第二千九百話 魔人誘う試練の門(七)
晴れ渡る空の下、風に揺れる真っ赤な髪は地獄の業火の如くでありながら、まったくの無表情で佇むその様は、つまるところ地獄の使者に相応しい。生命の脈動を感じさせないその姿形も相俟って、より一層、地獄という言葉が似合う存在になってしまったのは、皮肉といっていいものかどうか。元より生者の世界の法理を超越した存在である彼女には、そんな感想すらどうでもいいことに違いない。
修練御座の中心に立ち尽くすようにして待ち受けていたのは、当然、アズマリア=アルテマックスただひとりだ。量産型魔晶人形アルを依り代とし、その外見に大きな変化を加えていないために魔晶人形そのものとほとんど違いのない姿は、ただただ美しい。しかしながら、アズマリアが宿っているというだけでイルやエルとは大きく異なる印象を受けるのは不思議だった。
「準備は整ったようだな」
アズマリアが口を開く。一日あまり待たせたことに対する恨み言ひとつないところを見ると、彼女自身、唐突な提案だという認識があったのだろう。拒絶されることさえ考えていたのかもしれない。
「ああ、三人ともな」
肯定するとともに振り返る。
アズマリアが提案した異世界での試練に赴くのは、ファリア、ミリュウ、ルウファの三人だ。いずれも旅装の上、大荷物を抱えているが、それらは異世界での試練が長引く可能性を考慮したためのものだ。主に日々の着替えであり、衣服だけで膨大な数にならざるを得なくなったのは、転移先の異世界で衣服を選択することができるのかどうかもわからないからだった。
そもそも着替える暇があるのかどうかもわからない。
試練が始まれば、休息の時間さえ与えられないかもしれないのだ。
それでも、準備は万端整えておくべきだったし、そのためだけに一日の猶予を必要とした。
「覚悟はいいな? 一度門を潜れば最後、試練を終えるまで還ってくることはできないのだぞ」
アズマリアが忠告を発するのは、試練が失敗に終わるわけにはいかないからなのだろうが。
「そんな気はしていたわよ」
「そうね……」
「まあ、そうでしょうとも」
「疑問なんだが、なんでだ? 門は常に繋がっているんじゃないのか?」
アズマリアは、ファリアたちの転送先となる異世界を見失わないようにするため、常に門を維持し続けるといっていた。それはつまり、ファリアたちが異世界とイルス・ヴァレを行き来できるということにほかならないのではないか。
「試練の主がそれを許すまいよ」
アズマリアが端的に告げてきた。そして、こうもいう。
「こちら側が一方的に持ちかけるのだ。一度逃げ出せば最後、二度目はないと考えて然るべきだ。無論、中には何度だって受けてくれるものがいたとしても不思議ではないがな」
「それってつまり、召喚武装の気分次第ってことよね?」
「試練の内容もそうだが、すべてがそうだ。なにもかも、相手の気分次第。それが召喚武装とわかり合うということなのだよ。一筋縄ではいくまい」
一通り忠告を終えると、アズマリアがこちらに背を向けた。髪が揺らめき、火の粉を撒き散らす炎のように見えた。
「では、始めよう」
いうなり、古代語の呪文の詠唱が始まる。
朗々と響く魔人の歌声は、いかにも始祖召喚師と呼ぶに相応しいものだった。威厳に満ちた声は深く、広く、修練御座の天地を包み込み、その場にいるもの全員の身も心も鷲掴みにするかのような迫力がある。声が力を帯び、力が術式を紡ぎ出す。この世界とはまったく異なる次元時空に繋がり、門を開くために。
「武装召喚」
魔人が結語の四字を唱えると、術式が完成した。爆発的な光が生じ、その光の中から巨大な影が姿を見せる。巨人の如く巨大な影は三つ。アズマリアの前方にひとつ、右と左にもひとつずつ、つまり、アズマリアの三方を囲うようにして、それらは出現した。光が消え失せると、影の正体も明らかとなる。それは、それぞれ形の異なる三つの門であり、門構えからして異なるそれらがすべてゲートオブヴァーミリオンだということに間違いはあるまい。
アズマリアがその召喚武装ゲートオブヴァーミリオンを呼び出した瞬間を幾度か見たことがあるが、そのたびに異なる形状の門だったことは、記憶に残っている。ゲートオブヴァーミリオンには、一定の形がないのか、それとも、別な理由なのか。セツナには想像もつかない。
