第二千八百八十八話 王家の守護獣(三)
「リノンクレアが、あの娘が我に助力を求めたのは、彼奴を差し違えてでも止めるためだった。そして、実際に行動に移し、しくじった。彼奴が裏切り者を許すわけもないことは、おぬしも知っているだろう」
「……陛下は、それほど強いひとではありませんよ」
セツナは、レイオーンの目を見つめ返しながら、いった。別にレオンガンドを弁護するわけでもなんでもないが、レイオーンがあまりにも彼のことを知らなすぎると想うと、そんな言葉が口を吐いて出ていた。
むしろ、甘すぎるくらいに身内に甘い人間だった。同盟国、友好国に関わらず、一度信用したものに対しては極端なまでの甘さを見せる。血の繋がった親族ならばなおさらであり、たとえ裏切られて、敵に回ったとしても、最後まで手を差し伸べることを諦めなかった。それがレオンガンドの良さであり、弱さでもあったのだ。
そんなレオンガンドを知っているセツナからしてみれば、いくら差し違えようとしたとはいえ、リノンクレアを手にかけるなど考えられないことだ。
確かにレオンガンドは、幾多の戦いの中で己の甘さを認識し、捨て去ることで強くなろうとしていたのは事実だ。だが、結局のところ、彼は最後の最後まで、セツナの知っているレオンガンドだった。自分を慕うものに対しては際限なく甘く、優しい男だったのだ。
「たとえどのような理由があったとしても、リノンクレア様を、妹君を手にかけるようなことはしないはずです」
「彼奴がレオンガンドならば……そうであろうな」
「……やはり、そういう意味でしたか」
「我は何度もいっておろう。彼奴と」
レイオーンが眉根を寄せた。その苦渋に満ちた表情には、獅子神皇とレオンガンドが同じであって異なる存在だと認識している、ということを伝えていた。つまり、聖皇の力の器としてのレオンガンドであって、レオンガンド本人ではない、といいたいのだろう。故にレイオーンは、レオンガンドとは呼ばず、彼奴と呼ぶことに拘っていたのだ。レオナやリノンクレアのことは名前で呼ぶ彼がなぜレオンガンドの名前だけは頑なに言葉にしないのか、不思議でならなかったが、腑に落ちた気分だった。
「レオナがそう認識したように、あれはレオンガンドの肉体を借りた別の存在だ。獅子神皇と名乗っているのであれば、そうなのだろう。彼奴は獅子神皇であって、レオンガンドではない。それは確かだ。故にこそ、我はリノンクレアに助力し、彼奴を打倒する秘策を授けた」
「それが封神剣だった、ということですね」
「そうだ。それも失敗に終わってしまったがな」
「その封神剣とやらをもう一本でも二本でも作ってくだされば、よろしいのでございますが」
「無理だな」
レムの提案をレイオーンはにべもなく一蹴した。
「あら」
「リノンクレアに授けた封神剣は、我が力のほとんどすべてを注ぎ込んだ代物。今日に至るまでの数百年の間、ひたすらに蓄え続けてきた力、そのすべてといっても過言ではない」
「数百年……」
「そうだ。我はガンディアの誕生以来、来たるべき日に備え、力を蓄え続けてきたのだ。それもこれも、ガンディアを危難より護るため。ガンディアを存続させるためにほかならぬ」
レイオーンは、遠い目で彼方を見遣った。そのまなざしが見通すのは、悠久の時の彼方であり、いま現在の虚空ではないのだろう。
「だが、甘かった。我が蓄えたほとんどすべての力を以てしても、彼奴を封じることはできなかったのだ」
レイオーンが語った来たるべき日、というのは、おそらくは聖皇復活の日のことだろう。そのとき、レイオーンは、封神剣を用い、復活したばかりの聖皇を封印するつもりだったのだろう。しかし、それも無駄に終わったのだろう。聖皇の力の器たる獅子神皇が封印できなかった以上、復活したばかりとはいえ、力を同じとする聖皇に効果があるとは考えにくい。
つまり、聖皇の復活が成功していれば、世界は為す術もなく滅び去っていたということだ。
