第二千八百六十話 竜騎士(二)
「トラン……“剣聖”トラン=カルギリウスか」
セツナは、その名を口にして、懐かしさの余り目を細めた。“剣聖”トラン=カルギリウスの名を聞き、その戦いぶりを知ったのは、いまや遠い過去の出来事のように思える。実際、数年前のことではあるのだが、この激動の日々は、もっと遠い、それこそ遙か彼方の出来事にしてしまっていた。
“剣聖”トラン=カルギリウス。
“剣鬼”ルクス=ヴェイン、“剣魔”エスク=ソーマとともに世界三剣豪のひとりに数えられる人物だが、実力においては彼が突出しているという話だった。剣豪の定義が生まれたのは、トランの凄まじい戦いぶりからであり、トランが剣豪として名を馳せ、“剣聖”として別格に扱われるようになったからこそ、ルクスが“剣鬼”と謳われ、エスクが“剣魔”と恐れられるようになったらしい。実際問題、トランの実力は頭抜けていて、かつて、マルディア騒乱で敵対した際には、ルクスとエスクのふたりを相手に戦い抜き、負けなかったというのだから、凄まじい。
セツナ自身は、直接交戦したわけではないが、彼の実力そのものに疑いを持たなかった。伝説的な逸話の数々だけでも素晴らしいものだが、それ以上に彼の剣の師であるところのルクスとエスクが直接戦い、その実力を高く評価していることからも疑いようがなかったのだ。
トランには特別な技能があった。
戦竜呼法だ。
竜属独特の呼吸法を人体で再現したそれは、人間の潜在能力を解放させるものであり、常人を超人に変える技術だった。
かつて戦闘の中でトランからルクスが盗み取ったそれは、セツナもまた、ルクスから盗み取っている。
トラン=カルギリウス。見た目には、四十代後半といったところであり、以前と印象が変わらない。だからこそ、すぐに記憶が呼び起こされたのだろう。もし、数年の間に容姿が激変するようなことがあれば、わからなかったかもしれない。いかにも動きやすそうな軽装で、両手にそれぞれ木剣を持っている。二刀流の使い手であることは有名な話だ。
そして、彼の後方には、妙齢の美女が二名、控えていた。名は確かアニャンとクユンだったか。いずれもトランの弟子であるとともに武装召喚師だった。見た目には二十代半ばから後半くらいだが、実年齢は不明だ。ふたりとも、トランに負けず劣らずの動きやすそうな格好をしていた。
「そうなのでございます。シーラ様、エスク様、エリルアルム様に皆様方は、御主人様が眠られている間中、ずっとトラン様にしごかれておられたのでございます!」
レムのにこやかな報告に対し、真っ先に反応したのは、その瞬間まで地に倒れ伏していたシーラだ。起き上がり、叫ぶ。
「楽しそうにいうなよ!」
「そうだぜ、レムちゃん。こっちはちっとも楽しくないっての!」
「楽しくはないが……ためにはなっていると想う」
シーラ、エスクとは違い、歯を食いしばるようにしていってきたのは、エリルアルムだ。エリルアルムの騎士たちを含めた全員が全員、木剣や木槍を手にしているところをみれば、レムのいうとおりトランにしごかれ、徹底的にやられたのだろう。
「想いたいの間違いっしょ、エリルアルム殿」
「む……」
「確かに。いまの有り様では、ためになるどころか、なんの意味もありはせぬな」
低い声音で告げてきたのは、トランだ。彼の冷ややかなまなざしには、一切の情けがない。凍てつくような、氷のようなまなざしとでもいうべきか。彼の冷厳さは、以前にも増して研ぎ澄まされているような気がした。
「ぐむ……」
エリルアルムが口を噤むと、エスクが肩を竦めた。
「ほら」
「ほらじゃねえ。だったらなんのためにこんなくたくたになってんだよ」
「そりゃあれだ、御大将に格好つけるため?」
「格好つくかよこんちくしょー」
