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第二百八十八話 疾駆

 グレイ=バルゼルグは、風を切るとはこういうことなのだと実感しながら、手綱を握る手に力を込めた。手綱は鉄製であり、普通の騎馬に用いるものではない。それもそのはず。彼が乗っているのは普通の馬ではないのだ。鋼鉄の軍馬などとも呼称される皇魔ブフマッツの背に跨り、ザルワーンの街道を突き進んでいた。

 皇魔。

 五百年前、大陸を統一した聖皇ミエンディアが、神々とともに召喚してしまった人外異形の存在であり、いまや人類の天敵として知られる化け物たち。以来五百年、このワーグラーン大陸各地に棲息し、人里を襲いながら独自の生態系を築いていった。大陸に根ざした病であり、取り除くことは不可能だろうといわれている。無力なひとびとにとっては恐怖以外の何物でもなく、それは軍隊にとっても同じことだ。敵国との戦闘中に乱入されてはたまったものではないし、人間を相手にするよりもよほど注意が必要だった。皇魔はどれほど小さな個体であったとしても、何らかの能力を有しており、油断してはならないのだ。

 その中でもブフマッツは、鬣と尾に青白い炎を灯し、鋼鉄の体毛に覆われた馬のような化け物だ。凶暴な性質で知られており、人間と見れば炎をまき散らしながら殺到してくるというのが定説だった。その体当たりは凄まじく、大木をいとも容易く薙ぎ倒すという。ブフマッツの大群を相手にすれば、グレイ麾下の軍勢といえども無事では済まないかもしれない。

 そんな化け物を軍馬として、グレイ麾下三千人は進軍していた。

 旧メリスオール領ガロン砦を出発し、一日が経過しようとしている。目的地は、無論、龍府である。ザルワーンの首都龍府を守る五方防護陣など、眼中にはなかった。たかだか千や二千の兵力で、グレイの軍勢が止められるはずもないのだ。ファブルネイア砦を粉砕し、そのままの勢いで龍府に乗り込むのだ。

 グレイがガロン砦を出発する日を二十日と定めたのには、特に大きな理由があるわけではない。十八日、マルウェールがガンディア軍によって制圧されたという報告が入ったのが十九日のことだ。そのころには進軍準備は万端整っており、グレイの号令次第で、いつでも出発できるという状態だった。その上で一日の間を置いたのは、ガンディア軍の動向を窺ったからだ。

 マルウェールの制圧後のガンディア軍は、予想通り、兵を休ませることに重きを置いたようだった。グレイは自軍の状態を鑑み、二十日正午に出発することにした。ガロン砦からファブルネイア砦まで、通常ならば三日はかかる距離があった。しかし、皇魔ブフマッツの脚力ならば、その半分で済むだろうと予測された。その予測は、度重なる調練の成果でもある。グレイたちは、この人外異形の化け物を乗りこなすために多大な日数を費やしたのだ。結果、ブフマッツの強靭な体に秘められた馬力を思い知ることになった。魔王がたった一夜でクルセルクを落としたというのも納得できるものだ。

「最初は恐ろしいものだと思ったものですが」

 グレイと並走する部隊長が、ブフマッツの鬣に触れる。青白く燃える鬣は、実際に燃えているように見えるのだが、熱を発しておらず、触れることもできた。

「いまは頼もしいか?」

「ええ、まあ……」

 彼が不承不承といったように頷いたのもわからなくはない。皇魔の力など借りたくはなかったというのが本音だろう。いくら皇魔が強力であっても、そのおかげで龍府までの進軍が容易いものになるのだとしても、人類の天敵の力を借りるなと、メリスオールの戦士としての矜持が許さないのかもしれない。それはグレイにも理解のできることだ。

 理解できるどころではない。彼が最も思い悩み、苦心したのが、皇魔の力を借りるかどうかという判断だった。

「しかし、さすがは魔王と畏れられるだけのことはありますな。こうも皇魔を手懐けるとは」

 別の部下が驚きを隠せないといった風に言ってきたので、グレイは静かに頷いた。

 グレイたちに皇魔ブフマッツを提供してくれたのは、ほかならぬ魔王ユベルだった。グレイが麾下の三千名とともにザルワーンを見限り、ガロン砦を占拠したのが約二ヶ月前。ジベルの支援もあって持ち堪えてきた彼らの元に魔王が訪れたのは、九月の頭のことだった。