三界の竜王ならば創世回帰によって聖皇を消し去ることも不可能ではなかったが、それは世界が滅亡するのと同義だ。イルス・ヴァレという世界は存続するが、現在を生きるすべてのものは抹消され、綺麗さっぱり洗い流されるのだから、似たようなことだろう。
そもそも、三界の竜王が揃っていなかった以上、創世回帰さえ起こせぬまま滅び去っていた可能性のほうが極めて高い。
「我はもはやレオナを見守ることくらいしかできぬ。彼奴のことは、この世のことは、おぬしたちに託すほかないのだ。ガンディアの守護獣が笑わせる話だが……」
「いえ……レオナ様を見守ることもまた、重要な役割かと」
「そのくせ、レオナを泣き止ませることも出来ぬ。まったく、我はいったいなんのためにここにあるのやら」
「ガンディアの守護獣と仰るのであれば、最後まで、ガンディア王家の方々を御守り頂きたいものです」
「ふむ……その通りよな」
彼は、自嘲気味にうなずいた。
「我はガンディアの守護獣レイオーン。その名のままに、ガンディアを見守り続けよう」
セツナは、レイオーンの雄々しい表情から発せられた宣言を受けて、心底安堵した。レイオーンは、確かに強大な力は持っていないかもしれない。その力のほとんどは失われ、もはや戦う術さえも持っていないのかも知れない。しかし、レオナにとっては数少ない身内であり、泣きながらもレイオーンを頼り、その背に跨がったことを思い出せば、心から信頼を寄せているのは明白だ。レイオーンの存在は、ただそれだけで彼女の心の支えになっているはずだった。
レイオーン自身が語ったように、レオナはまだ齢四歳の幼子に過ぎない。ミリアをはじめとして、セツナたちにとって信頼の置ける人物が多数いるとはいえ、リョハンは、彼女にとって見知らぬ土地であり、異郷なのだ。そんな場所にひとり取り残されるなど、普通、耐えられるものではない。レオナが気丈にもセツナたちの出発を見届け、リョハンでの生活に順応できたのは、彼女が並外れた胆力の持ち主であるだけでなく、レイオーンという心の支えがあったからこそだろう。
ひとりならば、たとえミリアたちがいたとしても、耐えられるものではあるまい。
レオナのためにも、レイオーンにはもう少し気張ってもらうしかなかった。
少なくとも、獅子神皇が滅び去り、この世界に安定がもたらされるまでは。
暖かな風が、穏やかに吹き抜けていく。
空中都市リョハンは、いま、空の上にあった。遙か下方には、東ヴァシュタリア大陸と呼ばれている大地が横たわっているのだが、その大地の大半を緑の森が覆い尽くしているのは、奇妙としかいいようのない光景だろう。
季節は冬。
北の大地は、極寒の日々を送るのが通常であり、この空高く浮かび続ける都市ならばなおさらその寒さに震えなければならなかった。人間や、多くの生物にとっては、だが。
レイオーンには、関係がない。
「人間というのは、不思議な生き物だ」
彼は、季節さえねじ曲げる力の存在を確かに感じ取り、そのことに眉根を寄せながらも、それによって安寧を享受する数多の生き物の存在についてはなにもいうことがなかった。三界の竜王は、この世界の機能だった。この世界を延命させるための装置であり、機能。それが姿形を持った存在、それこそ、三界の竜王であり、彼の頭の上にふんぞり返っている小飛竜なのだ。
ラグナシア=エルム・ドラース。竜語で緑衣の女皇を示すその名は、翡翠のように美しい姿態を誇る竜王には相応しいというほかないが、小飛竜には、どうだろう。それが人間との付き合いの中で見出した姿態だとしても、だ。
「かつて、我が希望を見出したのも、ひとりの人間だった。ある人間の生き様に光を見た。それがはじまり」
「……長くなりそうじゃな」
「勝手についてきておいて、なにをいうか」
「それもそうじゃのう」
ラグナシアは、レイオーンの頭の上で笑った。