「いやいや、でも、まあ、これから御大将がシーラ殿を介抱してくれるでしょうさ」
「はあ!? そそそそそそんなつもりはねえって!?」
「まーたまたまた、格好つけちゃってえ」
「なにがだ!?」
エスクとシーラの口論を尻目に、セツナは足下に転がっていた木剣の端を足の爪先で踏みつけ、空中に跳ね上げた。そしてその木剣を手に取って見せる。軽く振り回すと、黒き矛などよりも遙かに軽く感じた。
「……要するに“剣聖”殿に鍛錬をつけてもらおうとしたらぼこぼこにされたってことか」
「ご覧の通りです」
エリルアルムの申し訳なさそうな表情に多少なりとも胸が痛むのは、常人がトランに勝てるわけがないことを知っているからだ。常人。トランにしごかれていた連中では、エスクを除く全員がそうだ。シーラもエリルアルムも、エトセアの騎士たちも、召喚武装を手にしていなければ、鍛え上げた肉体を持つ常人に過ぎない。鍛え上げた肉体を持ち、その上で戦竜呼法を扱えるトランに敵うわけもない。
では、エスクは、どうか。
彼は、常人ではない。
ふたつの召喚武装を体内に埋め込まれた彼は、常に召喚武装の副作用を受けている状態といっても過言ではないはずなのだ。なのに、彼は地面に這いつくばっている。
「エスクがいてなんでぼろ負けなんだか」
「いやだって、あれ、ずるい」
「おまえがいうなよ、人間凶器が」
「ひでえ言いざま」
「本当のことだろーが」
エスクが仰向けにぶっ倒れると、シーラがこっそりと嘲笑った。さっきまでからかわれていた反撃だろう。かつての犬猿の仲がいまでは軽口までたたき合える間柄になったのは、決して悪いことではない。むしろ喜ばしいことであり、セツナは思わず口元がほころぶのを認めた。
そして、エスクたちの前に進むと、トランと向かい合う形になった。その瞬間、トランの冷厳なるまなざしが和らいだのは気のせいではないだろう。
「セツナ殿……ご健勝でなによりですな」
「“剣聖”殿こそ、健康そのもののようで」
トランの以前と変わらぬ容貌からも、彼の健康ぶりが窺い知れる。健康でなければ、そういうわけにはいかないだろう。つまり、“大破壊”以前も以降も人間らしい生活が送れているということだ。それが“竜の庭”にいたからというのであれば、納得も行くというものだったし、彼が戦竜呼法を編み出したのも理解できる。“竜の庭”の竜属は、ラングウィンの影響により、人間に対しても寛容であり、人間の鍛錬に付き合ったとしても不思議ではない。
「そうなのよぉ。先生ったらいつまでたっても元気もりもりで、困っちゃってえ」
「他人のことをいえた話か」
「クユンちゃんも元気じゃない?」
「……はあ」
アニャンの放つ独特の空気感には敵う気がしないとでもいうように、クユンが嘆息した。
「……なんつーか、相変わらずつかみ所がないっていうか」
「そうなんすよ、つかみ所がないんすよ。いや、でっかいんですけど」
「エスク、あんたねえ」
エスクのくだらない冗談に対し、物凄い勢いで割り込んできたのは、ネミアだ。彼女はトランとの鍛錬を傍で見守っていたのだろう。
「ああ、冗談だってば、ネミア。そう怖い顔しない。美人が台無しだ」
「まったく、あんたはいつもそうやって……」
などといいながら、エスクに褒められてまんざらでもないネミアの反応は、いつも通りといえばいつも通りだ。ネミアがエスクに惚れ込んでいるものだから、どうしようもない。かといって、エスクがネミアを愛していないわけではなく、つまりは相思相愛であり、熱烈に愛し合っているのだから、なにもいうことはなかった。
「……もうなにがなにやらだ」
セツナは、肩を竦めると、トランに視線を戻した。
“剣聖”は、ただ、静かに木剣をぶら下げている。




