第二千八百六十七話 三界の竜王(五)
「わたくしは、本来であれば一顧だにせぬ、小さきものたちの声に耳を傾けてしまった。それがすべてのはじまり。わたくしの、ラングウィン=シルフェ・ドラースのはじまりなのです」
ラングウィンは、遠い、しかし竜王の誕生から今日に至るまでの歳月を考えれば、決して遠くはなく、むしろ近すぎるくらいに近い日の出来事を思い出すようにして、いう。その愛おしさに満ち溢れた声音は、彼女がかつて持ち合わせていなかった母性の現れのように思える。
「そのとき、ようやくわたくしは産声を上げたのだと、確信を以て断言できます。それまでに過ごした何十億の年月は、三界の竜王としての、機能としてのわたくしであり、そこに本当のわたくしはいなかったのでしょう。感情もなければ心もなく、自我などあろうはずもない。ただ黙々と世界を眺め、延命させるためだけに存在する機能。故に苦しむこともなく、哀しむこともない。あるのは、使命を果たさんとする意思のみ。いえ、それを意思と呼んでいいものかどうか」
銀衣の霊帝の独白、いや告白は、ラグナにとっても自分のことのように理解できるものであり、納得できるものだった。ラムレシアにも理解できるに違いない。三界の竜王であれば、同じことだ。
感情もなく、心もない、ただの機能であった三界の竜王は、その権限を封じられたことで立場を追われた。それにより自分を確立したというのは、やはり皮肉としか言い様がないのではないか。竜王の座に在り続ける限り、ラグナたちが本当の自分を見出すことなどなかったのだ。
「少なくともわたくしは、五百年前のあのときまで、自我と呼べるようなものはなかったといえるでしょう」
「そうじゃな。わしも同意見じゃ」
ラグナは、当然のようにうなずいた。が。
「は……」
「ラグナシア……」
ラムレシアは唖然とし、ラングウィンまでもが当惑を隠せないとでもいうような表情をした。無論、ラグナにとっては想像だにしない反応であり、彼女こそ仰天した。
「な、なんじゃ、おぬしら!? わしがなにか間違ったことをいっておるとでもいうのか!?」
「いやだって……」
「ラグナシア……自由気ままなあなたに自我がなかったなどとは、とても……」
「自由気ままも! ラグナシア=エルム・ドラースという機能の一部だった……ということじゃな」
「いやいや」
「そうでしょうか」
「そうじゃそうじゃそうに決まっておる。わしがわしらしくあることができるのは、セツナたちと出逢えたおかげなのじゃからな。それ以前のわしと、セツナと運命の出逢いを果たした後のわしを同じにしてくれるでないわ」
ラグナがまくし立てると、しばしの沈黙があった。その原初の静寂にも似た数十秒間、ラングウィンとラムレシアは互いに顔を見合わせたまま、なにか考え込むような素振りを見せていた。それもまた、ラグナにはまったく要領を得ない反応だ。
「まあ……そういうことにしておいてやろう」
「そうですね。そうしませんと、話が進みそうにありません」
呆れきった両者の態度には不満もあったし、不服ではあったが、そこは本題ではない。そこに拘っていては、ラングウィンのいうように話が進まないのだ。よって、彼女は鷹揚にうなずくのだ。
「うむうむ。よきにはからうがよいぞ」
「ますます自由気ままになっているだけな気もするが……それはいいのか」
「自由気ままといいますか、自分勝手といいますか」
「なんでもよいわ。わしらは既に互いのいいたいことがわかっておるのじゃ。ラングウィンよ」
「はい、ラグナシア」
「おぬしは、この五百年をこれまでの数十億年と比べるべくもなく崇高なものと想っておるのじゃろう?」
ラグナは、核心を突いて見せた。
「……わたくしは、先もいった通り、“竜の庭”に住むものたちが愛おしく、彼らを慈しむ自分がこの上なく好きなのです。それはもはや秩序でも法でもありません。個としての感情であり、本能に根ざすものといっても過言ではありません」
「うむうむ」
