第二千八百八十九話 王家の守護獣(四)
レイオーンは、戦宮の屋根上にいる。
セツナたちとの話し合いを終えた彼は、レオナを任せたまま、戦宮を飛び出したのだ。セツナにどこへ向かうのかと問われたが、特になにもいわなかった。いわずとも、疑いはしないだろう。なにせ、レイオーンは決意を新たにしたのだ。もう迷うことはない。ただ、彼との約束を果たすだけでいい。
なぜ戦宮の屋根上に移動したのかというと、世界を見渡したかったからだ。
リョハンは、空中都市の名のままに、空高く浮かんでいる。そんな話など聞いたことはないが、実際に空を飛び、自由に移動しているのだから、その事実を否定することはなにものにもできない。そして、だからこそ、リョハンは極めて安全であり、セツナたちもレオナをここに預け、旅立つことができたのだ。
リョハンが最高度まで上昇すると、ネア・ガンディアが誇る飛翔船でも到達できなくなり、攻撃さえ届かなくなるからだ。それもいずれ対処されるかもしれないが、明日明後日の話ではあるまい。飛翔船を改良するにせよ、一朝一夕では行かないはずだ。少なくともそれまでは、リョハンの安全は保証されている。
そんなリョハンから彼方を見遣れば、世界を一望できるような気がした。
実際には、遙か彼方の大地が薄らと見えるだけであって、一望できるというわけではない。“竜の庭”の楽園の如き様相も、はっきりとは見えなかった。
ガンディアなど、見えるはずもない。
そもそも、“大破壊”以来、ガンディアの地がどうなったのかも不明なのだ。世界そのものが大きく変動した“大破壊”は、大地の形が変わっただけでなく、位置関係まで大きく変わり果てていた。三つの大陸に分かたれたヴァシュタリアの地などその最たるものだろう。
ガンディアの地もまた、変わり果てていたとしても、不思議ではない。
なぜ、彼の地を想うのか。
それはやはり、ガンディアの地に生まれ落ちたが故、なのだろう。
「ひとの子への興味、好奇心がおぬしを顕現させたという意味では、あの小娘に似ておるのう」
「あの小娘?」
「アマラとかいう精霊じゃ」
「知らぬな。が、精霊とはそういうものだろう。我もまた、精霊の一種に過ぎぬ」
「そういえば、そうじゃったな」
ラグナシアがレイオーンの頭の上でふんぞり返ったまま、うなずいた。その鷹揚な態度は、竜王らしいといえば竜王らしいかもしれない。が、かつての竜王にそのような言動を取るものはいなかったはずだ。竜王もまた、変わり果てている。
すべてが、そうだ。
世界は変わり果て、その上でなお、変化を続けている。その変化が良い方向に向かうのであればいいが、悪い方向に向かうのであれば、抗わなければならない。全霊を賭してでも、足掻かなければならない。
精霊とは、この世界を構成する要素なのだから。
「……精霊が人間に干渉し過ぎるのを嫌った聖皇は、我らを世界の外へ追放した。精霊の存在しない世界など、長続きしないというのにだ」
「神々がおればどうとでもなると踏んでおったのじゃろう」
「あるいは、みずからの力で世界を保つことができると想っておったのか」
「いずれにせよ、自惚れが過ぎたのじゃな」
ラグナシアが嘆息とともにいった。聖皇と竜王の関係というのは、精霊と聖皇以上に根深いものであり、精霊である彼には想像もつかないものだ。
「故に世界を敵に回すことになる」
「世界を敵に……か」
「そうじゃ。すでにわしら三界の竜王は、あれと敵対することを取り決めた」
「三界の竜王が揃い踏みで、か」
「どうじゃ。凄かろう。このようなことは、このイルス・ヴァレの歴史で一度としてなかったことぞ」
「確かに……」
というのも、三界の竜王が揃い踏みしなければならないような事態になれば、竜王たちは、地上のありとあらゆるものを洗い流し、滅ぼし尽くすことで、すべてを原始に還してきたからだ。
しかし、そうして世界が洗い流されようとも変わらないものがある。
それこそが、精霊の存在だ。
精霊とはこの世界の構成要素であり、本来であれば、切っても切り離せないはずの存在なのだ。精霊は文物に宿り、命を紡ぐ。精霊の死滅とは、世界の死滅と同義であり、故に竜王たちも精霊だけは消し去れないのだ。そんなことをすれば、世界をやり直すどころか、世界を滅ぼすことになる。
それを強引に切り離して見せたのが聖皇であり、やはり、聖皇の力というのは言語を絶するものであることは間違いなかった。
その力の後継者が獅子神皇なのだ。
「リノンクレア様……」
ファリアが動揺を隠せずにつぶやいたのは、レイオーンとの話し合いが終わり、場所を移してからのことだった。
戦宮の数ある部屋の中で一番広く大きな一室に、セツナたちは集まっていた。セツナは相変わらずレオナを抱き抱えたままであり、腕の中のレオナは、より一層穏やかな寝顔に変わっている。レイオーンはいない。
