第二千九百十三話 鋼鉄世界のミリュウ(一)
鉛色の空が頭上を覆っている。
そして、幾重にも積み重なった雲がその重みに耐えかねて地上に墜ちてきそうになっているのではないかというほどに空は低く、空気も淀んでいる。風がないからだ。まったくといいほどの無風状態であり、その風のなさが故に空気が滞り、澱み、腐敗していくのではないか。いや、腐りきってはいない。少なくとも、空気中に腐敗臭はなかった。人間の嗅覚に感じ取れる範囲ではないという程度の安心感しかないが。
不安ならばいくらでもあった。
ここは異世界だ。
彼女が愛用する召喚武装ラヴァーソウルの本来在るべき世界。イルス・ヴァレとは成り立ちからなにもかもが異なる世界。イルス・ヴァレの常識など一切通用しないと心得るべきであり、イルス・ヴァレと異なる現象が起きたとしても、驚いてはならない。それはそういうものなのだと理解し、冷静に対処するべきだろう。
たとえば、いま目の前を鋼鉄の獣が歩き回っていたとしても、そのことで取り立てて騒ぎ回る必要もないのだ。
(動物……かしら)
ミリュウは、荷袋を地面に起き、その上に腰を落ち着けるようにして、それらを観察していた。
転移地点、つまりゲートオブヴァーミリオンの所在地からはそれほど遠くない場所に彼女はいる。
勘を頼りに歩き始めること一時間ほど。鋼鉄の大地ばかりが続く中、変化が起きたのは唐突だった。それらが突如として現れたのだ。分厚い鉄の板が張り巡らされたとしか思えないような大地を踏みしめるけたたましい足音の群れは、ミリュウの進行方向を左から右へと横切っていった。そしてしばらくしてその行軍を止めた。そこには湖があり、鋼鉄の獣たちはその湖水で喉を潤すために遠路遙々移動してきたらしかった。
鋼鉄の獣。
厳密には鋼鉄といっていいのか、どうか。
材質についてはミリュウの印象でしかなかったし、本当は鋼鉄とはまったく異なるものかもしれない。しかし、その見た目から受ける質感というのは、鋼鉄、あるいはなにがしかの金属としか思えなかった。少なくとも毛皮でもなければ、竜属のような強固な鱗でもない。
そして、獣といっていいのかも不明だ。確かに外見からして四足獣に似ていなくもない。というより、そうとしかいいようがない。ずんぐりとした頭部があり、短い首、肥えた胴体があって、四本の短い足と尻尾がある。いずれも金属製のように見受けられるのだが、しかし、魔晶人形のように滑らかに歩き回っていた。いや、魔晶人形以上かもしれない。鋼鉄の獣たちの顔には表情があった。といっても、人間やそれ以外の動物のように顔面に皺が刻まれるような、そんな些細な変化はない。口を開けて笑ったり、瞼をぱちくりとさせたりという程度のものであり、それですら魔晶人形には真似の出来ない領域だろう。
もっとも、ウルクは無表情に近くとも、しっかりとした感情を持ち、彼女の心情はミリュウにさえ伝わってくるものではあるのだが。
鋼鉄の獣は、四十体ほどがひとつの群れを形勢しているようだった。大きさはまちまちであり、一番大きな――おそらくは群れの支配者だろう――ので、ミリュウを一呑みできそうな顎の大きさをしているが、小さなものになると、ミリュウでも担げそうなほどに見えた。もちろん、見た目の話だ。実際には、想像もつかないほど重いのかもしれない。
それら小さい獣を護るように大きな獣たちが付き添っているところを見れば、関係性を想像することは容易い。子供と大人だ。とすれば、鋼鉄の獣たちには生殖機能が存在するということなのだろうか。するのだろう、と結論づける。
当然のように食欲もあり、睡眠欲もあるのだろう。湖岸では、足を丸めて眠り込む獣の姿もあった。
(これがこの世界の常識……なのよね)