「もはや、彼らを……愛しい我が子らを消し去ることなど、できないのです」
ラングウィンの強い想いは、ラグナの心にも響くものがあった。それは、数十億年という悠久にも等しいときの中、生死を繰り返してきた転生竜であるところの三界の竜王ならばこそ、理解の出来る感情に違いない。
「それが三界の竜王にあるまじき判断だということは重々承知の上のこと。それでもわたくしは、このおよそ五百年に渡って築き上げた“竜の庭”と、そこに住む数多の子供たちの未来をこそ、護りたい……そう強く想っているのです」
「世界の未来ではなく、“竜の庭”の未来か」
「おぬしを責められはせぬ。わしとて同じようなものじゃ」
ラグナは、ラングウィンの目を見つめながら、いった。
「わしは、セツナたちが無事でありさえすればよい。世界の形が変わろうと、それでどれだけの命が失われようとな」
それこそ、創世回帰によってセツナたちが消え去らないというのであれば、即座に創世回帰を行うべきだと主張しただろう。だが、現実はそう甘くはない。聖皇の力という破滅的な存在を消し去るため、過去からの復讐とでもいうべきその力を消し去るためには、すべてを洗い流さなくてはならない。創世回帰を免れることが許されるのは、世界そのものと、三界の竜王だけなのだ。それ以外のすべては、一瞬にして消滅する。
例外はない。
ラグナが愛し恋い焦がれるセツナも、創世回帰の前では無力だ。泡の如く弾けて消え、後にはなにも残らない。残るものがあるとすれば、記憶だけだ。それも、三界の竜王にのみ刻まれる記憶に過ぎない。世界には、残らないのだ。
「暴論だな。だが、同意しよう。わたしも、創世回帰には反対だ。それによって我が父が愛したすべてが失われ、ファリアも失われるなど、到底認められない」
「よろしいのですか? その結果、この世界は破滅に向かっていくのですよ?」
「いいも悪いもないわい。創世回帰は、結局のところ、世界の破滅を先延ばしにしているだけのこと。それは、おぬしらもよくわかっておるはずじゃ」
「……そうだな」
「……ええ」
ラムレシアもラングウィンも、異論を挟まなかった。
世界は、永続するものではない。
永遠は、存在しない。
不老不滅の存在などありえず、なにもかもいずれ力尽き、消滅する。
そして、流転し、新たな始まりを迎えるのだ。
その真理の体現こそ、三界の竜王といっていい。
擬似的な不老不滅を作り出すことも不可能ではなかったはずの造物主たちは、どういうわけかラグナたち三界の竜王を不完全な存在として創造した。つまり、限りある命と朽ちゆく肉体を持つ存在として、だ。場合によっては人間のようなか弱い存在にさえ殺されることだってあり得るような、そんな不完全な存在。だが、その不完全さを補うようにして与えられたのが、転生の力だ。転生という機能というべきかもしれない。
それによって、死が終わりではなく、新たな始まりという意味を持ったのだが、それは世界にもいえることなのだ。
きっと、だが。
「わしらはただの延命装置に過ぎぬ。この世界の。イルス・ヴァレのな。それをいつまでも続けることになんの意味がある。とうにこの世界を見捨て、見離した連中に義理立てする必要など、どこにあるというのじゃ」
「まったく……ラグナシアのいうとおりだな」
「その通りです。もはや行方も知れぬ創り主に義理立てし、いまある世界を洗い流すくらいならば、いっそのこと……」
「待て待て。世界が滅びるを座して待つなど、わしは許さぬぞ」
ラグナは、ラングウィンの不穏な口調に、慌てて割って入った。
「ラグナシア……では、どうするというのです?」
「立ち向かうに決まっておろう」
「立ち向かう……」
「やはり、そうなるな」
「じゃろう? わしにはセツナがおる。セツナは、魔王の杖の使い手じゃぞ。百万世界の魔王に選ばれたあやつならば、聖皇の力を討ち払うことくらい、できぬわけがなかろう」
ラグナは大見得を切って断言した。
確信ならば、あるのだ。
なぜならば、ラグナがただ一人認めた人間がセツナだからだ。




