第二千八百九十八話 魔人誘う試練の門(五)
頬に生じた痛みとともに目を開くと、こちらを覗き込む大きな瞳があった。碧玉のように綺麗な瞳には、彼自身の茫然とした顔が映り込んでいる。深い睫に縁取られた両目、鼻筋は通り、唇は朱を差したように赤い。顔立ちから感じる気品は、生まれの良さによるものであるとともに育ちの良さも関係しているに違いない。教育が行き届いているのだ。が、彼の頬を引っ張る手には、その教育の良さとは無縁の無遠慮な力が込められている。
それも、育ちの良さ故、というところだろう。
他人の頬を引っ張ることなどこれまでほとんどなかったはずだ。故に力加減がわからない。相手がどの程度の痛みを感じるのかという想像力は、経験からしか生まれないのだ。そういう経験をしたことがなければ、想像する余地もない。レオナは、まさに箱入り娘として、蝶よ花よと育てられたに違いない。しかもレイオーンという庇護者がいたものだから、彼女の過保護ぶりたるや生半可なものではなかったのではないか。
そんなことを一瞬のうちに考えて、セツナは、レオナの両手に自分の両手を重ね合わせた。レオナは、セツナの膝の上に座っており、抱き抱える必要がなくなっていたからだ。
「痛いですよ、レオナ様」
セツナが告げると、レオナは、彼の頬を引っ張っていた手を離した。まん丸の目が少しばかり鋭くなる。
「セツナがいつまで経っても眠っておるからだ。レオナは何度も呼びかけたぞ」
「それは……ご無礼を」
「……よいよい。今宵のレオナは機嫌がよいからな。そなたの無礼、差し許そう」
レオナが鷹揚に、かつ悠然と微笑む。その仕草は、まさに王者のそれであり、彼女が精神的に余裕を取り戻した証でもあった。故にセツナは心底安堵した。
「恐悦至極に存じます」
主君に対する家臣の態度を取りながら、彼は、ふと前方を見遣った。いかにも高級そうな柱時計があり、その時計が示すには、十時を過ぎたところだった。窓の外は暗い。つまり、午後十時過ぎということになる。
(いつの間に……)
寝てしまっていたのだろうか。
レオナの寝顔を見守るうち、その寝息に誘われるようにして眠ってしまったのだろうが、だとしても寝過ぎではないだろうか。
セツナが御陵屋敷に戻ってきたのは、午後三時過ぎのことだ。ゲインに用意させて遅い昼食を取り、それから自室に入った。ミリュウもファリアも、レムもシーラもウルクもいない御陵屋敷は、屋敷付きの使用人とセツナたち以外だれもいない静けさに満ちていて、穏やかな春の日差しと、空気に包まれていた。それも、眠気を誘う一因だったのだろう。
夜中だ。
ファリアやミリュウたちがセツナを呼びに来なかったということは、出立の準備が整わず、異世界への旅立ちが明日以降に先延ばしにされたからだろう。アズマリア自身、すぐさま送り込むつもりはなく、むしろ入念な準備を整え、完璧な状態で赴くほうがいいといっていたため、一日二日先延ばしになったとしても文句は言うまい。なにせ、突然のことなのだ。すぐさま準備できるわけもない。
それはそれとして、セツナは、足下を見遣った。セツナの足下では、白銀の体毛に覆われた獅子が丸くなっているのだが、その顔は、こちらを見上げていた。セツナではなく、レオナの様子を見つめているのだ。そのまなざしは、我が子を見守る親のように優しく、慈しみに満ちている。
「先程は恥ずかしい姿を見せてしまった」
「いえ……レオナ様。なにも恥ずべきことはございませぬ」
「いや。恥ずべきことだ」
レオナは、セツナとまっすぐに見つめ合うと、毅然としていった。その凜とした態度は、とても四歳になったばかりの幼女には見えないし、つい数時間前まで泣き疲れて眠っていた人物にも見えなかった。王者の片鱗が、確かにあった。
「王者たるもの、いついかなるときも平静を保たねばならぬ。王が動揺すれば、その動揺は臣民にも広がり、国そのものが立ち行かなくなる。たとえ父を敵とし、母を失ったとしても、冷静さを欠いてはならぬのだ。それがレオナが叔母上より学んだこと故な」
レオナの覚悟と決意は、とても齢四歳の子供が持つようなものではないが、王族に生まれ、そのような教育を施されれば当然の如く持ちうるものなのだろうが、セツナが引っかかったのは、そこではなかった。彼女がすらりといった一言が、強烈な衝撃となって襲いかかってきている。