イルス・ヴァレとは異なる風景は、しかし、この世界にとっての当たり前であり、当然なのだ。生物らしくない姿形をした生物たち。それがこの世界の住民であり、この世界の姿なのだ。
湖に目を移せば、湖水を浴びるように飲む獣たちの動きに合わせ、波紋がゆらゆらと刻まれていた。その水の動きの重さは、ただの水ではないことを連想させたが、確かめる術はない。ミリュウは、鋼鉄の獣たちを刺激しないように、できる限り距離を取って観察していたのだ。万が一にでも襲われるようなことになれば、戦わざるを得なくなる。
試練を前に無駄な消耗は避けたかった。
その一方でこの世界のことを多少なりとも知りたいという知的好奇心を抑えきれず、彼女は、観察を行うこととしたのだ。
そして得られた情報といえば、この世界がやはりイルス・ヴァレとは根本的に異なるものであり、住民たちもイルス・ヴァレとは大いに異なるという当たり前のものだけだった。
(まあ、なにもないよりはましでしょ)
適当に結論づけ、ミリュウは立ち上がった。それから周囲を見回す。目的地は、ラヴァーソウルの所在地。だが、いまのところ、ラヴァーソウルがどこにいるのかはわかっていない。当てずっぽうで歩き回り、探し出す以外にはないのだ。
手がかりはある。
ゲートオブヴァーミリオンからそれほど遠くない場所にいるはずだ、ということだ。が、そのそれほど遠くない場所、というのがどこなのかはまったくわかっていないのだ。故に、発見するまで、ゲートオブヴァーミリオンの周辺を虱潰しに探して回る以外にはなかった。そして、ゲートオブヴァーミリオンの周囲には起伏に富んだ大地が広がっており、探索可能な箇所は無限に在りそうだった。
ふと、彼女は湖に目を遣った。
重々しく広がる波紋が、その湖水の異様さを主張するようだ。
(あの湖の底にいる……なんてことはないわよね……?)
思い浮かんだ最悪の可能性については、深く考えないことにした。
頭を振り、鋼鉄の獣たちに背を向けて歩き出す。元々、勘を頼りに歩き出したのだ。ならば諦めがつくまで勘に従って歩くべきだろう。その結果、目的地に辿り着くのが少々遅れたところでどうなるものでもない。元より、この試練には時間がかかることは織り込み済みだ。
一刻も早くイルス・ヴァレに帰り着き、セツナに甘えられるだけ甘えたいという想いもある。だが、そのために焦り、冷静さを失い、負傷するようなことがあってはならないのだ。常に慎重かつ冷静に、細心の注意を払いながら行動するべきだった。
故に彼女は、歩き出した一歩のまま動きを止め、後ろを振り返った。
ふと、視線に気づいたのだ。
視線は、鋼鉄の獣の群れの中から発せられていた。しかし、獣たちの視線ではなかった。獣たちは、重量感のある湖水で腹を一杯にすると、それだけで満足したのか、湖の周囲に散らばって眠りだしていた。昼寝なのかどうか。
それはともかく。
(ひと……?)
ミリュウは、鋼鉄の獣の群れの中にあって、たった一体、極めて人間に似た姿形の存在を見出し、仰天した。というのも、その人間によく似たものは、彼女が獣たちを観察している最中にはいなかったからだ。ミリュウは、鋼鉄の獣だけを注視していたわけではない。その周辺にも注意を払っていたし、なんなら湖の対岸に至るまで警戒を張り巡らせていた。
鋼鉄の獣とはまったく異なるその人物を見逃すはずもない。
つまり、頭がひとつ、胴体からは二本の腕をぶら下げ、細身の腰から長い二本の足を生やしたそれは、ミリュウが湖岸から視線を逸らした隙にそこに現れたということになる。
ミリュウが警戒を新たにするのは、当然だった。
それもまた、獣たちと同じく、鋼鉄の皮膚を持っているようだった。