 いまは廃墟と化した首都メリス・エリスでの出逢いは、グレイも鮮明に覚えている。異彩を放つ魔王と、彼に付き従う皇魔リュウディースの女。彼女の存在が、魔王ユベルの風聞を事実として認識させることになったのだ。彼は皇魔の軍勢を率いてクルセルクを打ち破り、王位を簒奪したのだ。故に魔王の忌み名で呼ばれ、恐れられるようになった。グレイが風聞でしか知らなかったのは、魔王によって制圧された後のクルセルクが、情報封鎖を行うようになったから、というのが大きい。クルセルクでなにが起こったのか、外部の人間が知ることはほとんどできなかったといっていい。

 グレイがクルセルクの真実を知ったのも、魔王本人から聞いたからだ。それが本当の出来事なのかはわかるはずもないが、彼が皇魔を支配しているのは事実だった。

 ユベルは、グレイに一方的に力を貸すというと、控えさせていたらしい部下たちにブフマッツを連れてこさせたのだ。百体あまりのブフマッツは、グレイたちのみならず、ユベル配下の人間たちへの敵意も隠さなかったが、ユベルの前ではおとなしいものだった。猫なで声さえ発する化け物の姿に、グレイたちはユベルの底知れぬ恐ろしさを実感することになった。

 ブフマッツは軍馬として利用すれば、普通の馬よりも早く、長く走ることができるだろうとはユベルの言葉だったが、グレイは、彼の真意を測りかねた。

『陛下はなぜ、我々の愚挙に力をお貸しになられるのです』

『魔王の戯れと想ってくれればいい。不要ならばそれもいいが、将軍が愚挙と呼ぶ行為を完遂するには、必要な力だと判断したのだがな』

 魔王の戯れ。

 そんなものが真意だとは考えられなかった。

 ユベルがその程度のことで大事な戦力を貸し与えるような人物には見えなかったのだ。彼は深謀遠慮のひとだと、グレイは勝手に思っていた。眼が放つ異彩がそう思わせたのかもしれない。買い被りかもしれない。彼は魔王を演じている節がある。人間であるという事実に逆らうために、魔王らしくあろうとしているのが、グレイにはなんとなくわかった。彼は人間を嫌い、だからこそ皇魔を引き連れている。しかし、どのようにして皇魔を支配しているのかはわからなかったし、後々聞いても答えてくれはしなかった。

 だが、追求する気になれなかったのは、グレイが彼に魅力を感じ始めていたからかもしれない。

『確かに……力は必要です。しかし、軍馬として用いるには、いささか数が少ない』

『わかっているよ。すぐに用意させる。これは挨拶代わりの手土産だ』

 ユベルは大いに笑い、グレイも釣られて笑った。そして、数日後、ユベルが約三千のブフマッツとともに訪れ、グレイたちは驚嘆するしかなかった。クルセルクの騎馬部隊から供出させたものであるといい、大事に扱って欲しいと注文を付けられたものの、ブフマッツは皇魔なのだ。乱暴に扱えばどうなるものかわかったものではない。慎重に、丁寧に扱うのは当然だった。

 それからブフマッツを乗りこなすための調練が続いた。ザルワーンの大地に馴染んでもらうため、ブフマッツだけを駆けさせたこともある。とにかく、日々、調練と訓練に費やされた。グレイの部下の中で皇魔に拒絶反応を示すものもいないではなかったが、弱音を吐くようなものはいなかった。グレイの烈しい訓練についてきたものたちだ。メリスオール時代より最強の名をほしいままにしてきた戦士の集団なのだ。

