第二十八話 青と赤
終局が近い。
当初、ログナー側の優勢で始まったはずのこの戦いは、蓋を開ければ、ガンディア軍の優勢に終始していた。
ログナーとしては、開戦早々右翼を失ったのが大きな痛手となっていた。いや、それだけではない。その失い方が、尋常ではなかったのだ。
蒸発した、とでも言うべきかも知れない。
突如として噴き出した紅蓮の猛火が、右翼に展開中の軍勢を薙ぎ払ったのだ。
それは、一瞬の出来事だった。ガンディアに所属する武装召喚師の仕業には違いなかったが、だからなんだというのか。相手がなにものであるのかわかったところで、失われた兵力が戻るわけでも、広がってしまった動揺を抑えられるわけでもなかった。
動揺は、幾重もの波紋のように。
瞬く間にログナー全軍に浸透し、もとより高くはなかった士気をさらに低下させた。そして、それを抑えるべき存在であるはずのジオ=ギルバース将軍の愚かな振る舞いは、戦意の低下を助長するだけだった。
恐慌が起きてしまった。
「あーあ……もう駄目だこれ」
ウェイン・ベルセイン=テウロスは、軽く嘆息を浮かべた。鍛えられた長身を群青の武具で包みこんだ、ログナーの騎士である。馬上、槍を手にした彼は、冷め切ったまなざしで混沌に飲まれていく戦場を眺めていた。
戦意を失った兵士たちをさらなる恐怖に陥れたのは、ガンディア軍本隊の正面からの突撃と、左翼からの強襲という波状攻撃であり、右翼を壊滅させた部隊の主戦場への乱入だった。
とりわけ、銀獅子の鎧に身を包み、前線を蹂躙するレオンガンド・レイ=ガンディアの姿は、敵軍であるにも関わらず、惚れ惚れとしてしまうほどに勇ましいものであり、恐怖を煽るには十分過ぎた。
「諦めるのか?」
と、すぐ隣から声を潜めて言ってきたのは、ウェインの同僚にして尊敬すべき大先輩であるグラード=クライドだった。真紅の甲冑を纏う巨漢であり、彼の愛馬スカーレットもまた、炎のように真っ赤な甲冑を身に付けていた。グラードがログナーの《赤騎士》と呼ばれる所以であり、彼の性質そのものを表しているとも言えた。
そして、ウェインは、ログナーの《青騎士》と呼ばれており、それもまたグラードと同じく甲冑の色に由来するものだった。気に入っていないわけではない。ウェインは、むしろ好んで自称するほどだった。
「もう無理でしょ。見てくださいよ、あれ」
ウェインは、槍の穂先をレオンガンドの左後方に向けた。陽光を受けて輝く槍の指し示す先には、ガンディアの守護者と謳われて久しい名将アルガザード=バルガザールの姿がある。既に老境に入っているはずの敵将は、周りの精兵よりも若々しく動き回っているように見えた。
「あれは……《白翁》か」
「あの爺さん、すんごく活き活きしてますよ?」
「だからどうした?」
熟練の戦士たるグラードのまなざしは、気の置けない仲であるはずのウェインですら時折恐ろしくなるほどに研ぎ澄まされるのだ。他意があるわけではない。どうやら若い頃からの癖らしく、そのせいで反感を買うことも多かったのだという。
「いや、だからね、将兵ひとりひとりの戦意が違うんですよ。今度はあっちを御覧なさい」
気を取り直すようにして、ウェインは、ゆっくりと槍を旋回させた。切っ先は、混乱の最中にありながらも逃げ出すことも許されず、命の火花を散らす兵士たちの頭上を通り抜け、前線から見れば遥か後方に至る。
そこにはジオ=ギルバース将軍と、彼の手勢として配置された精兵が固まっていた。得物を振り翳し、怒声を張り上げているのが、遠目からでも滑稽だった。
グラードの嘆息が聞こえた。
「……ああ、無能将軍」
彼に対してその蔑称が用いられるようになったのは、いつからだったのだろう。二十代最後の年に一軍の将に抜擢された彼は、ログナーに再び隆盛をもたらす希望の象徴であった。多くのものが彼を誉めそやし、彼こそが、ログナーの未来を切り開くと信じて疑わなかった。