「え……? いま、なんと……?」
「ん?」
レオナは、セツナが震える理由を理解できていない。
「母を失った……?」
「そういえば、申しておらなんだな。そうなのだ。母ナージュ・レイア=ガンディアは死んだ。おそらくな」
レオナは、はっきりといった。淀みなく、凜然と。そこには、数日間ミリアに泣きついていた幼女の面影はなく、獅子王レオンガンドの面影が覗くようだった。
「理由はわからぬ。しかし、わたしにはわかるのだ。わかってしまったのだ。母上がこの世からいなくなってしまったことがな」
「そんな……」
セツナは、レオナの語る衝撃の事実に打ちのめされる思いだった。
「ナージュ様は、ネア・ガンディアにいたはずです。獅子神皇の元に。この世で最も安全な場所に」
獅子神皇レオンガンド・レイグナス=ガンディアは、セツナたちこそ敵と見定め、討ち滅ぼすべき対象と捉えているが、当人は、レオンガンドそのものの如く振る舞い、ナージュもそれ故に彼を受け入れたに違いなかった。実際にレオンガンドそのひとではあるのだ。ただ、聖皇の力の器となり、神々の王としての力を持っているがために、滅ぼさなければならない、ただそれだけのことだ。
そして、レオンガンドならば、ナージュを大切に扱うに違いなく、レオンガンドの側にいる限り、ナージュに危害が及ぶことなど断じてあり得ないはずだった。
だのに、レオナは、ナージュが死んだ、という。理由は不明ながら、レオナには、感じるものがあったのだ、と。
「……なるほどな。リノンクレアが死んだだけでなく、ナージュも死んだとなれば、レオナが哀しみに暮れるのも無理のない話だ」
レイオーンがレオナの発言を肯定するようにつぶやいた。レイオーンは、レオナがリノンクレアの死を感じ取り、故に嘆き悲んでいるのだといっていたが、それも、普通には考えられないことだった。レオナがどうして、遙か遠く離れた地で起こった出来事を察知できるのか。レイオーンにいわせれば、血縁だからこその直感であり、不思議な力が働いたとしかいいようのないことのようだが。
つまり、レオナがリノンクレアの死を感じ取ることが出来るのであれば、ナージュの死を感じ取ることができたとしても、なんら不思議ではないということだ。レオナとナージュの血の繋がりの濃さは、リノンクレア以上だ。
「恥ずべきことだが……」
「レオナよ。おまえは人間だ。人間は完璧たり得ぬ。完璧たろうとする必要もない。おまえはおまえのままでよいのだ」
「レイオーン……」
「そうですよ、レオナ様」
セツナは、レオナがこちらに向き直るのを待った。
「王たるものは、確かに人前で涙を見せるべきではないのかもしれません。王の動揺が臣民に広がれば、国そのものに暗雲が立ちこめることだってあるでしょう。ですが、だからといって、レオナ様が自分の心を殺し続けることをナージュ様やリノンクレア様が望んでいるなどとは、とても想えません」
むしろ、ナージュもリノンクレアもグレイシアも、レオナが想うままに生きることこそ望んでいるように想えてならなかった。というのも、龍府におけるレオナの在り様というのは、王者としての教育を受けながらも、自由奔放というに相応しいものであり、レイオーンとともに駆け回るレオナの姿にこそ、グレイシアらは喜びを見出し、希望を抱いていたのではないか。
「笑いたいときに笑い、怒りたいときに怒り、泣きたいときに泣く――それができないのが王というものかもしれませんが、せめて、わたくしどもの前では、素のままの御自分を曝け出してください。それが一家臣としての俺の望みです」
セツナは、レオナの碧眼をまっすぐに見つめ、想いを伝えた。レオナが王者としての在り様に拘るのは、そういう教育を受けてきたからだったし、将来のことを考えれば、それも間違いではなかった。常日頃から王としての振る舞いをしていなければ、いざ、王位に即いたときに困ってしまうだろう。だが、そればかりでは息が詰まるし、きっといつか心が破綻する。ならばせめて、どこかに遊びを作るべきだ、と彼は想い、そのような提案をした。
レオナは、しばし考え込んだあと、黙ったままうなずいた。そして表情をくしゃくしゃに歪めると、セツナの胸に顔を埋めた。
セツナは、嗚咽を漏らす幼女の震える肩をそっと抱きしめ、レオナが泣き疲れて眠るまで支え続けた。