第二百八十六話 魔軍
兵士の一言で、天幕の中も騒然となった。軍人たちはつぎつぎとテーブルを離れ、持ち場へと走っていく。ウルも仕方なしに腰を上げた。事情が事情だ。席を立たざるをえない。
皇魔。聖皇ミエンディアが神々を召喚した際についてきたという魔性の存在。この大陸を蝕む病根のようなものだといわれ、人類の天敵とさえいわれる化け物の総称であり、いくつかに類別されている。鉈のような爪を持つ化け物ブリーク、赤い肌の鬼レスベル、青い肌の鬼ベスベル、真紅の四足獣リョット、そして鋼鉄の体毛に覆われた馬のような化け物ブフマッツ。この世界の生物に似た外見を持つ種もいれば、まったく異なる形状をした種もおり、すべてを同類として認識するのは無理があるのだろうが。
しかし、すべての皇魔に共通しているのは、人間を敵視していることだ。戦闘能力を持たない人間が皇魔に遭遇すれば、十中八九殺されるとみて間違いなく、運良く殺されなかったとしても、それは皇魔がその人間の住処を襲うためだという。町や村が皇魔の大群に襲われ、壊滅したという事件は、枚挙に暇がない。街が城壁に囲われるようになった最大の原因がそれなのだ。皇魔の襲撃に対抗するには、小さな街ですら堅固な城塞と化すしかなかったのだ。その結果、街のひとつを攻略するのも大変になったものの、皇魔の襲撃によって街が壊滅するような事件は減少傾向にあるということだ。
「ウルさん、食事は後にしたほうが良さそうです」
「そのようですね。せっかくおふたりと楽しくお食事ができると思っていましたのに。残念ですわ」
「皇魔か……許せんな」
レノが気炎を吐く様を横目に見ながら、ウルは、奇妙な胸騒ぎを感じていた。この戦争が始まって以来、ずっと感じていたものが突如として目の前に現出したような、そんな感覚。だが、それがいったいなんなのか、彼女にも見当がつかない。
(なんなの?)
自問したところで答えなど出るはずもない。それはわかっている。だが、問わずにはいられないのも確かだった。奇妙な感覚だった。それが錯覚ならばまだいいのだ。ただの気のせいならば、なんの問題もない。しかし、胸の奥でのたうち回るような違和感の不気味さは、決して錯覚などではないのだ。
ロック、レノとともに天幕の外へ出ると、武装した兵士たちが、ウルたちの前方を駆け抜けていった。しかし、その数は決して多くはない。だれもが食事休憩中だったからだし、警戒に当たっていた兵士たちはとっくに最前列で防壁を構築していることだろう。
ロックとレノの会話によれば、休憩直前の物見の報告では、敵軍の影はおろか、皇魔の気配さえなかったらしい。警戒のために戦力を割く必要さえないくらい、北進軍の周辺にはなにもなかったといい、だからこそ、複数の天幕を張り、寛ぐだけの余裕があったのだ。それが裏目に出た、というべきか。いや、食事中に襲撃されたわけではないのだ。まだ、裏目に出てはいない。
物見の報告が届き、休憩中だった軍隊が慌ただしく動き出したところで、まだ攻撃を受けていない。皇魔の大群ならば容赦なしに襲ってくるものと思われたのだが。
「どうも様子がおかしい」
と、ウルに声をかけてきたのは、カイン=ヴィーヴルだった。さっきの天幕の中にはいなかったのだが、ウルを即座に見つけることができたということは、近場にいたのは間違いない。ロックとレノがぎょっとするのを尻目に、ウルは彼に半眼を投げかけた。カインの手には、召喚武装の手斧が握られていた。ふたりが吃驚するのも無理はない。
「あら、動けたの」
「体力の回復に努めていただけだ。体は動くさ」
「冗談よ。で、なにがおかしいの?」
問いながら、北進軍の置かれている状況を再確認する。マルウェールからファブルネイアへの街道の途中、道沿いに広い森が横たわっていた。北進軍はその森の周囲に大きく展開しており、馬車や軍馬の多くは森に隠されてはいるものの、周辺に設営された幾つもの天幕のおかげで、馬を隠した意味はほとんどないといってもよかった。ロックとレノが同じ天幕で食事を取ることになってしまったように、この休憩ではガンディア方面軍とログナー方面軍の垣根はなくなっていたというべきだろうか。実際のところはいろいろあるのだろうが。
警戒に当たっていたのは、ガンディア方面軍第二軍団であり、残りの二千人近くが昼食を満喫しようとしていた。当然、左眼将軍も食事中だったのだろうが、皇魔襲来の報告を聞いた彼はなにを思ったのだろうか。ふと、そんなことが気になった。
「皇魔が統率の取れた行動をしている。その上、進路を予測する限り、北進軍に用事があるわけではないらしい」
「皇魔のそういう行動っておかしなことなの?」
「めずらしいことではありますよ。彼の話が事実なら、ね」
「皇魔は集団行動こそ行いますが、隊列を組んだり、陣形を構築するといった行動を取ることは稀だといいます。しかし、なぜあなたがそれを?」
ロックがカインの言動を疑問に思うのも、レノがカイン自身に問いかけるのも、当然の成り行きなのだろう。武装召喚師の能力というのは、通常人には理解できないものだ。ウルでさえ、完全に把握しているわけではない。
