第二百八十七話 誰が為に君は戦う
「連戦連敗か。やはりナーレスを拘束したのは失策だったかな」
黙考するミレルバスに対し、皮肉げに笑いかけてきたのはオリアン=リバイエンだった。ミレルバス=ライバーンは、混迷を続ける思索を打ち切ると、嘲笑してきた男の方に視線を向ける。部屋の出入口の柱に寄りかかるようにして、彼は立っている。見慣れた顔だ。何十年にも渡る長い付き合いは、ミレルバスと彼の関係を光と影のようなものにしてしまっていた。
ミレルバスは光として表舞台で喝采を浴び、オリアンは影として舞台裏で暗躍する。もっとも、ザルワーンの中枢に携わるものの中でオリアンの存在を知らないものはいない。つまり、暗躍ではないといえる。ここ十年の間は魔龍窟の総帥として知られ、あの地獄の主催者として畏怖される存在でもある。そして、ザルワーンの国主ミレルバスの腹心と思われてもいるだろう。
実際は対等に近い関係だ。
ミレルバスは彼の才能と実力を利用し、オリアンもまた、ミレルバスの権力を利用している。ミレルバスの改革には、オリアンの助力が必要不可欠だった。彼の助力によってミレルバスは国主の座につけたといってもいい。おかげで旧態然としたザルワーンの国政に変革をもたらすことができたし、多くの才能を見出すこともできた。
そのひとつが、ナーレス=ラグナホルンだった。
ガンディアが誇る稀代の軍師は、王位継承者であるところのレオンガンドがあまりに愚物であったがために国を離れ、北へと流れてきた。一説には、シウスクラウド王がレオンガンドの後見人に選んだのが彼ではなく、アルガザード将軍であったことに怒り狂い、愛想が尽きたとも囁かれた。実績を考えれば後見人にはアルガザード将軍が適任だという声も多く、ナーレスという人間の人格が疑われるような噂だったが、その風聞がガンディアから流れてきたものとすれば、別の見方もできた。
ナーレスが他国に仕官することを恐れたガンディアが、彼の出奔に悪い印象を植え付けようとしたのではないか。いくら名高い軍師であっても、人格に問題があるのならば登用しづらいというものだ。しかも、ガンディアからの風聞を信じれば、彼は国政に携わることができないからガンディアを去ったとも取れるのだ。そういう野心家を歓迎できる国がどれだけあるものか。
そういう様々な噂が飛び交う中で、ミレルバスはナーレスと出会い、彼の中に才能を感じた。そして、すぐさま実力に触れることができた。ミレルバスはナーレスもまた、ザルワーンの改革に必要な人材なのではないかと直感し、確信を得た。それが誤りだと気づくのに五年を要したのは、ナーレスの工作が巧妙だったせいもあるが、ひとえにミレルバスが彼を信用しすぎていたことが大きい。最愛の娘を嫁がせることに決めたのも、彼を信じきっていたからだろう。彼を疑っていれば、そんな決断はしなかった。
「……ナーレスを放っておけば、ザルワーンは食い尽くされてしまっていただろう。毒を喰らい、弱った龍など、勢いに乗る獅子の相手にもなるまい」
「五年。五年で、ザルワーンは食い尽くされたようだな」
オリアンが、嘲笑う。痩せぎすの男の片手には、なぜか、抜身の小刀が握られている。魔晶灯の光を反射して、刀身が鈍い輝きを浮かべていた。
「……そうかもしれん」
返す言葉もなかった。ナグラシア陥落以来、ザルワーンの各地から飛び込んでくる戦況報告は、どれもこれも悲報といっていいものだった。バハンダールの陥落ほど衝撃的なものはなかったが、ロンギ川での戦闘では彼の息子ジナーヴィ=ライバーンが、フェイ=ヴリディアとともに戦死した。十八日にはマルウェールが落ち、翌十九日ミリュウ=リバイエン、クルード=ファブルネイア、ザイン=ヴリディアら魔龍窟の武装召喚師擁する迎撃部隊が、黒き矛擁するガンディアの部隊に敗れ去った。
負け続けている。
「君は、彼の才能を信じすぎた。いや、過信か? どちらにせよ、悪い癖だな。君が彼にもう少し疑念を懐き、身辺の調査を入念にしていれば、防げたはずの事態だ。なにもかも君の責任だな。結果、多くの人間が死んだ。罪なきものも、罪深きものも、同じくらい死んだかな」
