいずれも常人とは比べものにならない力を持っている。そして、ログナー島に降り立っている聖軍将兵の総数は一万を優に超えており、それらがログノール首都マイラム、マルスール、エンジュールに数千単位で駐屯している。
中でもエンジュールは、温泉郷ということもあって、もっとも多くの聖兵が集まっていた。
そんな聖兵たちの監視の目を縫うことは、決して難しいことではない。
故にこそエインはアスタルとともに度々エンジュールを訪れ、シグルド=フォリアー率いる《蒼き風》の様子を窺ったり、司政官ゴードン=フェネック、守護エレニア=ディフォンと密に話し合うことができているのだ。
驕りがあるのだろう。
ログノールにせよ、エンジュールにせよ、ネア・ガンディアの再侵攻に際し、徹頭徹尾恭順の姿勢を取り、崩さなかったのだ。それは、ネア・ガンディアの飛翔船が神威砲の一撃によってメキドサールを滅ぼしたから、ではない。彼らはそう想っているだろうが、予てよりの計画通りだった。もし万が一、ネア・ガンディアが再度侵攻してきた暁には、蹂躙される前にすべてを明け渡すことにしていたのだ。
メキドサールが滅ぼされることも、予定通りだった。
メキドサールは、皇魔の国であり、皇魔たちの力は、ネア・ガンディアにとっても厄介なものだった。故に結界で隠していた場合、徹底的な捜索の後、滅ぼされるだろうことは明らかだ。そのため、結界を解いた状態のメキドサールをわざと滅ぼさせることで、目くらましとしたのだ。
滅ぼされたはずのメキドサールが、ログナー島北部に素早く再建されているとは、神にも想像できまい。実際、新たなメキドサールには、聖軍の目も手も及んでいなかった。
ログナー島は、ネア・ガンディアに支配された。
が、完全に支配されているわけではなかったし、反抗のときに向けて、だれもが準備していた。
エインたち死人も、シグルドら生者も、だれもが、だ。
人間も皇魔も、いつかそのときが来ることを信じていた。