第二千九百十一話 極彩世界のルウファ(二)
剣の柄に手を触れると、それだけで感覚が研ぎ澄まされるような錯覚を持つ。
というのも、グロリアとの修行の日々によって植え付けられているからだろう。グロリアの修行ほど恐ろしく、ためになったものはない。グロリアという最高にして最強の師に出逢わなければ、ルウファの人生は大きく違ったものになっていのは疑いようがない事実だ。彼女に出逢い、彼女に鍛え上げられたからこそ、このような寄る辺なき異世界でも、なんの不安もなく歩き回れるのだ。
これがもし、どこの馬の骨ともわからないような武装召喚師に師事していれば、まったく異なる人生を歩んでいただろう。
そういう事も含め、彼は、あらゆる意味でグロリアに感謝していたし、自分を戦闘兵器の如く育て上げてくれたことにはもっと感謝していた。
だからこそ、突如起こった異変に対し、即座に対応できたのだ。
それは、彼が湖岸を回り込むように歩いていたときのことだった。
植物の楽園の真っ只中に突如として出現した鳥たちの楽園とでもいうべき大きな湖には、様々な鳥たちが平穏を謳歌するように羽を休めていた。その鳥たちがいつ頃からかルウファを警戒するように視線を集中させていたことに気づいたのは、彼にしてみれば、当然のことではあった。ここは異世界。いついかなる時も警戒を怠ってはいけない、とは、アズマリアの忠告だった。
ルウファ自身、鳥たちに警戒しつつも、多少なりとも楽観視していたのは確かだ。なにせ、羽色もあざやかな鳥たちだ。湖で寛いでいるところでもあった。まさか一斉に飛び上がり、襲いかかってくるなど想像しようもない。
最初、湖を泳いでいた数羽が空に舞い上がったのを音で知った。水面に水が飛び跳ねる音、そして、小鳥たちの羽が発する音。なぜはっきりと聞こえたのかといえば、この楽園染みた森が静寂に包まれているからだ。数多いる鳥のさえずりも聞こえなければ、虫の鳴き声もなかった。それは、いまにして思えば、異世界からの乱入者に対する警戒の現れだったのかもしれない。
空に舞い上がった鳥たちは、そのまま湖を離れるものとルウファは思った。しかし、小鳥たちは上空で大きく旋回し、なにを思ったのか、ルウファに向かって滑空してきたものだから、彼は慌てた。碧い羽も美しい小鳥たちには、明らかな敵意があった。敵意はそのまま純然たる殺意へと昇華され、小鳥たちの滑空する速度が上昇する。
(俺を敵と定めたんだな)
どういう理由かはわからない。ルウファは、彼らに一切の手出しをしていなければ、湖に向かってなにかをしたわけでもない。湖岸で休憩したあと、湖岸を迂回し、前に進もうとした、ただそれだけのことだ。それら一連の行動のなにが気に食わなかったのか。
ルウファは、まだ、剣を抜かない。その場から飛び退いて側にあった木の影に隠れると、地上付近まで殺到した小鳥たちが再び空に上がるのを見届けた。
(いや、違うな)
違う、というのは、ルウファの行動が気に入らなかったわけではない、ということだ。そういうことではないのだ。小鳥たちが気に食わないのは、ルウファの行動ではない。ルウファの存在そのものが認められないのだ。
さながら、イルス・ヴァレのひとびとが皇魔の存在そのものを拒絶したかのように。
この楽園に紛れ込んだ異分子であり、しかもそれが異世界の存在となれば、この世界の住民にして、楽園の居住者たちにしてみれば、排除対象と結論づけるのも当然なのではないか。
ルウファ排除に動き出したのは、どうやら小鳥たちだけではなかった。
それまで静観の構えを見せていた足長の鳥も、岸辺の木々に停まって眺めていた鳥たちも、一斉に羽撃き、空を舞った。その視線は、いずれもがルウファの隠れる木に集中している。つまり、ルウファを排除するために攻撃しようとしているということだ。
