第二千八百七十話 力を求めて
「彼はいまも剣の道を歩んでおられるか?」
「ええ。もちろん」
当然のように告げたとき、セツナの脳裏には、地獄の風景が浮かんでいた。無数の剣が墓標のように突き立てられた地獄の光景。その中で、ルクスは笑っていた。笑いながら剣を振るい、セツナの前に立ちはだかったのだ。そしてそれは幻想であって、しかし、必ずしも夢幻とはいえないものだ。セツナが巡った地獄のすべてが夢の出来事ならば、セツナがいま、戦竜呼法を使えるはずもない。黒き矛とその眷属を使いこなせるわけもない。
地獄での試練は着実にセツナを成長させている。
精神面だけでなく、肉体的な意味でも、だ。
地獄は確かに存在し、そこにルクスはいるのだ。
そして、ルクスは、剣の道を歩み続けている。
「地獄で、ですが」
「地獄……」
トランは、セツナの言葉を反芻すると、訝しむこともなく微笑した。
「……それは楽しみですな」
「楽しみ?」
「なに、いずれわたしも地獄に堕ちる身なれば」
自嘲するでもなく告げるトランの表情には覚悟があった。散々ひとを殺してきたことに対するものだろう。そしてそれ故、地獄に堕ちるのだ、と、彼は考えている。だが、そこに嘆きはない。むしろ喜びさえ感じているように見えるのは、ルクスの話をしたからなのか、どうか。
「それなら、俺も同じですよ」
「ふむ……またひとつ、楽しみが増えましたな」
「確かに」
セツナも同調した。
「あなたや師と一緒なら、地獄も楽しそうだ」
ルクスとトランのいる地獄ならば、暇はしないだろう。そこにおそらくエスクが絡んでくるとなると、より楽しいことになるのは間違いない。“剣鬼”に“剣聖”、“剣魔”が揃うのだ。そこにセツナが入り込む余地があるのかといえば、難しいところだが、そこは努力するしかあるまい。
もっとも、それも先の話だ。
「いますぐ、というわけにはいきませんがね」
苦笑とともに木槍を振りかぶり、トランに向かって投げつける。
唯一の得物をみずから手放すという暴挙には、さすがのトランも虚を突かれたようだったが、反応が遅れることはなかった。両手の木剣で飛来する木槍の穂先を挟み込んで受け止めるという尋常ではない技量を見せつけ、木槍を中空に放り投げる。そして、眼前に落ちてきた木槍を蹴りつけると、木槍は矢のような速度でセツナに向かってきた。もっとも、そのときには、呪文を唱え終えている。
「武装召喚」
呪文の末尾となる四字が、セツナにとっての術式であり、武装召喚術のすべてだ。武装召喚師たちにしてみれば卑怯なことこの上ないそれがいまだどういう原理によるものなのかは不明だが、どうでもいいことだ。使えるならば使う、ただそれだけのことだったし、それで十分だった。
術式の完成とともにセツナの全身が光を放ち、その光の中から一対の短刀が出現する。切っ先から柄頭まで黒く塗り潰された二本一対の短刀エッジオブサースト。セツナは、その二本を左右それぞれの手で握り締めると、肥大する感覚の中、迫り来る木槍を蹴り上げると同時に踏み込み、飛び出した。木槍の下を潜り抜けるようにして、飛ぶ。
「ああー! 卑怯ですよお!」
「まったくだ」
「御大将、なんでまた……」
「セツナおまえ……」
「御主人様にはきっとなにかお考えが……」
外野の声がはっきりと耳に届くのも、エッジオブサーストを手にしているからだ。視覚、聴覚、触覚――ありとあらゆる感覚が肥大し、尖鋭化しており、先程までとはまったく異なる感覚がセツナを包み込んでいる。この戦場を支配しているような錯覚。万能感。だが、その感覚に身を委ねてはならない。その感覚を支配し、掌握し、制御することこそ、武装召喚師に求められる技量なのだ。
