第二千八百六十九話 三界の竜王(七)
「気楽にいってくれる」
ラムレシアが半ば呆れたのは、ラグナがセツナのこととなると甘いからに違いないが、そのことについて反論の余地はなかった。事実だからだ。ラグナは、セツナをだれよりも評価しているという自負があるが、それは主観以外のなにものでもない。冷静さを欠いた感情の集合体に過ぎないのだ。が、それを改めるつもりもない。
それが、愛というものだ、と、彼女は想う。
「ですが、ラグナの考えている通り、わたくしたちもセツナを信じるほかないのです」
ラングウィンが、静かに認めた。
神々の王たる獅子神皇を滅ぼすには、どうしたところで魔王の杖の力が必要不可欠だ。でなければ、かつて六将が聖皇を殺したときと同じ結果になるだろう。獅子神皇は、聖皇同様に世界に約束し、将来、復活を果たすに違いない。そしてそのときには、さらなる強大な力を持った存在となっているのではないか。
「故にわたくしたちは、セツナに力を貸しましょう。セツナとともに戦い、獅子神皇を滅ぼすために」
ラングウィンの決定にラグナとラムレシアは言葉もなくうなずき合った。
三界の竜王が顔を揃え、創世回帰が回避される運びとなったのは、これで二度目だ。
一度目はおよそ五百年前のこと。
そのときは、ひとりの人間の主張に耳を傾け、そこに希望を見出したがために創世回帰は見送られることとなった。ただし、その人間が諸族の戦いを収め、世界に平衡をもたらすことができなければ、破滅を回避する方法が見つからなければ、即座に創世回帰を行うという条件付きで、だ。
結果として、その人間ミエンダは、竜王たちが提示した条件を満たしたが、それは、竜王たちへの裏切りそのものでもあった。
つまりは、ラグナたちが見誤ったのだ。
ミエンダが力に溺れ、我を忘れるとは想いも寄らなかったのだ。そして、聖皇ミエンディアと名乗るようになった彼女の裏切りに遭い、竜王たちはその座から引きずり下ろされた。世界は改変され、なにもかもが変わり果てた。聖皇ミエンディアの望む世界の形へと、統一された。
しかし、それがすべて悪かったかといえば、どうか。
ラグナたちがこうして創世回帰を否定するような考えを抱くことができたのも、すべては、竜王の座から引きずり下ろされ、機能ではなく、個性を持った個体として確立したからではないか。自我を得、感情を獲得したとき、はじめて、本当の意味で世界を知ることができるようになった。天と地の狭間に息づく数多の命を感じ、その営みの尊さに目を向けられるようになったのも、それだ。以前の自分では考えられないような変化だった。
このおよそ五百年の放浪は、無意味ではなかった。
ラグナだけではなく、ラングウィンやラムレシアにとっても、そうだろう。
だからこそ、三界の竜王は、自分の意思によって機能であることを否定するという結論に至ったのだ。
でなければ、顔を揃えて早々に創世回帰を決定し、実行に移したはずだ。
だが、そうはならなかった。
変化。
三界の竜王という不変の機能に生じた変化は、聖皇にとって予期せぬものだったのか、どうか。
聖皇は、おそらく、六将が裏切り、自分を殺すことになるとは想定していなかったはずだ。故に数百年後のことを考え、三界の竜王の機能を封印したわけではあるまい。単純に創世回帰を回避することが目的であり、復活後のことなど考えてはいまい。だが、結果として、聖皇にとって喜ぶべき状況になっているのは、確かだ。もっとも、聖皇自身は復活を果たせず、この世を混乱させているのは聖皇の力の器なのだが。
(獅子神皇……か)
ラグナは、彼方を見遣った。世界を引き裂いた力の出所にこそ、獅子神皇はいるはずだ。拡散した破滅の力、その発生地点。“竜の庭”から遙か南西のその地こそ、決戦の地となるだろう。
獅子神皇レオンガンド・レイグナス=ガンディア。
