第二千八百七十五話 ラグナ(四)
創世回帰。
三界の竜王と呼ばれる竜属の王たちによってのみ執り行われるそれは、世界を一新するものだという。まさに神の御業と呼ぶに相応しいその行いは、世界に存在するありとあらゆる生物、無生物を消し去るというものであり、すべてを原初に回帰させるというものだった。
つまり、創世回帰が実行に移されれば、獅子神皇は問答無用で消滅するが、セツナたちもまた一緒に消滅するということだ。
例外は、ない。
竜王の眷属たちも同様に消滅を免れ得ず、ラグナたちは二度に渡って眷属たちの消滅を見届けているという。
「創世回帰を行えば、獅子神皇だろうが聖皇だろうが問答無用で抹消できる……か」
「神々もな」
「異世界の存在なのに、か?」
「例外はないというたはずじゃ。たとえ異世界の存在とて、この世界に存在し、この世界の法に従うておる以上、世界の法理の極致たる創世回帰を回避することはできぬ」
「なんだと……」
『それは初耳だな』
ハサカラウ神が憮然とし、マユリ神が通信器を通してつぶやいてきた。創世回帰の実態を知らない神々にしてみれば、当然の反応だったし、それはセツナたちも同じだった。この世界に生まれ育った存在ならばともかく、異世界の存在も消え去るというのは、創世回帰の強制力の凄まじさに言葉を失うほかない。
「故に神々もまた、我々の存在が厄介なのだ。我々が創世回帰を行った瞬間、彼らは元の世界に還ることもできないまま消滅せざるを得ないのだからな」
ラムレシアが忌々しげな表情を浮かべたのは、彼女の身に起きた出来事を考えれば当然のことだ。三界の竜王の一翼、蒼衣の狂王は、ネア・ガンディアの神の策謀によって、ある意味消滅したのだから。
「でも、起こさないんだろ?」
「うむ」
セツナが軽く尋ねると、ラグナは厳かな口調で肯定した。そして、頭の上で髪の毛を掻き毟らんばかりの勢いでのたうち回る。
「……って、それはわしが格好をつけていうことじゃろ!?」
「格好つけたかったのかよ」
「当たり前ではないか!」
「当たり前……? よくわかんねえな」
「むう……おぬしには、皆に格好をつけたいというおとめごころがわからぬか」
セツナが頭を抱えかける中、ラグナはといえば、その頭の上でふんぞり返っているようだった。セツナの視界には彼女の姿こそ映らないものの、現在彼女がどのような体勢なのかはなんとなく想像がついた。鏡越しに、自分の頭の上でくつろぐ小飛竜の姿をよく見たからだろう。それもラグナの体重のかけ方で、その姿勢が脳裏に浮かぶほどだ。
「おとめごころ?」
「ううん……ごめん、ラグナ、わたしにもわからないわ」
「そうね……乙女心では、ないんじゃないかしら」
「まあ、いいところを見せたい気持ちはわからなくはないが」
「そうでございますねえ」
女性陣の反応もセツナと大差ないものであり、ラグナは、セツナの頭の上で地団駄を踏んだ。そして、大袈裟なまでの嘆息を浮かべてくる。
「むむむ……おぬしらに期待したわしが愚かじゃったというわけじゃな」
「……なにがいいたいんだよ、いったい」
「ともかく!」
ラグナは、気を取り直すようにして、いった。セツナとの問答をしていても埒が明かないとでも思ったのか、それとも、話が進まないことを気にしたのかはわからない。
「わしらは創世回帰を行わぬと決めた。創世回帰を実行せば、確かにこの世界は救われるじゃろう。この世に巣くい、破滅をもたらす元凶も、その手足となって動き回っているものどもも、一切合切を消し去るのじゃからな」
「そして世界は原初の静寂に舞い戻り、またすべて、最初からやり直すこととなるわけだ」
とは、ラムレシア。彼女もまた竜王である以上、ラグナの話に割り込むのは当然なのかもしれない。
「つぎに生まれる命に希望を託し、つぎこそは破滅的な未来が訪れぬことを祈る日々が始まるというわけじゃ」
