第二千八百八十六話 王家の守護獣(一)
なんの前触れもなく、突如として獅子神皇が世界を引き裂いたあの日、リョハンは、中央ヴァシュタリア大陸上空を漂っていた。
リョフ山上空に位置を固定するのではなく、安住の地を探し求めるようにさ迷っていたのは、ネア・ガンディア軍による四度目の侵攻の可能性を考慮してのことであり、位置を特定させないという理由からだ。いくら飛翔船では達せない高度とはいえ、ほかの方法を用いれば到達できる可能性は十分にあり、また、飛翔船に改良が施されれば、不可能も可能となる場合だってあるのだ。超高空だからといって絶対的に安心できるかというと、そうではない。
故にリョハンは、一定の場所に留まることなく、空の上を漂い続けることにしていた。それも中央ヴァシュタリア大陸上空に限った話ではなく、世界全土がリョハンの移動範囲とされている。中央ヴァシュタリア大陸のみに限定すれば、ネア・ガンディアにリョハンの所在地を絞り込まれる可能性が高まる。ならばいっそのこと、世界中を移動し続ければ、ネア・ガンディアに発見される可能性は低くなるに違いない。そういう判断の元、リョハンは空を飛び続け、あの瞬間を迎えた。
破滅的な光が世界を四つに切り裂き、各地に致命的な傷痕を刻みつけたあの日以来、レオナは泣き続けているという。それがどういうことなのか、本人以外にはわかるはずもなく、ただ、周囲のひとびとは泣きじゃくる彼女を前に右往左往するほかなかった。
ミリアが抱き抱えることでようやく安心し、泣き止んだということだが、少しでも離れると再び泣き始めるため、ミリアは職務を放棄するほかなかったという。仕方なく戦宮の奥に籠もり、レオナを安心させ続けることに注力していたというのだ。戦女神代理としての責務を果たすのも大事だが、泣き続けるレオナを放って置くということもできない。であらば、出来る範囲の仕事のみをしながら、レオナの面倒を見ることにしたのだろう。
問題なのは、そこからどうしてリョハンを“竜の庭”まで飛ばすことになったのかということだ。
「それで、どうしてここまで?」
「レオナちゃんがね、どうしてもセツナちゃんに逢いたがっていたから」
「俺に?」
一応、聞いたものの、レオナがセツナに逢いたがっていたことは、はっきりとわかっている。レオナがセツナの腕の中に飛び込んできたことからも明らかだ。そしていまは、セツナの腕の中で安心しきったような顔で、穏やかな寝息を立てている。
「ええ」
「なんでまた……」
「それはおぬしがレオナにとっての英雄にほかならぬからだ」
レイオーンが唐突に口を開いたことに驚いたのは、セツナだけではなかっただろう。その場にいるだれもがレイオーンに目を向け、釘付けとなった。レイオーンが人語を解することは知っていても、ここで会話に参加してくるとは想いもしていなかった。
白銀の体毛に覆われた獅子は、セツナを見つめ、続けてくる。
「レオナは、聡明な子だ。齢四歳にして、並大抵の大人にも負けぬ胆力と精神性を持ち合わせている。それもこれも、ナージュやグレイシア、リノンクレアらの教育の賜物だろう。そして、その教育故、おぬしには特別な想いを抱いているのだ。ガンディアの英雄セツナ=カミヤは、ナージュらにとっても極めて特別な存在だった故な」
「それで、俺を……」
セツナは、レオナに視線を戻し、つぶやいた。レオナがあれほどまでにセツナを頼った理由もそれならば納得がいくというものだ。セツナは、自分が英雄に相応しい人間だとは想ったことはないものの、ガンディアという国の歴史に残るほどの活躍をした事実は認識していたし、英雄と讃えられていたことそのものを否定するつもりもなかった。国全体として、そういう認識だったのだ。国の中心にいた王家のひとびとにとって、セツナがどういう存在なのかについては想像の余地がある。
レオンガンドがさんざナージュやグレイシアに語ったのだろうことも、容易に想像がつく。そして、故にこそ、胸が痛んだ。
自分をあれほどまでに必要としてくれた主君が、いまや討ち滅ぼすべき敵なのだ。
「レイオーン様は、レオナ様の精神状態がなぜ不安定になっているのか、その理由を御存知なのですか?」
「……先もいったが、レオナは聡明な子だ。ガンディア王家の血筋もあるだろうが、彼女を次期国王に推戴するべく、周囲の人間が徹底して教育したおかげで、立派に育った。とても幼子には見えぬくらいに。特にだ。グレイシアらは、ガンディア王家の人間として相応しく振る舞うように、と、レオナに叩き込んだ。たとえ血肉を分けた親族が敵に回ろうとも、冷静さを失い、我を見失うことがあってはならない。たとえ絶望の淵に立たされたとしても、ただひたすらに耐え忍ぶのが王者たるものである、と」
レイオーンがレオナに向けるまなざしは、ひたすらに優しく、柔らかだ。ガンディア王家の守護獣たるレイオーンにしてみれば、レオナは、ガンディア王家の将来を背負って立つに相応しい人物なのだろう。だからこそ、彼はレオナを見守り続けているのではないか。
「しかし、レオナはまだ齢四歳。実の父を敵にし、斃さねばならぬとなったときから、レオナの精神状態は限界に近かったのだろう。それでも、気丈に振る舞い続けたのは、ガンディア王家の人間として相応しくあろうとしたからであり、レオナが王者に相応しい精神性の持ち主であればこそだった」
レイオーンが語るレオナについて、セツナは強く同意するほかなかった。レオナは、つい先頃四歳になったばかりの幼子であり、本来であれば、王家の教育こそ受けつつも、ここまで過酷な環境に置かれるような立場にはなかったはずだ。ガンディアが健在で、世界が安定していたならば、もっと穏やかに、そして健やかに育てられたに違いない。
しかし、現実は、そうではなかった。世界は崩壊し、ガンディアという国そのものが存亡の危機に立たされていた。グレイシアたちがレオナに強く生きていくための教育を施したのも、そのためだろうし、その年齢に合わぬ教育が、幼子をして大人顔負けの精神性を作り上げたのだとすれば、むしろ哀しみを覚えざるを得ない。
レオナもまた、“大破壊”によって人生を狂わされたひとりなのだ。
「だが、限界を迎え、耐えられなくなったとき、レオナは自分で自分の感情を制御できなくなったのだろう。いまのいままで耐え続けてきたあらゆる苦しみや哀しみが止めどなく溢れ続けていた。それを止めることができるのは、やはり、おぬしだけなのだ、セツナ。ガンディアに栄光をもたらした英雄であるおぬしだけが、レオナにとっての希望の光たりうる」
「俺が、レオナ様の希望……」
「そうだ。おぬしがレオナの、ガンディアの希望なのだ」
レイオーンの双眸がセツナを見据えた。鋭くまっすぐなまなざしは、セツナの胸中をも見抜くかのような輝きが宿っている。
「いや、世界そのもの希望といっても差し支えあるまい。リノンクレアがしくじった以上は、もはや我に打つ手はないのだからな」
「リノンクレア様が?」
「しくじった、とは、いったいどういうことですか?」
「それは……」
セツナたちに問われると、レイオーンは、厳かに語り始めた。
それは、セツナたちにとって予期せぬことにほかならなかった。




