第二千八百五十九話 竜騎士(一)
“竜の庭”が、銀衣の霊帝ラングウィン=シルフェ・ドラースが統治する領域であることは既に知っていることだ。そこには竜属のみならず、人間、皇魔、多種多様な動植物が生活しているが、完全な共存共栄とは決して言い切れないものであるらしい。というのも、“竜の庭”の特権階級といっても遜色のない竜属はともかくとして、人間と獰猛な獣が同じ空間で生活することは難しく、それはまた人間と皇魔にもいえた話だからだ。
およそ五百年前の召喚以来、人間と皇魔は血で血を洗う歴史を積み重ねてきた。人間には人間の、皇魔には皇魔の言い分があり、正義があり、理屈がある。そしてそれは、そう簡単に許し合い、認め合い、わかり合えるものではないのだ。
リョハンとアガタラのウィレドが協力関係を結べたのは、極めて特殊な状況が積み重なったおかげといえる。リョハンが人界に於ける異端であったこと、アガタラのウィレドが元々争いを嫌い、隠れ住んでいたこと、そして互いに理性的に話し合う場を設けられたこと。様々な条件が重なってはじめて、両者は協力関係を結ぶに至ったのだ。
本来、人間と皇魔が簡単に手を結ぶことなどできるわけもない。
人間には人間の、獣には獣の、皇魔には皇魔の暮らしがあり、生き方がある。
いずれもがラングウィンの庇護下にあって、その加護を享受し、銀衣の霊帝を神の如く、あるいは慈母の如く崇め奉っていて、ラングウィンが声を上げれば、人間も獣も皇魔も一堂に会し、そのときばかりは互いの反目も忘れ、協力し合うというが、常にはそういうわけにはいかないのだ。ラングウィンは、大いなる慈しみと深い愛でもってすべてを受け入れ、あらゆるものを抱きしめるが、故にこそ、“竜の庭”に住むものたちになにかを強制しようとはしないのだ。ただ、同じ“竜の庭”の住民同士、諍いを起こさないという原則だけを設け、その原則を護るのであれば、それで十分という考えの持ち主だという。
そのため、人間は人間だけの集落で、皇魔は皇魔だけの集落で暮らすようになり、動物たちも広大な“竜の庭”の各地に隠れ住んだ。
セツナが運び込まれた人間の集落もそのひとつだ。
人間の人間による人間のための生活環境が整えられた集落であり、小さな街そのものだった。木造や石造の家屋が建ち並び、往来を歩くひとびとがいて、活気があった。活気。現世に舞い戻って以来、このように活気に溢れた町並みを見たことがあるだろうか。どのような都市であっても、たとえ活気があったとしても、どこかに影があり、闇があった。
それもそのはずだ。
“大破壊”がすべてを打ち砕き、世界は絶望に包まれた。滅びの影が忍び寄り、人間が怪物と化す不治の病が蔓延しているのだ。どこを見ても救いはなく、どれだけ活気で装おうとも隠しきれないものがある。ベノアでも、アレウテラスでも、リョハンでも、帝国でも、どこでもそうだった。どこのひとびともいまを精一杯に生きていくことしかできないのだ。
“竜の庭”は、違う。
そこには確かな安らぎがあり、健やかな活気があった。だれもが死や滅びの影に怯えることなく、和気藹々とした日常を謳歌している。
壁も、なかった。
「そういや、この集落には壁がないんだな」
「それは当然でございますよ、御主人様」
レムが得意げに説明してくれたところによると、人間の集落は皇魔から身を守るため、堅牢な城壁で囲われていなければならないという常識は、“竜の庭”には存在しないという。“竜の庭”においては人間も皇魔も竜王の庇護下にあるという点ではまったく同じ立ち位置であり、その間に争いが発生しようものならば、竜属が全力で阻止し、互いが手痛い代価を払うことになるのだ。そもそも、人間と皇魔が“竜の庭”で生活するためには、ラングウィンに対し、それぞれに対し、害をもたらさないという約束を交わさなければならず、その約束を破ったものは、どのような理由があれ、“竜の庭”を立ち去らなければならなかった。
実際、長い歴史の中で、ラングウィンとの約束を破り、“竜の庭”を退去させられたものは掃いて捨てるほどにいるという。そんな歴史の積み重ねが、いまや人間と皇魔の共存を可能にしており、人間も壁に囲われない暮らしをすることができているのだ。
「共存というには……まあ、あれだが」
「中には本当に共存している集落もあるそうですが」
「そうなのか?」
「実際に目にしたわけではございませんので、なんともいえませんけれど」
レムがセツナを先導しながらいった。昼過ぎのことだ。リョハンより余程北方だというのに気温は低くなく、むしろ暖かかった。分厚い寝間着や毛布は、夜が冷えるからであり、日中の気温は、むしろ防寒着など不要な暖かさだった。それこそ“竜の庭”が地上の楽園たる所以だろう。
“竜の庭”は、ラングウィンの強大な力によって護られており、その力が自然の摂理さえねじ曲げ、極寒の地を常春の楽園に変えてしまっているのだ。故にこそ人間も皇魔も動植物も、だれもかれもが彼女を慕い、敬い、尊崇するのだろう。ラングウィンのお膝元にいる限り、この北の大地にあって冬の寒さに凍える心配もなければ、突如、猛暑に焦がれることもない。夜が寒いのだけが欠点といえば欠点のようだが、それも対策さえしておけばなんの問題もないだろう。
まさに楽園なのだ。
ちなみに意識を失ったまま一向に起きる気配のないセツナがこの集落に運び込まれたのは、案の定、ファリアたちがウルクナクト号を運用するためだった。ファリアたちは、ラングウィンに頼まれ、破壊された地域を見て回ることになったのだ。その際、セツナを乗せたまま飛び回っても問題はないはずなのだが、ファリアたちが気を利かせてくれたということだった。
そして、ラグナはといえば、ラムレシア、ラングウィンとともに三界の竜王として話し合っている最中だということであり、ラングウィンはどうやら、そのためにラグナを一刻も早く覚醒させたかったようだ。実際、自力でラグナを覚醒させるべく奮闘したようだし、それが不可能とわかるやいなや、ラグナ覚醒の切り札としてセツナに接触し、セツナに頼んでいる。セツナが断るはずもないことを理解した上で、だ。そしてラグナは覚醒し、三界の竜王の揃い踏みとなったのだ。
世界の危機に三界の竜王が勢揃いの話し合いとなれば、嫌な予感しかしないが、ラグナに関してはなんの心配もしていない。あれだけ再会を喜んでくれた彼女が、それを無下にするような選択を取るとは想いがたい。
危惧するべきは、ラングウィンとラムレシアの選択であり、対立の可能性だ。
ラグナは、セツナの味方をしてくれるだろうが、ラムレシアは、どうか。ラングウィンは――。
そんなことを考えていると、レムが足を止めた。
「つきましたよ、御主人様」
「ついたって……どこにだよ」
昼食後、セツナがレムたちに連れ出された理由は聞いていなかった。ただ、連れ出されるままに宿を出て、集落を見回しながらここに至っている。そこは集落の外れであり、緑豊かな森の真っ只中に切り開かれた集落の中でも特になにもない一角だった。つまり、広場のような空間であり、そこには見知った顔がいた。
シーラとエスク、エリルアルムに銀蒼天馬騎士団の騎士たちだ。彼らは皆、地面に這いつくばりながら、口惜しげに前方を見ている。その視線の先には、三人の人間がいた。
「って、あれは」
セツナが思わず声を上げたのは、その人間が知った顔だったからだ。
“剣聖”トラン=カルギリウス。