オリアンの冷ややかな声音は、まるで研ぎ澄まされた刃のようにミレルバスの心に突き刺さるのだが、だからといって反論できることはひとつとしてない。というより、この程度の言葉で落ち込んでいるようでは、国主としてやっていけるはずもない。ミリュウたちが敗北したという報告が届いて以来、ずっと考えていたことでもあるのだ。
敗北の始まりはどこにあったのか。
ザルワーンは総兵力一万八千を公称する大国だ。小国家群の中でも頭ひとつ飛び抜けた国土を有し、領土相応の戦力を誇っていた。周囲四方には敵国があり、属国もあった。属国ログナーを合わせれば二万三千近い戦力を持っていた当時のザルワーンに戦争をふっかけてくるような愚かな国はおらず、その戦力を自在に使うことができれば、小国家群の覇者となることも夢ではなかったのだ。
しかし、保有戦力のすべてを外征に回すことなどできるはずもない。ある時期を境に、ザルワーン国内で内乱が頻発するようになったからだ。内乱の鎮圧に戦力を割く必要が生まれ、外征は疎かになった。それでも南進の準備としてログナーを動かしてはいたのだが、それも上手くは行かなかった。すべて、ナーレスの策略だった。
だが、それもこれも、ミレルバスが彼を拾い、彼を重用し、彼に権力を与えたからに他ならない。
「すべてはわたしの責任だ。それくらいはわかっている」
「当たり前だろう。そしてわたしはそんなことを追求しに来たのではない」
「そうだろう。君はそういうやつだ。で、なにがあった」
「クルードにわたしの代わりをさせることにした」
「……だいじょうぶなのか?」
ミレルバスは、オリアンの顔色を窺ったが、魔晶灯の光に曝された彼の顔に変化は見当たらなかった。クルードとは、魔龍窟の武装召喚師であり、二日前、ガンディア軍との戦闘によって死亡したはずだった。
しかし、オリアンはどうやったのか、彼の亡骸を龍府の研究施設に運び込み、蘇生実験を行ったのだ。蘇生実験は見事成功したといい、ミレルバスは、オリアンの恐るべき才能を垣間見た。死者を蘇生させることができるなど、到底信じられることではない。が、実際にクルードが生き、歩き、動いている様を見せつけられれば、彼の成果を信じるしかなかった。そしてそれは、戦力の大幅な増強へと繋がるかもしれなかった。
蘇生薬が量産された暁には、死なない兵士たちがザルワーンの主力となるのだろう。ザルワーンの戦場を駆ける不死の軍勢。殺されても、殺されても、肉体があるかぎり何度でも立ち上がり、敵を攻撃する兵士たち。敵にとっては恐怖以外のなにものでもなければ、味方にとってもおぞましい光景に違いない。
命を冒涜する悪魔の如き所業は、オリアンだからこそ成し遂げることができたのだ。倫理や道徳から解き放たれた存在である彼にしかできなかったことかもしれない。
オリアンは人知未踏の領域へと足を踏み入れたのだ。彼がこれから先、どこへ向かうのか見届けたいという気分もあるが、状況によっては、それはかなわぬ夢となるだろう。仕方のないことだ。しくじったのは他ならぬ自分自身だ。
「クルードの生命活動に異常は見られない。むしろ順調すぎて驚くほどだ。記憶がいくらか欠損しているようだが、わたしの代わりくらいは務まるだろう。それに、死んでも生き返るんだ。心配する必要もない」
「君がいうことだ。間違いはないのだろうな」
「ああ」
オリアンが自信たっぷりに頷くのを見て、ミレルバスは、彼という半身を得たのは間違いではなかったと思った。彼が影であるからこそ、光としての自分を自覚することができる。彼が自信を深めれば深めるほど、ミレルバスもまた、自信を持ち、確信へと至ることができる。自分の歩んできた道は決して間違いではないという確信があるからこそ、前へ進める。
失敗はあった。
ナーレスへの期待と信頼が、ザルワーンを現状へと導いたのは事実だ。ナーレスが人事にまで口を出し、それを認めてきたのは、彼の判断こそ、ザルワーンの将来にとって有用であると思ったからだ。実際、彼の献策の多くは、ザルワーンをさらなる強国へと押し上げるものだったのだ。影に紛れて散布された毒が猛威を振るい始めたのは、つい最近のことだ。戦争が始まって、ようやく、ミレルバスはナーレスの目論見に気づいた。
ナグラシアの翼将にゴードン=フェネックを選んだのも、ゼオルの翼将にケルル=クローバーを任じたのも、将来、ガンディア軍がログナーを飲み込み、ザルワーンに攻め寄せてくることを見越してのことだったのだ。