(面倒なことになったな)
ルウファは、湖上に注意を向けながら、周囲の警戒も怠らなかった。敵は、鳥たちだけではないかもしれない。この楽園を住処とするすべての生き物がルウファの敵なのかもしれないのだ。それは虫であったり、植物であったり、それ以外の動物、生物すべてかもしれない。ただでさえ油断できない状態だというのに、さらに警戒しなければならない状況に陥ってしまった。
鳥がなにかを叫ぶようにして、鳴いた。
その鳴き声に呼応するかのようにして、楽園が揺れた。多くの木々が震え、枝葉が擦れ合ってざわめきたつと、木々の枝枝に停まっていたのだろう鳥たちが一斉に飛び立った。無数の鳥たちが同時に羽撃くと、それだけで凄まじい音となって巻き起こり、楽園が地獄に様変わりするかのようだった。木々が揺れ、花が舞い散っていく。吹き飛ばされた花弁が吹雪のように湖上の空を彩り、その中に結集する鳥の数に彼は呆然とした。
(なにそれ)
ルウファは、思わず、そんな一言を述べた。
無論、胸中で、だが、しかし、そういいたくもなるような状況だった。湖上の空を覆い隠すほどの数の鳥類が集まっていた。おそらくは、楽園中の鳥類が、先程の一鳴きによって招集されたのではないか、と、思えた。続々と集まる鳥たちによって、湖上の空はもはや真っ黒になっていた。犇めく鳥たちの影が湖面すらも暗く染め上げている。
楽園は地獄へと変貌し、その牙がいままさに剥いたといわんばかりだ。
(これが試練……ってわけじゃあないよな?)
自信はなかったが、なんとなく、そんな感じがあった。
小さな鳥から大きな鳥まで、多種多様な鳥たちが空を埋め尽くしているが、それら鳥たちは、ルウファへの敵愾心と殺意を漲らせているのであって、試練を与えるべく立ちはだかった、というような雰囲気はなかった。
試練ならばそれとわかるように立ちはだかるものだ、とは、セツナの経験談であり、彼が何度なく地獄の試練を突破したという経験がある以上、その経験談には説得力があった。
であれば、これは試練ではない。
楽園からの警告だ。
最後通牒といっていいのかもしれない。
(俺にここから出て行け、と?)
ルウファは、鳥たちの猛烈な殺意に辟易しながら、憮然とした。ルウファ自身、別に迷い込みたくて迷い込んだわけではないし、目的さえ遂げることができれば、すぐにでも楽園を去るつもりなのだ。だが、そんなことをいったところで、鳥たちには通用しないだろう。そもそも、こちらの言葉が通じる相手とも思えない。
問答無用で襲いかかってきたのがその証だ。
鳥たちは、ルウファを敵と定め、攻撃してきたのだ。
そうである以上、もはや交渉の余地はなく、戦うか、逃げるかの二択しかない。
(となれば、だ)
ルウファは、湖上の敵集団に背を向けると、森の中を駆けだした。鬱蒼と生い茂る木々は、目的地を探して歩き回る場合には鬱陶しいことこの上なかったが、この場合は、飛来する鳥たちからルウファの身を守る盾となり、壁となってくれるだろう。実際、ルウファが木陰を離れたことで、鳥たちが一斉に動き出したものの、木陰から木陰に飛び移るように移動するルウファに対し、突撃もままならないという状況が続いた。
上空から全速力で滑空し、攻撃しようにも、ルウファの頭上には無数の枝葉が重なり合い、天蓋の如く空を覆い隠している。これでは、小鳥でさえも、枝葉の間隙を縫うべく慎重にならざるを得ず、体の大きな鳥は、それすらも叶わない。かといって、地上近くを飛んでルウファを追ったところで、木々や草花が邪魔だった。
ルウファは、木に目印をつけることだけを忘れないようにしながら、とにかく湖を離れた。
遙か後方から聞こえてくる猛禽たちのけたたましい鳴き声は、ぞっとするほどに鋭く、威圧的だった。
ここが植物の楽園でよかった、と、彼は心底想った。