そこへ六大天侍のうち、グロリア=オウレリア、アスラ=ビューネルの二名が合流したのはついさきほどのことだ。セツナたちがリョハンに戻ってきたという報せを受けたからだろう。合流の際、グロリアはルウファ、エミルの無事を喜び、アスラはミリュウとの再会を待ち焦がれていたとでもいわんばかりの反応を見せている。
戦女神の守護天使たるふたりは、さすがにミリアが戦宮に籠もりきりだった理由は知っていたようであり、レオナがセツナの腕の中で安らいでいる様を見て、怪訝な顔をしたものだった。なんでまたセツナなのか、ということについては、セツナ自身疑問の残ることである以上、彼女たちの反応に対して、なにもいうことはない。
大切なのは、レオナがいま、確かに安心してくれていることなのだ。
「まさか、獅子神皇の懐に飛び込んでいたとはね……」
「差し違える覚悟だったとはいうが……」
だからといって、そう簡単に飲み下せることではない。レオナに王家の人間としての、王位継承者としての覚悟を求め、決意をさせるような人物だ。彼女自身も覚悟が定まっていたのは疑いようはない。
ガンディア王家の人間のひとりとして、ガンディア国王の成れの果てたる獅子神皇を討ち果たさんとしたのだろうし、それこそが、王家の人間の務めだと考えていたに違いない。
烈日のように眩しく、苛烈なまでの考え方ではあるが。
かつて、レオンガンドが道を踏み外した実の父を手にかけたのと、そう違いはない。
ただ、大きく異なるのは、その結果だ。
レオンガンドは、シウスクラウドを闇に葬ることで前に進み、リノンクレアは獅子神皇に返り討ちに遭い、すべてを失った。
命も、未来も、なにもかもすべて、喪ってしまった。
セツナは、茫然としているファリアの虚ろなまなざしに深い痛みを覚えた。
「無駄なことをしたものだ」
冷ややかな声音にはっと顔を上げれば、いつの間にか魔晶人形が室内に入り込んでいた。紅い髪の魔晶人形に室内にいた全員の視線が集中する。アズマリア=アルテマックスだ。
「先走って命を散らすことになんの意味がある。あれは、生半可な力ではどうすることもできない存在なのだ。それを知らぬわけではあるまいに、何故、みずからの命を捨てるような真似をしたのか。わたしにはまったく理解できないな」
冷徹極まりないアズマリアの発言に対し、真っ先に反応を示したのはファリアであり、彼女が睨みつけたのだが、動いたのはミリュウのほうが早かった。ファリアの隣で立ち上がり、アズマリアを凝視する。
「そりゃああんたには理解できないでしょうけど」
「おまえならできるといいたげだな、ミリュウ=リヴァイア」
「……あんたよりはね」
「ならば、おまえも無意味に命を散らすか?」
アズマリアの挑発はあまりにも露骨過ぎて、セツナは、目を細めた。素早くミリュウを制止する。
「ミリュウ、止めろ」
「セツナ、でも、だって……」
「皆も、騒がないでくれ。レオナ様が寝ているんだ」
アズマリアに対し、なんらかの行動に移ろうとしていたのは、なにもミリュウだけではなかった。ファリアを含め、室内にいた戦闘要員たちはいずれもがなにがしかの行動を取ろうとしていた。武装召喚師たちは呪文を唱え出していたし、レムは“死神”を呼び出していた。
だれもがリノンクレアの死やレオナの精神状態を受けて、過敏になっていたのだろう。故に、アズマリアの露骨なまでの挑発に対し、反応してしまったのだ。
「リノンクレア様も、レオナ様の安眠を妨げることなんて望んじゃいないはずだ。そうだろう、ファリア」
「……そうね。その通りよ、セツナ」
「ファリア……」
まずファリアがその場に座り直すと、立ち上がっていたものたちが順番に戦意を取り下げるようにして座り直していった。ただひとり、ミリュウを残して。
「あたしは、納得できないわ」
ミリュウは、アズマリアを睨んだまま、いった。彼女の気持ちは痛いほどわかるし、実際、セツナとしてもアズマリアの発言を許す気にはなれなかった。が、それはそれとして、レオナの眠りを妨げたくないという気持ちもあるのだ。どちらも大事なことだが、この場においてどちらのほうが優先度が高いかというと、レオナのほうにならざるを得ない。リノンクレアもきっと、そう願っているはずだ。
「別に納得しなくてもいい。いまは、止めてくれ。それが俺の願いだ」
「……わかったわよ。そういわれちゃ、なにもできないじゃない」
「ありがとう、ミリュウ。助かるよ」
「セツナって本当ずるいんだから」
ミリュウの一言に対する反論など、なにもなかった。確かに狡い人間かもしれない。
しばらくして、アズマリアが口を開いた。
「なんだ。拍子抜けだな。」
「……どういうつもりだ、アズマリア」
「どうもこうもない」
魔晶人形は、軽く肩を竦めて見せた。
「おまえたちにとっておきをくれてやりにきたのさ」




