第二千八百八十二話 魔人の希望
夜風は、柔らかく、穏やかに吹き抜ける。
すると、ワラル人地区の街路や各所に植わった木々が揺れ、枝葉が擦れて音を立てた。集落を囲う森そのものも、まるで歌うように揺れている。その森の歌声は、疲れ切った心には優しいものだ。
「しかし、疲れてばかりもいられないのが現状だ。状況は、悪化の一途を辿っている。その点については、おまえも理解しているだろう」
「ああ。わかっているとも」
「この世界に残された猶予は、それほど多くはない。一刻も早く獅子神皇を討ち、聖皇の力を根絶しなければ、世界は滅亡を免れ得まい」
「ああ」
セツナは、アズマリアの言葉にただうなずくほかなかった。それは、予てよりセツナたち自身が考えていることでもあった。
世界は滅びの危機に瀕している。その滅びを回避するには、アズマリアのいった通り、滅びの具現たる獅子神皇を討ち滅ぼし、聖皇の力を根絶するしかないのだ。
「そのためには、ネア・ガンディアの軍勢を打ち破るだけの戦力が必要だ。それもおまえの力を温存できるくらいのな。でなければ、獅子神皇を討ち斃すことは難しい」
「ゲートオブヴァーミリオンで獅子神皇の目の前まで移動することなんて――」
「できないな」
「残念だ」
アズマリアの即答ぶりに、肩を竦める。別に期待したわけではないが、こうもあっさりと断言されるとは思ってもいなかった。
「確かにゲートオブヴァーミリオンはどこへでも行ける。異世界だろうと、どこへでもな。だが、獅子神皇の居場所たるネア・ガンディアは、ゲートオブヴァーミリオンの干渉を受け付けないのだ」
「そうなのか」
「ガンディアを中心とするその島は、特殊な結界に覆われている。その結界が、外部からの干渉を受け付けないのだよ」
「ガンディア……」
アズマリアの発言の中で引っかかったのは、その一言だった。
ネア・ガンディアの本拠地がどこにあるのかについては、ずっと不明だった。それはそうだろう。セツナたちは、常に敵の本拠地とはまったく異なる場所でネア・ガンディアの軍勢と交戦してきた。撃退しても、追跡するわけにもいかなかった。故に不明だったのだが、確かなこともあった。彼らがネア・ガンディアを名乗っているという圧倒的な事実だ。
新生ガンディアを意味するその名を掲げる組織だ。旧ガンディア領土に本拠地を置いていると想像するのは、必然だろう。それも聖皇復活の儀式の中心、“約束の地”のあったガンディオンにこそ、ネア・ガンディアの本拠地があると考えるのは自然の流れだ。ただし、それは確定事項ではなく、セツナたちの想像に過ぎなかった。それがいま、アズマリアの発言によって確定したといっていい。
少なくとも、ガンディアを中心とする島にネア・ガンディアの本拠地があるということが判明した。
その事実に軽い衝撃を受けるのは、やはり、違っていて欲しいという願望が心の何処かにあったからだろう。
ガンディアは、セツナにとってこの世界に於ける故郷であり、故国なのだ。それがいまや斃すべき敵の本拠地と成り果てているという現実を目の前にすれば、言葉を失うほかない。
「仮にだ。それができたとして、それで獅子神皇だけを相手にすることができるかというと、そういうわけにもいくまい。ネア・ガンディアの戦力という戦力がおまえたちを包囲し、覆滅するべく動くぞ」
「やっぱり、多少なりとも戦力を削ったほうがまし、ということか」
「そういうことだ。そしてそれは、おまえ以外の戦力が担当しなければならない。神々の王たる聖皇、その力の器である獅子神皇を討ち滅ぼすことができるのは、おそらくおまえただひとりだ。おまえと黒き矛だけが、希望なのだ」
「希望……」
反芻し、拳を握る。
希望。
その言葉には強い力と責任を感じざるを得ない。
「そうだ。おまえは希望だ。世界にとっても、わたしにとっても、な」
「あんたにとっても……ね」
「わたしはこの五百年、希望を探し求めていた」
魔人の言葉は、重い。
「この世の理不尽を討ち斃す、ただそのためだけに生き長らえてきたのだ。それがなんであるかもわからぬまま、ただ、方法を探さなければならなかった。当てもなく、ただ放浪する日々。魔法を始めとする多くの技術が失われた世界で、その方法を探し出すのは極めて困難だった」
「それが武装召喚術?」