なぜかはわからない。
格段の功もなければ、取り立てて優秀な人材とも言えなかった。そんな人物が、小国ではあるもののログナーという国の一軍を率いる将となってしまったのだ。
栄える可能性をログナーみずから握り潰してしまったというのは、言い過ぎだろうか。
とにもかくにも、ジオ=ギルバースは失脚しなかったのが不思議なほどの失敗を積み重ね、遂には将士にも民草にも愛想を尽かされてしまったのだ。自業自得には違いないし、憐れみを覚える必要はない。
が、この数年に渡る数多の失敗は、ログナーにとって大きな痛手であり、そのほとんどにジオ=ギルバースが関わっているという事実は、ウェインに常ならざる感情を抱かさせるのだ。
それは即ち、殺意という。
「ほらね」
今すぐにでも飛び出したくなる衝動をなんとかして飲み下したウェインは、すぐさまグラードに目を向けた。炎の如き中年騎士の姿を視界に納めるだけで冷静さを取り戻すことができるというのは、なんともおかしな話ではあるのだが。
「おまえの言いたいことはよくわかるが……」
「将軍の言った通りでしょう?」
「……その通りだ.ジオ=ギルバースでは、流れを変えることはできん」
グラードの苦々しい言葉は、この戦場にいるだれもが抱いている確信かもしれない。それは、ウェインも同じであり、もしかせずともガンディアの将兵も同様の感想を持ったに違いなかった。それほどまでにジオ=ギルバースの采配は、悪いものだった。
最悪とまでは言わない。しかし、この最悪の戦況にあって、将軍が己が身の安全のみに重点を置いて全軍を指揮するなど、以ての外ではないのだろうか。無論、将軍の命は重いものだ。
その役目を考えれば、当然といえる。しかし、いま現在、前線で命を曝している兵士たちからすれば、どうだろう?
将軍が保身に走ったとあれば、士気を上げようにも上がるはずがない。戦意は下がるのみであり、全力を出すこともままならないのではないのか。
これが、例えば飛翔将軍アスタル=ラナディースならば、異なる結果になっていたに違いない。前線を飛び回る指揮官の姿に将士一同勇奮し、戦況は持ち直したのではないか。
とはいえ、それらはやはりただの妄想に過ぎないことをウェインは知っていたし、いまさらそんなありもしない空想に思いを馳せたところで現状が変わるはずがないことも理解していた。
「あ~あ。将軍に逢いたいなあ」
「この戦いが終われば、直に逢えるさ」
「生き残ることができたら、ですけど」
「こんなところで死ねはしまい?」
「そりゃあね」
ウェインは、もはや崩壊してしまった前線を見遣りながら、目を細めた。こんな馬鹿げた戦いで死ねないのは、自分たちだけではない。だれひとり、死にたくなどないのだ。
それが国のため、仲間のため、家族のためならばまだしも、ジオ=ギルバースなどという人間のためになど、真っ平御免だろう。
だからこそ、彼らは、急行せねばならない。これ以上、無駄に血を流させるわけにはいかない。これ以上、戦いを長引かせるわけにはいかない。
「では、行きますか」
「ああ」
グラードの心強い返事に、ウェインは、覚悟を決めたのだった。
「勝ったな」
ハルベルク・レウス=ルシオンのつまらそうなつぶやきを、リノンクレア・レーヴェ=ルシオンは、馬上にありながらも聞き逃しはしなかった。といって、別段気にすることもない。いつものことである。
ハルベルクは、圧倒的な勝ち戦というものを好まないのだ。むしろ、追い詰められているほうが好みに合うらしい。
無論、将来国を率いる立場にあるものが好き嫌いで戦いを構築できるはずもなく、彼の戦は大体において圧倒的優勢のまま勝利を飾ることが多かった。
その華々しい勝利を飾る彼の隣には、いつだってリノンクレアの姿があり、ハルベルクの思い描いた通りに戦うことは、彼女にとって最大の喜びでもあった。
