第二千九百十七話 息を潜めるように(一)
大陸が破滅的な悲劇に見舞われた日、世界は終わるものかと想われた。
実際、世界は滅亡の寸前に追いやられ、半死半生のまま、辛くも生き延びたに過ぎないのかもしれない。大陸はばらばらになり、ひとびとは散り散りになった。数多の命が一瞬にして消え去り、そのあとも膨大な数の命が失われていった。人間だけではない。鳥、獣、魚、植物――生きとし生けるもの、すべてがその対象となった。
破滅的な災厄。
“大破壊”と呼ぶものもいる。
その日以来、世界には暗い影が落ちた。
世界はさながら終末に向かって突き進んでいくかのようであり、混沌たる時代が幕を開けた。いや、幕を下ろそうとしていた、といったほうが正しいのかもしれない。
世には神威が満ち溢れた。神の力に含まれたある種の猛毒が生命を蝕み、世界を蝕んだ。命が変容し、世界が変容した。
まるで滅びに曝されたように、世界は終焉に向かっていった。
それでも、ひとは生きていた。
生きている以上、生き抜いていかなければならない。
それが人間であり、命なのだ。
命は、生きることを渇望する。どれだけ絶望的な状況に追い込まれても、生きている限り、生きようと願い、生きようと奮起する。完全に望みが絶たれ、息すら出来なくなれば話は別かもしれないが、そうではなかった。
生きていた。
まだ、すべてを諦めるような境遇ではなかった。
だから、生きていられた。
(それもいつまで持つのやら)
ドルカ=フォームは、半分が欠けた視界の中、悠然とした足取りで近づいてくる人物の相も変わらぬ表情に微苦笑を漏らした。エイン=ラナディースは相も変わらぬ童顔に自信の満ち溢れた表情を刻み、悠々たる様子でこちらに向かってきている。ログノール軍の元参謀にして、ログノールの頭脳は、この期に及んで希望を見失ってはいないのだ。
「やあ、エイン。君は相変わらず元気そうだ」
「そういう総統閣下は相も変わらずやつれておられますね」
「はっ……それはそうだろうさ。ネア・ガンディアとの折衝には心が折れそうだ」
「結構」
「なにが結構なものか」
「折れるだけの心が残っておいでなら、なんの問題もなさそうですし」
「君がいうと、冗談に聞こえないから恐ろしいな」
ドルカは肩を竦めた。
エインは、ここのところ、ドルカ以上に多忙を極めていた。元々、エンジュールやメキドサールとの関係もあって、彼には休む間というものがなかったのだが、ログノールがネア・ガンディアに降伏して以降、彼の仕事量というのはさらに増大していた。
ネア・ガンディアとの交渉そのものにはログノール政府の代表であるドルカが赴くものの、それ以外の仕事には、エインが当たらなければならなかったのだ。
ログノール軍将軍アスタル=ラナディースは、動くわけにはいかない。軍が動けば、ネア・ガンディアに余計な警戒を招くことになる。ネア・ガンディアの軍を刺激すれば、碌な目に遭うはずがないのだ。ネア・ガンディア軍は融通が利かない。頭が硬すぎて、故に交渉は難航続きだった。
そして、それ故にエインには軍を辞めてもらうほかなかった。彼が軍参謀のままならば、ログノールで身動きひとつできず、雁字搦めにならざるを得なかっただろう。彼を自由の身としたのは、ネア・ガンディアという堅物の目を逃れるためだ。頭の硬い連中には、柔軟な発想というものがない。
「冗談でもないんですが」
「止めてくれ」
泣きつくようにいうと、さすがに哀れに思ってくれたのだろう。彼はそれ以上、そのことを引っ張りはしなかった。
「温泉宿のほうはどうだい?」
ドルカの質問は、現在、ログナー島で用いられる隠語によるものだった。
「それはもう盛況ですよ。このままでは部屋数が足りなくなるのも時間の問題でしょう」
「ふむ、それは大変だ。急いで建て増ししたほうがいいのではないか?」