武装召喚師は、召喚武装を手にすることによって通常以上の聴覚や視覚を得ることができるというのだ。彼が召喚武装・地竜父を握っているということから考えれば、彼の情報源は自身の五感に違いない。その感覚の精度がどれほどのものなのかは、ウルも把握しきれてはいない。彼が凄腕の武装召喚師だというのは、先の戦いでよくわかったものの、それだって、黒き矛に比べればたいしたことはないというのが彼の発言でもあった。
「まあ、見ているといい。じきに来る」
そういって、カインは手斧を掲げた。龍を模した手斧の斧頭が指し示したのは、北進軍の休憩地点の北側を横たわる街道だった。マルウェールからファブルネイア砦へ至る街道は、北進軍の進軍経路でもあった。北進軍の休憩地点からは離れているため、彼の指し示した通り、皇魔の群れが街道を進むだけならば戦闘になるということはなさそうではあったが、皇魔が人間の集団を見逃すだろうか。
ウルはカインの後ろに回りながら、街道の東側に視線を向けた。目を凝らすと、土煙が上がっている。なにかが迫ってきているのはだれの目にも明らかだ。ウルたちの前方に展開している兵士たちが騒いでいる。騒いでもどうにもならないのだが、遠方から迫り来る圧力に対して黙ってもいられないのだ。
「あれは……!」
「ブフマッツの群れだな」
ロックとレノが警戒感を強めたものの、彼らは武器を手にしているわけではなかった。休憩直前の物見の報告を信用していたに違いない。あるいは、ウルに気を使った可能性もある。女性を食事に誘うのだ。相応の気遣いはしてしかるべきだろう。それが敵国の領土内であるという事実を除けば、男として当然の判断かもしれなかった。
もっとも、本来ならふたりはとっくに武器を手にしているはずだったのだ。仮設食堂を出たのは、武器を取りに行くためだったからだ。カインが声をかけてさえ来なければ、武器を手に、ウルを護ろうとするふたりの頼もしくも滑稽な姿が見られたかもしれないと思うと、少しばかり残念な気分ではあった。
濛々たる土煙の向こう側には無数の影が浮かび上がり、馬蹄が轟き、大地が揺れた。物凄まじい数の皇魔が疾走してくるのがわかる。次第に北進軍休憩地点との距離も縮まってくるのだが、ウルにはどうすることもできない。相手は皇魔だ。支配の力が作用するものかどうか。いままで、試したこともなかった。そもそも、彼女が戦場に出たのはマルウェールが初めてだった。王宮の中での優雅で退屈な生活を強いられてきたのだ。皇魔を相手に能力を試す機会もなかった。
(そんな余裕はなさそうね)
ウルは、圧倒的な数の皇魔を目前に恐怖を感じずにはいられなかった。外法機関での数々の実験で感じた嫌悪や恐怖とは、種類の異なる恐怖だった。皇魔とは人間にしてみればただの破壊者だ。ガンディアの怪人である彼女にとっても、その感覚は変わらない。ただ闇雲に破壊と殺戮を撒き散らす腎外異形の化け物たち。ひとと同じ姿をした化け物たるウルとは相容れない存在に違いない。
不意にカインがこちらを一瞥した。
「怖いか?」
「……あなた、あの時みたいに壁でも作りなさいよ」
ウルは、仮面の奥に潜む男の目を見据えた。カインはこちらの様子を見てほくそ笑んでいるようだ。趣味が悪いと吐き捨てたい衝動に駆られたが、ぐっと我慢する。いまはそんなときではない。彼には武装召喚師として働いてもらわなければならない。人類の天敵は、すぐそこまで迫ってきているのだ。
だが、カインは動こうともしなかった。
「あれだけの数のブフマッツだ。たとえ土の壁を作っても破壊されるだけだ」
「だったら、炎の杖で焼き払えばいいじゃない」
「そんなことをする必要もないさ」
彼の確信めいた発言ほどウルを苛立たせるものはなかったが、かといって彼女になにができるわけでもない。一度支配を解き、自分の奴隷へと仕立てあげようかとも考えたが、やめた。解いた瞬間に惨殺されるのが目に見えている。この間だって殺されかけたのだ。彼はいま、レオンガンドの従順な走狗となっているが、それはウルの支配が強力だからに過ぎない。彼女が支配を緩めた瞬間、カインは悪魔のような存在へと立ち戻り、暴威の限りを尽くすだろう。
「ウルさん、彼の言うとおり、なんの心配もなさそうです」
ロックの言葉を聞くまでもなく、ウルもそれを認識していた。皇魔の群れが、休憩地点北部の街道を突き進んでいったのだ。北進軍には見向きもせずに、だ。
「だがあれはいったい……!」
レノが愕然とした理由は、ウルにも理解できた。いや、彼女自身、驚愕せざるを得なかった。
北進軍を黙殺するかのように街道を走り抜けていくブフマッツの群れ。ブフマッツとは、鋼鉄の軍馬とも呼ばれる皇魔だ。馬に似た外見に鋼鉄の体毛を持ち、鬣や尾が青白く燃えているというのがこの世の生物にはない特徴といえる。が、皆が驚いたのはそれが原因ではない。
化け物どもの背に、武装した人間が乗っていたからだ。
「グレイ=バルゼルグの軍勢だな」
カインがひとりごとのようにつぶやいた言葉を、ウルは聞き逃さなかった。