リノンクレアを先頭とする白聖騎士隊の騎馬の群れは、ログナー軍の左翼を蹂躙している最中だった。セツナの大火によって生じた恐怖と混乱は、彼女らの突撃にとって大きな助けとなっていた。
横腹を突くまでもない。
崩れかけた戦陣は、もはや元に戻りようがなかったのだ。
騎兵の圧倒的な機動力によって戦陣を駆け抜けるだけで、数多の敵兵が薙ぎ倒されていった。残った兵もまた、遅れて左翼に辿り着いたルシオン本隊によってひとり残らず討ち果たされた。
これにより、ログナー軍の左翼は壊滅したといってもいいだろう。残るは本隊であり、ログナーの兵力のほとんどは、そこに集中していた。
リノンクレアたちは本隊に合流後、速やかに中央の主戦場へと突入するつもりだった。
「さて。義兄上の傍で、義兄上の初勝利に酔いしれるとしようか」
リノンクレアは、ハルベルクの本心とも建前とも取れない言い様に、ただひとり笑いを噛み殺していた。要するに本音を言うのが恥ずかしいのだろう。
リノンクレアは、ハルベルクのそういうところも好きであった。
「どりゃああああ!」
シグルド=フォリアーの豪快な一撃は、彼の眼前にいた三人の敵兵を一度に吹き飛ばしていた。長大なウォー・ハンマーによる強烈な打撃の前では、頑丈な鎧も意味を為さない。
敵陣の右翼から中央へと至る進路、である。
レオンガンド率いるガンディア本隊は既に前線を突破し、中央において敵主力と交戦に入っていた。左翼では、ルシオンの騎兵が大活躍しているらしい。そして、右翼から進出したシグルドたち傭兵部隊は、いままさに主戦場へとなだれ込もうとしていた。
「なんといいますか、呆気ないですね」
「ま、そういうな。仕方ねえさ」
シグルドが、ジン=クレールを振り返ると、彼のショート・ソードが軽装歩兵の首を切り落としたところだった。返り血ひとつ浴びないのは、彼の巧みな剣技と身のこなしによるものだろう。
かくいうシグルドも返り血など浴びてはいないが、これはそもそも打撃武器を振り回しているからに他ならない。もちろん、ハンマーをぶつける部位によっては、血も浴びるのだろうが。
「セツナのおかげでずいぶんと楽をさせてもらってんだぜ。ありがたがっておけよ」
「武装召喚師の炎に怯え続けなければならない戦場なんて、わたしは嫌ですね」
「俺もだ」
シグルドは笑いもせずに告げるなり、背後からの殺気に即座に対応した。前へ跳び、振り返り様、敵を視認すると同時にその側頭部に戦鎚を叩きつける。兜に覆われたはずの敵兵の頭は、しかし、ウォー・ハンマーの強打に耐えることはできなかった。無残なまでに潰れ、絶命する。
「で、その武装召喚師殿はどこだ?」
シグルドは、なんとはなしにセツナの姿を探して、戦場に視線をさ迷わせた。無数の敵兵は、炎の恐怖に囚われながらも、それでもなんとか戦場に踏み止まろうとしているようであり、必死に戦い抜こうとしているようでもあった。もっとも、シグルドは、彼らを哀れなどと想わなかった。
それならば、最初から剣など手に取らなければいいのだ。兵士になどならなければよかったのだ。栄達を望まなければよかった。
(ま、すべての人間が望み通り生きているはずもねえけどよ)
それは、これからの彼を見ていればよくわかることだ。
セツナ=カミヤ。
彼は、この戦いにおけるガンディア軍の勝利の立役者となったことで、ガンディア中は愚か、周辺諸国にもその名が知られることになるだろう。ログナーにおいては悪名となって知れ渡り、憎悪の的となるだろう。
彼が望もうと望むまいと、過酷な運命が待ち受けているに違いない。
そう、彼は力を振るったのだ。
みずからの意志で。
「団長、俺はここですよ~」
こちらに向けて手を振っている突撃隊長の姿に、シグルドは、深く深くため息を浮かべたのだった。
「おまえなんか探してねえ」