「既に手配済みです。とはいえ、大工事をするわけにもいかないのでね」
「確かにな」
エンジュールも、ネア・ガンディアに降伏しているのだ。いくら温泉郷であり、ネア・ガンディアの軍人たちが気に入っているとはいえ、目立った真似をすれば、彼らの不興を買い、滅ぼされかねない。ネア・ガンディアの連中は、ガンディアとは違うのだ。
新生ガンディアを名乗る、ガンディアならざる国家。
それがネア・ガンディアである、と、ドルカたちは認識していた。
頂点に立つのは、獅子神皇レオンガンド・レイグナス=ガンディアであり、その人物がかつてのガンディア国王にして獅子王レオンガンド・レイ=ガンディアそのひとであることは、百も承知だ。ログノールがネア・ガンディアに降伏した際、交渉の席についたのは、レオンガンド自身だった。故にこそ交渉の余地があり、ログノールは、ログノール政府の統治に任されることになったのだ。だがそれも永遠に許されるわけもない。いずれ、ログノールを始めとするログナー島の都市はすべてネア・ガンディア政府のものとなるだろう。そのための準備を始めていることもわかっている。
ネア・ガンディアは、世界全土を支配し、統一国家を作り上げるつもりなのだ。
そのため、他に注力するべく、ログナー島を現在の統治機構に任せているのであり、すべての準備が整ったのであれば、すぐさまログナー島全土をネア・ガンディアの統治下に組み込むだろう。
そしてそのときは、そう遠くない。
なぜならば、ネア・ガンディアの軍事力は圧倒的であり、現状、彼らに敵する組織は存在し得ないからだ。
「では、森のほうはどうかね?」
「順調ですよ。日々、成果が出ています。温泉宿以上にね」
「そうなるか」
「それはそうでしょう」
エインは、わかりきったことだといわんばかりだった。
それもそうだ。
森ことメキドサールは、魔王ユベル率いる皇魔の国なのだ。その軍事力は、ログノールとエンジュールを含めたログナー島最大規模であり、最高戦力といっていい。
もっとも、故にこそネア・ガンディア軍によって問答無用で滅ぼされたのだろうが。
しかし、森は、秘密裏に再建された。ネア・ガンディアの与り知らぬところで、皇魔たちの国が再び産声を上げたのだ。
かつてメキドサールが滅ぼされたのは、彼らがログノールやエンジュールとの交流のため、結界を解いていたからだ。そのためにネア・ガンディア軍に発見され、攻撃を受ける羽目になった。発見された以上、結界を張り巡らせたところでもう遅い。飛翔船による砲撃によって、森そのものが消滅した。
が、ユベルたちは生きていた。彼らはしばらくエンジュールに身を潜めたが、ネア・ガンディア軍がエンジュールを包囲すると、その包囲を脱し、ログナー島北部の森林地帯に逃れた。そしてそこを新たな魔王の森メキドサールとしたのだ。今度は、身を隠すための結界を忘れなかった。そのために外界との接触すら困難となったが、ネア・ガンディアの攻撃を逃れるためならば致し方のないことだった。いや、当然といったほうがいいだろう。
ネア・ガンディアは、攻撃すると決めたら容赦がない。
圧倒的な火力でもって滅ぼし尽くす。
そうなってからでは遅いのだ。
今度こそ、ユベルたちまでも命を落とすかもしれない。
メキドサールがログノールと友好を結んでいられるのは、ユベルがいるからだ。ユベルが皇魔たちを支配し、導いてくれているからこそ、人間と皇魔という相容れぬ存在が仮初めにも手を取り合うことができている。もしユベルが命を落とせば、その瞬間、ログナー島は地獄に変わるだろう。皇魔までもが、ログナー島のひとびとの敵となるのだから。
そういう意味でも、ユベルには長生きしてもらわなければならなかったし、彼には無理をさせたくなかった。
エインも、そのことは重々承知しているだろう。