ガンディア国王レオンガンド・レイ=ガンディアの肉体が、聖皇の力の器となり、故にこそ彼は聖皇の如く名乗っている。
レイグナス。
王の中の王として聖皇が掲げたその名は、由来をラグナシアとしている。
三界の竜王の中でミエンダの言葉に最初に耳を傾けたのがラグナであり、彼女ともっとも付き合いが長かったからだろう。
敬意の現れだ、とは、彼女自身がラグナに向かっていったことだ。
聖皇と変わり果て行く中、そう告げる彼女の姿は、いまもラグナの記憶に残っている。
ミエンディア・レイグナス=ワーグラーン。
ラグナが初めて興味を持った人間の娘は、聖皇という人間を超え、神をも超えた存在へと変わり果て、成り果てた。
そして世界を肯定するために生まれたはずのその力は、いまや世界を否定するために存在している。
もはやミエンダなる人間はいないが、もし彼女がいたとすれば、意識があったとすれば、どう想っただろうか。
嘆き哀しんだだろうか。
それとも、沈黙したか。
(詮無きことよな……)
ラグナは頭を振り、ラングウィンとラムレシアの話し合いに耳を傾けた。竜王たちは、今後の方針についての相談を既に始めており、ラグナは乗り遅れてしまっていた。
木剣の一閃が眼前を横切り、鋭い剣風が前髪を揺らした。太刀筋は凄まじいくらいに鋭角的だが、必ずしもそれ一辺倒ではない。むしろ一つの型に拘らず、捕らわれない、変幻自在の太刀筋であり、故にこそ厄介極まりなかった。
人間、戦い方には癖が出るものだ。
そしてそういった癖を見抜き、そこに付け入る隙を見出すことこそ、勝利への近道なのだ。だが、トラン=カルギリウスの戦い方には癖がなかった。変幻自在。ありとあらゆる状況に対応し、様々な変化を見せ、無数の太刀筋を見せる。どれが本来のトランの在り様なのかわからないし、たとえわかったとしても、そこに癖を見出すのは困難を極めることだろう。仮に癖を見抜けたとして、そこから変化を続けられれば、付け入る隙にもならない。
一方、セツナの戦い方には、癖がある。そしてその癖の隙を躊躇なく攻めてくるのがトランであり、一切の容赦がなかった。わずかでも反応が遅れれば、痛烈な一撃が叩き込まれ、地に倒れ伏す。
だというのにだ。
「以前にも増して鋭くなられた」
木剣を振り抜いたまま、トランはそんな風に褒め称えてくるものだから、セツナとしては憮然とするほかない。
「あなたがいうと、嫌味にしか聞こえないな」
「ふむ?」
「エスクを伸したんだ」
セツナがエスクを一瞥すると、彼は大木の張り出した根に腰掛け、こちらを見ていた。いまにも不満が噴出しそうな顔は、セツナの一言に反応したものだろう。
「俺はただの人間だからな」
それなのに食い下がれるのはおかしい、と、セツナはいいたかった。
エスクは、常人ではない。セツナが召喚武装も用いずエスクとやり合えば、十中八九、エスクが勝つだろう。戦竜呼法を用いても、埋めがたい力の差があるのだ。そんなエスクを圧倒できるトランに、セツナが食い下がれる事自体、おかしな話だった。
「ただの人間がここまでやれるはずもありますまい」
「それをそのままあなたに返すよ」
木槍を構え直せば、トランも木の太刀と木の小刀を構えた。右手の太刀を前に出し、左の小刀を庇うような構え。だが、それがトランの型というわけではない。というより、一定の型がないといったほうが正しいのかもしれない。構える度に型が違った。
何度も言うが、彼は変幻自在なのだ。
まさに“剣聖”と呼ぶに相応しい剣の達人ぶりといっても過言ではない。
「竜の呼吸法を使えるだけの人間が、エスクに敵うわけがない」
「……セツナ殿は、どこでそれを?」
「師に学んだんです」
「ルクス殿か」
トランが遠い目をして、つぶやいた。
ルクスは、トランとの共闘の中で戦竜呼法を体得したといい、その天才ぶりは、トランをも認めるところだったに違いない。