ログナー領土からザルワーン領に攻めこむには、いくつかの経路がある。ひとつはレコンダールからバハンダールへと攻めこむ経路だが、難攻不落のバハンダールを緒戦の地に選ぶのは勇気がいることだ。多大な戦力を投入することが可能ならばそれもいい。だが、バハンダールの難攻不落神話が生きていたころには、バハンダールから攻撃するということはだれも考えなかっただろう。敵も、味方もだ。
二国の国境に隣接したバハンダールに必要最低限の戦力しか配置していないのもその現れだった。そして、それでよかったのだ。ガンディア軍が黒き矛を投下するという荒業で制圧するまで、バハンダールは攻め込まれることもなく、無敵の城塞都市として君臨し続けていたのだから。
もうひとつは、マイラムからナグラシアへと侵攻する経路だ。ナグラシアはこの時代の街の例に漏れず、城壁に覆われた都市であり、特に南側の城門は立派なものだった。ログナーが属国だったころは、防衛戦力の配置すら不要だといわれていたものの、ナーレスの強硬な意見によって戦力の移動は免れた。そして、ログナーで内乱が起きたとき、ナーレスの先見の明に驚く声が上がった。そしてログナーがガンディアによって平定されたことで、彼の信望は否応なく高まった。ナグラシアがガンディア外最前線になったからだ。
だが、それこそがナーレスの目論見だったことに気づけたものはいたのだろうか。
ナーレスは、ガンディアがザルワーンに侵攻した際に取る経路さえ作り出していたのだ。すなわち、ナグラシアからゼオル、そしてヴリディア砦、龍府へと至る経路だ。ザルワーンの中央を縦断する進路上の都市の翼将は、どれも文官上がりであり、実戦経験などたかが知れた連中だった。ヴリディア砦を司る天将カーメル=ラメルですら、元を正せば文官なのだ。平時では能吏であったとしても、戦時ではどうなるものか。ナーレスは、彼らの奮戦に期待するといっていたが。
「また、考えごとか?」
「……すまんな。つい、考えてしまう」
ミレルバスは、素直に謝ると、彼の顔を見た。オリアン=リバイエンはいつになく穏やかな顔をしていた。実験が成功したことが彼にとっても喜ばしいからなのか、それとも、ミレルバスがそこまで情けない表情をしていたからか。
「いまさら過去を悔やんだところでどうなる? なにも変わらんよ。君が犯した過ちも、失態も、失策も、水泡と消えるわけではない。時は戻らないし、過去は変わらない。ならば、君は君の為すべきことを為せばいい」
「そうだな。その通りだ」
まさかオリアンに諭されるとは思っても見なかったが、考えてみれば、国主に対してそういう発言ができる人間など、彼以外にはいなかった。彼だけが特殊な立ち位置にいる。神将セロス=オードも、彼の息子である天将ゼノルート=ライバーンも、ミレルバスを叱責することはない。意見を簿述べることや、反論することはあってもだ。そういう意味では、半身であって半身ではないともいえるのだが、だからこそありがたい存在だともいえるのだろう。
「そのための舞台は整いつつある。もっとも、君が舞台に上る前に決着が付く可能性のほうが高いが……」
「真の五方防護陣……」
「君も見ただろう。あの日、メリス・エリスでな」
ミレルバスの脳裏に浮かんだのは、燃えるような色彩の空だった。あの日、あの時、あの場所で、ミレルバスは大量の人間が為す術もなく死んでいく様を見ていた。老若男女関係なく、メリスオールに生まれたというただそれだけのために死んでいったひとびと。無垢な赤子も、罪深い人間も、等しく命を奪われていった。断末魔を上げることさえできなかったかもしれない。
ミレルバスは、現地にいたのだ。オリアン=リバイエンひとりに業を背負わせるわけにはいかなかった。オリアンが外法の極みとして計画したそれは、ミレルバスが承諾しなければ実行に移せなかった。ミレルバスが、人の道を歩む王であったならば、オリアンの実験を認めなかっただろう。それは冥府魔道へと堕ちるのと同じことだった。
「わたしと君が大量殺戮の罪業を背負ったのはなんのためだ」
「ザルワーンのため」
「君は安心して邁進しろ。骨は拾ってやるさ」
オリアンは乾いた笑みを浮かべた。
数十年前、初めて逢ったあのときのように。