「それもひとつの解決手段だ。我々は、原初よりそうしてきた。世界が破滅に直面したとき、すべてを洗い流すことでその破滅的な未来さえもなかったこととして、やり直してきたのだ。それが我々の存在意義であり、我々のすべてだった」
「いままでは、それでよかった。じゃが、此度、わしらは、それをよしとせなんだ」
ラグナとラムレシア、二柱の竜王は、静かに、しかしよく通る声で言葉を紡ぐ。それはさながら偉大なる王者の演説のようであり、神々の祝福のようですらあった。
「本来であれば、創世回帰を実行するべき状況が近づいているのは明らかだ。獅子神皇の力は絶大であり、あれを捨て置けば、この世界のみならず、数多の世界にも悪影響を及ぼすことは疑う余地もない。いっそのこと、創世回帰を行い、獅子神皇と聖皇の力を根本から消し去ることこそ、この世界の管理者としてもっとも正しい選択だろう。その結果、いまこの時を生きるすべてのものを消し去ることになったとしてもな」
ラムレシアは、ファリアをちらりと見た。そのまなざしには、彼女への親愛が輝いている。
「聖皇が、あやつが世界を改変するようなことさえなければ、わしらが三界の竜王としての役割を忘れるようなことさえなければ、この期に及んで創世回帰を実行しないなどという選択は取らなかったはずじゃ」
「どういうことだ?」
「いうたじゃろう。聖皇は、自分にとって都合のいい世界を作り上げた、と。そのとき、わしら三界の竜王もまた、あやつの思惑によってその役割を追われたのじゃ」
「その結果、我らは自分たちが世界の管理者であることすら忘れ、ただ、竜属の王の如く振る舞うようになった。ラングウィンは“竜の庭”を拓き、ラムレスは“竜の巣”を築いた。ラグナシアは、相変わらず飛び回っていたようだが」
「うむ。わしには一所に留まるのは性に合わんかったからのう。故に世界中を巡ることにしたのじゃ」
ラグナが頭の上から飛び上がるのがわかった。セツナの周囲をゆっくりと旋回するようにして舞い降りると、眼前で止まり、滞空した。丸みを帯びた小飛竜の宝石のような目が、こちらを見る。
「そして、セツナ、おぬしと出逢った」
彼女は、心を込めて、いった。その言葉に込められた様々な感情がまっすぐに伝わってきて、目頭が熱くなる。そしてセツナは両手を目の前で重ね、ラグナの足場を作った。ラグナは遠慮せずに降り立ち、満面の笑みを浮かべる。
「それ、アズマリアにけしかけられて、だったよな」
「うむ。あやつは、わしをセツナの試練とする一方、セツナに万が一のことがあったときの保証としたかったのじゃろう」
「保証……」
ベノアのことが思い浮かび、胸が痛んだ。いままさにラグナは転生を果たし、元気よく喋り倒しているものの、あのとき、あの瞬間は、絶望的というのも生温いくらいに苦しかったことを覚えている。転生竜である彼女の心配をする必要などないということがいくらわかっていても、そればかりはどうしようもなかった。転生を果たしたラグナと再会できたことで、ようやくすべてを飲み込めたのだ。
大切なものとの別離を割り切るのは、簡単なことではない。
「いまならば、わかる。あやつがなぜ、わしをおぬしの元にけしかけたのか。わしをおぬしの保証としたかったのか。あやつがなにものなのか」
「……知っているのか?」
「思い出したのじゃ、すべてな。じゃが、それは本人に聞くのが一番じゃ。そうじゃろう、アズマリア」
「え?」
セツナは、ラグナがあらぬ方向を見遣る様を目の当たりにして、きょとんとした。彼女がなにをいっているのか、さっぱり理解できなかった。
「まったく、いつから気づいていたんだ? ラグナシア=エルム・ドラース」
声は、ラグナの視線の先からした。集落の建物群、その片隅だ。
「これでは、隠れていたわたしが馬鹿みたいじゃないか」
セツナたちの死角ともいうべき建物の影から姿を見せたのは、紛れもなくアルと名付けた魔晶人形であり、その声音はアズマリア=アルテマックスのものだった。