 次第に、皇魔の扱いにも慣れていった。いまでは普通の馬よりもブフマッツのほうが良いというものまで現れる始末だ。

 グレイは愛馬の乗り心地こそ最上のものだと思ってはいるのだが、ブフマッツの馬力には到底かなわないこともわかっている。駿馬とはいえ、ブフマッツの全速力に追いつくことはできそうもない。しかも、ブフマッツの体毛は鋼鉄のように硬く、並大抵の攻撃ならば跳ね返してしまうというおまけつきだ。部下たちは移動する要塞を手に入れたのも同じだといい、グレイもその意見に反対はしなかった。

 愛馬とは、ガロン砦で別れた。駿馬ではあったが、ブフマッツを手に入れた以上、不要となったのだ。道連れにせずに済んだことを喜ぶべきだと、彼は自分に言い聞かせて、その将来をジベルの人間に任せた。猛将グレイ=バルゼルグの愛馬だ。悪いようにはしないだろう。

 そうやって、グレイ軍が保有していた軍馬のほとんどは、ジベルの手に渡った。ザルワーンからの離反以来、ジベルには助けてもらっていたのだ。ジベルとしては自国領への防壁として利用していたのかもしれないが、どんな理由であれ、日々の糧を与えてくれる存在ほどありがたいものはなかった。彼らは最後までジベルの人間であるということを明かすことはなかったものの、グレイは彼らへの感謝を忘れることはないだろう。

 約二ヶ月、ガロン砦に篭もり、持ち堪えることができたのは、ジベルからの援助があってこそだ。彼の国からの援助がなければ、グレイ軍の糧食はとっくに尽き果てていただろう。もっとも、その場合は、脇目も振らず龍府に突撃していたに違いないのだが。

 八月半ばに突撃を行っていた場合、グレイたちはどうなっていたのだろう。まず、マルウェールの軍勢が動き、スルークからも迎撃部隊が差し向けられ、さらに五方防護陣の潤沢な戦力による出迎えを受けていただろう。ガンディアによって荒らされ、かき乱された現在とは大きく異なる状況が生み出されていたはずだ。その場合の結果は、考えるまでもない。

 が、それこそ望むところだったのだ。

 グレイは、ただ、死に場所を求めたのだ。忠を尽くすべき存在を奪われた彼にとって、この世を生きることになんの価値も見出だせなくなっていた。怒りもある。裏切られ、踏みにじられたという気持ちもある。怒りは怨嗟となり、憎悪となって吹き荒れた。

 だが、ザルワーンという国を信じ、ミレルバスという男を信じてしまったのは、ほかならぬ自分自身なのだ。十年、この国のために戦い抜いてきた。メリスオールに帰ることが許されないということになんの疑念も抱かなかったのは、間違いなくグレイの落ち度であろう。国に戻れば、ザルワーンへの忠誠心が薄れることを危惧してのことだろうという判断は、グレイにあるまじき思い込みだった。疑おうと思えば、いくらでも疑えたはずだ。しかし、疑わなかった。いや、疑えなかったのかもしれない。

 メリスオールの王家臣民を人質に取られた以上、ザルワーンという国に従う以外の道も選択肢もなかった。たとえ、守るべきものが既に消滅していたのだとしても、その事実を知らないグレイには、ザルワーンに反抗する余地などなかったのだ。メリスオールの人々の無事だけを信じ、戦い続けるしかなかった。

 たとえ疑いが生じるようなことがあっても、深く考えようとはしなかった。猜疑心は身を滅ぼしかねない。国を疑い、突き詰めた結果、グレイだけが破滅させられるのなら構わない。だが、ザルワーンという国が、グレイ個人だけに牙を剥くとは到底考えられなかった。

 グレイは、ザルワーンに従うだけの人形となった。感情を捨て、ただの戦士となったのだ。そして、勝利に勝利を重ねた。すべてはメリスオールの王家臣民のため。ニルグのため。

(陛下。どうか、お許しを)

 彼は、胸中で何十度目かの許しを請うた。いまは亡きニルグ・レイ=メリスオールは生きよといった。どんな状況にあっても生存することを諦めてはならないというのが、ニルグの考えであり、かつてのグレイの行動指針でもあった。王の教えあればこそ、どのような苛烈な戦場でも、最後まで生き延びようと思えたのだ。

 しかし、彼はいま、その教えに、王命に背こうとしている。

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