「……武装召喚術を考え出したのも、そうだ。武装召喚術を極めれることができれば、理不尽なるものを討ち斃すことも不可能ではないかもしれない。そう考え、リョハンにてひとを募った。ファリアを始めとする四人が、わたしの最初の弟子であり、彼女たちとの出逢いは幸運だった。四人はいずれも優秀であり、わたしのいうことなすことあっという間に飲み込み、瞬く間に武装召喚術を身につけていった。わたしは狂喜したよ。彼女たちが手本となり、後継を育てていけば、いずれは理不尽なるものに食らいつく、いや、討ち滅ぼす使い手が現れるに違いない。そう想えた」
アズマリアにとって、ファリア=バルディッシュら四人の高弟との日々は、幸福なものだったらしいことは、その声音でわかった。まさに武装召喚術の黎明期、武装召喚術の始祖と四人の高弟は、リョハンにて苛烈な修練の日々を送っていたということは、リョハンではよく知られた話らしく、セツナも聞いている。もっとも、アズマリアがリョハンを襲撃して以降、アズマリアをして武装召喚術の始祖として崇めることはなくなり、むしろ魔王の如く忌み嫌うようになってはいたが。
「そして、そのような使い手が一日でも早く現れることを願い、わたしは弟子たちに武装召喚術を世界中に広めるように命じた」
「そうして誕生したのが《大陸召喚師協会》か」
「そうだ。すべては、わたしの宿願のため。それ以上でもそれ以下でもない」
アズマリアは、冷ややかなまでの声音で断言した。
彼女が望んだのは、武装召喚術の拡散によって無数の武装召喚師が誕生することであり、その中に理不尽なるものこと聖皇の力を討ち滅ぼすほどの召喚武装の使い手が現れることだったのだろう。しかし、武装召喚術の拡散は、それほど上手くはいかなかった。武装召喚術を目の当たりにするなり、積極的に取り入れたのは、帝国くらいのものだ。
帝国は、武装召喚術こそ、将来、“約束の地”を制する上で重要な戦力になるだろうと見越した上で、大規模な武装召喚師量産計画を打ち立て、武装召喚師の育成機関をつぎつぎと作り上げたのだ。そうして二万人以上の武装召喚師が誕生したのだから、帝国の育成力たるや、凄まじいとしか言い様がない。が、それが最大規模のものであり、ほかに武装召喚師の育成に手を出した国の数は、極めて少なかった。セツナがよく知っているところではザルワーンやエトセアくらいだ。武装召喚師を戦力として起用していた国の多くは、《協会》から雇うだけで十分だという判断をしていたのだ。
ガンディアも当初はそうだったし、セツナたちがガンディアに所属するようになると、ますます国内での武装召喚師の育成などどうでもよくなった。セツナたちが戦力として十二分に働いているのだ。それだけでいい、と考えてしまうのも無理のない話だった。もっとも、ガンディアは、その後に武装召喚師を目指すものたちのための学校を作り、育成を始めたのだが。
それもいまや遙か昔の出来事のように想える。
遠い遠い過去の色褪せた想い出のひとつ。
世界は変わり果て、終わり果てようとしている。
事実、このままでは世界が滅びるのも時間の問題だ。
レオンガンドの意思はともかく、聖皇の力は、間違いなくこの世界に滅びをもたらすだろう。
「だが、それでもわたしの悲願には程遠かった。故にわたしはゲートオブヴァーミリオンを使い、異世界の存在に呼びかけた。それに応えたのがクオンであり、おまえなのだ」
アズマリアがこちらを見つめた。
「おまえがわたしの召喚に応じ、目の前に現れ、その力を見せたときほど嬉しかったことはないよ」
「アズマリア……」
「魔王の杖の力は、神をも滅ぼし得る。ならば、理不尽に打ち勝つことだって不可能ではないのではないか。わたしはそう想った」
「だったらなんで置き去りにしたんだよ」
「おまえの成長を促すためだよ、セツナ」
などと、アズマリアはいうが、とても信じられる話ではなかった。
「……あんたが手取り足取り教えてくれりゃあよかったじゃないか」
「わたしが暇ならばそうするのも悪くはなかったが、あいにく、そういうわけにもいかなかったのでな。それにおまえは魔王の杖に選ばれた人間だ。そう簡単には死なないだろうという確信があった」
「その日の内に死にかけたんですけどねー」
「だが、死ななかった」
「結果論じゃねえか」
「むしろ感謝してほしいものだな」
アズマリアがしれっとした顔でいってくる。
「おかげで、最愛のひとと出逢えたのだろう?」
「ぐ……」
「わたしも、彼女には感謝しているよ。おかげで、おまえが死なずに済んだ。おかげで、世界は救われそうだ」
そういったアズマリアの表情は、心なしか晴れ晴れとしていて、そんな彼女の態度を見るのは、これがはじめてのような気がしてならなかった。
夜は更けていく。
予期せぬことが起きたのは、翌朝のことだった。