眼前、木剣が飛来する。それも太刀と小刀の二本、立て続けにだ。トランがセツナへの牽制として投げ放ってきたのだろう。セツナは、それら二本の木剣をエッジオブサーストで続け様に叩き落とすと、トランの姿が目の前から消えていることを目視で確認した。見上げる。彼は中空にいて、影になった顔面に両目が輝いていた。本来ならばありえないことだが。
「飽くまでもわたしに本気を出せと、そう仰りたいか」
「ああ!」
力強くうなずきながら、左手の短刀を空中のトランに投げつける。短刀は一瞬にしてトランへ肉薄したが、彼は空中で上体を反らすことでかわして見せた。その瞬間、セツナは、トランの背後を捉えている。エッジオブサーストの能力・座標置換だ。
二刀一対の短刀であるエッジオブサーストは、短刀同士の位置を入れ替えることができる。そして、その際、片方を手にしているものも巻き込むことこそ、この能力の真価というべきだろう。
が、トランの背中を捉えたのは一瞬であり、その直後には、彼がこちらを振り向いていた。足場もない中空で方向転換など本来ならばできるはずもない。しかし、実際にそうなったのだから、受け入れるしかなく、彼が繰り出してきた蹴りを左腕に受け止め、その凄まじい衝撃と痛みに呻きながら吹き飛ばされた。
(なんだ!?)
強烈な蹴りは、とても人間業とは想えない代物であり、その衝撃によって吹き飛ばされたセツナは、広場の外の木々の間に突っ込んでいた。木に激突しそうなところで座標置換を発動すると、着地したばかりのトランが背後にいる。一瞬身構えたが、諦める。
本気のトランとやり合うには、エッジオブサーストだけでは足りないような気がしたし、そうなれば、周囲に損害を出しかねない。
ここは“竜の庭”だ。“竜の庭”には“竜の庭”の法があり、秩序がある。その安寧に満ちた静寂を破るべきではないだろう。そんなことをすれば、ラングウィンを敵に回しかねない。
「本気の一端、いかがかな?」
トランが屈託もなく告げてくる。彼としてみれば、手加減の域を出ていないようだった。
「確かにこれじゃあ鍛錬にはなりそうにありませんな」
セツナは嘆息とともにエッジオブサーストを送還した。黒き矛を召喚していれば、本気のトランともまともにやり合えただろうし、むしろセツナのほうが上回れたかもしれないが、そんなことを試そうという気にもならない。
「エスク殿くらいですよ。いまのわたしと素でやり合えるのは」
「あいつは人間じゃないですか」
「ちょっとなにいってんですかねえ、人外代表が」
「だれが人外代表だ。俺は人間だよ」
「ははは、御冗談を」
「……まあいい」
馬鹿みたいな笑い声を上げるエスクを一瞥し、彼が心底楽しそうな様を見て、肩を竦める。彼は他人をからかっているときが一番楽しそうだった。
「それで、なんなんです? それ。竜の呼吸のさらなる深化とか、そういうことでもなさそうですが」
セツナはトランと向き直ると、彼の肉体に起きていた変化が収まっていることに気づいた。影の中でも輝いていた両目が元に戻り、威圧的な気配も静寂の空気に同化している。
「我々竜騎士は、契約を結んだ守護竜の力を用いることができるのです」
「……へえ」
「なんだよそれ! あんたの実力じゃねえじゃねえか! 金返せ!」
「おまえがいうな、おまえが」
セツナは呆れてものもいえなくなりそうになるのをなんとか堪えて、エスクに言い放った。エスクは、しかし、不服そうだった。
「竜騎士と守護竜は契約によって命をひとつとするもの。故にこれもまた、わたしの実力といえば、実力になるのですが」
「詭弁だー」
「あいつのいうことは気にしないでください。あいつも似たようなものですから」
「ええ、わかっていますとも」
トランは、むしろ同情的な表情を浮かべながら、いった。竜騎士たる彼には、エスクの置かれている境遇というのが理解できているのかもしれない。
それから、セツナは再び木槍を手に取り、トランとの鍛錬に励んだ。
肉体をいじめ抜き、鍛え抜くことは、決して無意味ではないのだ。




