第二千八百六十三話 三界の竜王(一)
東ヴァシュタリア大陸と呼ばれる大地を見て思い出すのは、かつての世界の有り様だ。
聖皇ミエンディア・レイグナス=ワーグラーンと名乗った人間は、異世界より召喚した神々の力を結び、その絶大極まる力によって世界をひとつにした。世界を統一し、ひとの意思を統一し、種族をも統一することで、争いの火種を消し去ろうとしたのだ。それにより、三界の竜王が創世回帰を回避しようとし、実際に成し遂げたのだから、聖皇の為しことは正しかった、といっていいのかどうか。
もっとも、ラグナの脳裏に浮かんだ世界というのは、聖皇によってひとつの大地に圧縮され、統一される前の世界であり、いくつもの大陸と無数の島々、広大な海からなる世界であり、なぜそんなことを思い出したかといえば、崩壊した世界の有り様がわずかにも似ていたからにほかならない。
世界は、崩壊した。
セツナたちは、その絶望的な天変地異を“大破壊”と呼んでいる。
それは、ラグナが転生を待ち、力を集めている間の出来事だった。
聖皇によって大陸ひとつとなった世界には、三大勢力と呼ばれるものたちがいた。ヴァシュタリア共同体、神聖ディール王国、ザイオン帝国という三つの大勢力は、セツナたちが生活していた大陸小国家群を包囲するように存在しながら、数百年の長きに渡って手出しさえしてこなかった。三大勢力の戦力をもってすれば、小国家群を攻め滅ぼすことなど容易だというのにだ。それは、小国家群に手を出したが最後、他の勢力につけ込まれることになりかねないからであり、故に均衡が保たれていたのだと思われていた。
だが、実際にはそうではなかった。
三大勢力は、いずれも聖皇に召喚された神々によって作られた組織であり、神々の手足にほかならなかったというのだ。
絶大な力を持った二大神の一柱エベルが神聖ディール王国を、ナリアがザイオン帝国を築き、残る数多の神々が力を合わせ、至高神ヴァシュタラとしてヴァシュタリア共同体を作り上げた。それはすべて、彼らが悲願を達成するためであり、その悲願とは、在るべき世界への帰還だった。
神々は、聖皇によって召喚された存在だ。
異世界から召喚されたものは、通常、召喚したものにしか元の世界に送り返すことができない。
つまり、聖皇ミエンディアの死は、神々をイルス・ヴァレに閉じ込める楔となり、数多の皇神は、本来在るべき世界への帰還を望みながら果たせないまま、異世界に在り続けなければならないという地獄のような苦しみの中にいなければならなくなったのだ。
だが、彼らにはひとつの希望があった。
それは、聖皇ミエンディアがこの世界と結んだ復活の約束だ。
約束は呪いとなって世界に染みこみ、大陸は、呪文を唱え続けた。聖皇の死から五百年。大陸に流れた数多の血と死が魔力となり呪文となり、術式を構築する。あとは、聖皇が復活を果たすだろう“約束の地”を探すだけだった。神々は、他の神よりも早く“約束の地”を手に入れ、自分だけでも元の世界に還ることを望んだ。なぜならば、聖皇は復活を果たせば、世界を滅ぼすという約束もまた、紡いでいたからだ。約束によって復活を果たすのであれば、約束によって世界を滅ぼすのは間違いない。その滅びの対象に神々が入っていないとも限らない以上、神々にしてみれば、復活したばかりの聖皇に接触し、元の世界に送還してもらうことに躍起にならざるを得なかったのだ。
だが、神々の目論見は失敗した。
セツナによれば、クオン=カミヤ率いる《白き盾》やベノアガルドの騎士たちが犠牲となり、聖皇復活の儀式は防がれた、という。
その結果、行き場を失った聖皇の力は世界を蹂躙し、大陸をばらばらに引き裂いた。世界は打ち砕かれ、いまや懐かしい世界にも似た光景を作り出すに至った。
そして、ラグナは転生を成し遂げた。
世界を蹂躙する膨大な力、その大半を我が物とすることで、ラグナはみずからの肉体をより強大なものとして作り上げ、転生を果たしたのだ。
それもこれも、いずれ再会できるだろうセツナのためだった。
セツナの力になりたいということもあれば、セツナに見つかりやすくしたかったというのもある。
それらが相俟って、ラグナは自分の体をとにかく巨大化させた。そのためだけに莫大な量の力を吸い、結果的に世界にこれ以上の損害を出さずに済んだらしいことを褒められたのは、こそばゆいとしかいいようがないが。ラグナにしてみれば、世界の惨状よりもセツナとの再会のほうが重要であり、セツナさえ無事ならば、あとはどうでもいいとさえ考えている節があった。
そのセツナが無事ではないことがわかってしまったから、夢に溺れたのだが。
それもいまや醒めた。
淡い夢よりも、確かな現実のほうが重要なのだ。
現実のセツナは夢よりも優しく、暖かかった。が、少し物足りないと想ってしまうのは、やはり、この巨体のせいだろう。これでは、セツナと戯れることも難しい。なんとかしなければならないが、それはいま考えることではない。
「ラグナシア。いかがですか?」
「……そうじゃな」
ラングウィンに問われ、ラグナは目線を銀衣の霊帝に向けた。
白銀の山脈が如き地竜は、その丸みを帯びた頭部を持ち上げて、こちらを仰ぎ見ている。ラングウィンは数千年単位で転生を行っていないために巨体なのだが、ラグナのほうが遙かに巨大だった。それは致し方のないことだ。世界を瀕死に追いかねないほどの力の半分を吸い、転生と巨大化に注いだのだ。それでも力が有り余り、充ち満ちているのだから、聖皇の力がどれほど暴れ狂ったのかは想像に容易い。
それはそれとして、ラングウィンの巨躯も数千年以上に渡って力を貯めてきただけあって巨大であり、竜王と呼ぶに相応しいものだ。白銀の鱗は陽光を反射して美しく輝き、柔らかなまなざしには慈しみが満ちている。いつもそうだった。ラングウィンは、だれより優しく、故にこそ厳粛に秩序を築き上げるのだ。
「確かにラングウィン、ぬしのいう通りじゃ。看過できぬな」
「そうでしょう」
ラングウィンは満足げにうなずくと、視線を巡らせる。その視線の先には、ラムレシアが浮かんでいる。ラングウィンと比べても極めて小さなラムレシアは、ラグナと比較すると、豆粒ほどの大きさもなかった。人間を強引に竜王に転生させた存在であり、人間の肉体を元にしているのだから、当然といえば当然だろう。かつてユフィーリア=サーラインと名乗った人間の娘と蒼衣の狂王と呼ばれた竜王ラムレスの力と魂がひとつになった存在、それがラムレシア=ユーファ・ドラースだ。
なぜそのようなことが起きたのかについては、彼女自身から聞いている。
故に彼女が獅子神皇とその手のものに激しい怒りを抱いていることも。
「ラムレシア、あなたはどうです?」
「わたしも同意だ。捨て置けぬ」
ラムレシアは、大陸の東を見遣り、いった。
“竜の庭”と呼ばれる緑に覆われた大地、その東西を分かつようにして大河が流れている。が、その大河は元々存在したものではなく、つい先頃、獅子神皇の力によって大地が引き裂かれたことで生まれたものだった。当然、その上に住んでいたものたちは、破壊的な力に飲まれ、命を落としている。
膨大な死が、天地の狭間に満ちている。
怨嗟の叫びが渦を巻き、呪詛の奔流が駆け巡っている。
まるで世界の滅びを謳うように。
まるで、この世の終わりを望むように。