「この三つの門が、おまえたち三人を試練の地へ誘う。それぞれ門の前に立ちたまえ」
こちらに向き直り、アズマリアがファリアたちに促す。
「どれでもいいの?」
「構わない」
「じゃああたしは……右側のね」
右側の門は、燃え盛る炎を象ったような形状をしており、門扉も真っ赤だった。赤をみずからの象徴色とするミリュウが選んだのも当然かもしれない。
「俺は左で」
ルウファが向かった先に聳える門は、白く荘厳な門だった。さながら天国の門とでもいうべき美しさと神々しささえも感じる。彼がその門を選んだのは、シルフィードフェザーの白さによく似合うからなのか、どうか。
「わたしはあれか」
ファリアは残された前方の門に向かっていく。残り物ではあったが、内容に違いはないだろう。外観としては、青みがかった紫の門であり、門扉には無数の花が咲き乱れているようだった。
三人がそれぞれ門の前に辿り着くと、セツナの周囲で声が上がった。
「師匠、頑張ってください!」
「ええ、任せといて、弟子ちゃん。あたしが一番最初に試練を終えて見せるわ!」
「師匠、その意気です!」
エリナの声援に笑顔で応えるミリュウには、気負いがない。愛弟子からの応援は、彼女の緊張を解きほぐすのにもってこいなのだろう。
つづいて、エミルがルウファに声をかけた。
「旦那様、無茶だけはなさらないでください。いざとなれば……」
「ああ、わかってるよ。君をひとりになんてしないさ」
「旦那様……!」
若い夫婦の美しい愛情は、セツナの目にも眩しいものに見えた。常日頃から愛情の籠もったやり取りをしているふたりのことだ。いまさら感じることではないし、いうこともない。かといって、羨むこともなければ、妬むようなことでもなかったりするのは、セツナ自身、大量の愛情を周囲から注がれていることを理解しているからだ。
「戦女神様……いえ、ファリアちゃん。異世界でなにが待ち受けているかわからない以上、なにをいっても仕方がないのかもしれないけれど、これだけはいわせてちょうだい」
最後に声援を送ったのは、ミリアだ。戦女神代行にしてファリアの母は、愛娘の異世界の旅立ちを見送るべく、修練御座までついてきていた。
「はい、お母様」
「セツナちゃんのことは任せて」
「はい!?」
だれもが予期せぬミリアの一言にファリアが素っ頓狂な声を上げ、離れた場所のセツナからでも、彼女がとんでもない表情になったのがわかった。
「あなたが異世界に行っている間、セツナちゃんの世話は任せて頂戴。なんの心配もいらないわ」
「おおおおおお母様!? なにを仰っているの!?」
「そうよそうよ!? なんでファリアのお母さんが関わってくるわけ!?」
「そうでございます、御主人様のお世話はわたくしどもが致しますので、ご心配無用にございます!」
「まったくです」
「そうじゃな」
「そんな言い方しなくたっていいじゃない。わたしだって、みんなと仲良くなりたいわ」
ミリアの一言をきっかけに緊張感もなにもかもがぶち壊されていく中、セツナは、頭を抱えたくなった。ふと足下を見遣れば、レオナを背に乗せるレイオーンがどこか同情的なまなざしをこちらに向けていた。
「……三人とも、さっさと試練を行いたい召喚武装を呼び出してもらえるか。時間を無駄にしたくはないのでな」
業を煮やしたのか、アズマリアが会話に割り込んでくるなり、ファリアたちを一瞥した。
「ひとつしか、駄目よね」
「ふたつ召喚してもいいが、辿り着いた異世界にどちらの召喚武装が待ち受けているかはわからんぞ。おそらくは結びつきの強いほうに辿り着くだろうがな」
「わかったわ」
ファリアは、魔人の説明に納得したのか、呪文を唱え始めた。ルウファ、ミリュウもそれぞれに呪文の詠唱を始めている。武装召喚術の術式というのは、三段階の呪文からなる。解霊句、武形句、聖約句の三種はいずれも必須であり、解霊句に関しては、通常の武装召喚術において違いはない。違いが生じてくるのは、召喚武装の形状や能力を指定する武形句からであり、最終段階である聖約句にもそれぞれ多少の差違があるという。
そのため、三人による解霊句の詠唱は、美しい唱和のようであり、セツナは、ただ聞き入った。
そして、結語が紡がれたのは、三者三様の頃合いだった。