第二百八十五話 魔女と戯れを
九月二十一日。
鉛色の空が頭上を覆う中、北進軍は昼食のために休憩を取っていた。マルウェールを出発した北進軍が目指すのは、ファブルネイア砦である。龍府を取り囲む五方防護陣の一角を担うこの砦は、龍府の南東に位置し、マルウェールからはやや南西に進む必要があったが、整備された街道のおかげで行軍に問題が生じるようなことはなかった。
早朝から駆け通し、ということでもない。歩兵に合わせた進軍速度だったし、なにより目的地まで急ぐ必要性もほとんどない。素早く目的地に到着できたとしても、即座に攻撃に移るという話でもないのだ。五方防護陣攻略には、他の部隊との連携が不可欠だということであり、そのための連絡もまた重要だった。
とはいえ、ザルワーンの北東を進む北進軍と、中央部を突き進む中央軍、西部をひた走る西進軍が連携を取るには日数が掛かり過ぎるのではないかという懸念もあった。五方防護陣の攻略を優先するあまり、ほかが疎かになり、結果的に手痛い反撃を食らっては意味がないのだ。
「だったら、黒き矛でも突っ込ませておけばいいのに……そう思いません?」
「そ、そうですね、《獅子の尾》隊長ならひとりでも突破できそうですよね!」
ウルがにこやかに尋ねると、正面の青年軍団長は、あからさまに緊張しているのがわかるような上ずった声で答えてきた。その表情や態度は、ウルの目にも可愛らしく思える。まるで小動物のようだと思わないではないが、捕食者を前に恐怖しているという風ではない。女性とのふたりきりの食事に慣れていないのだろう。いや、女性の扱いそのものに慣れていないのだ。彼はガンディア方面軍の軍団長では最も年若いという。
ロック=フォックス。ガンディア軍の期待の星といってもいい人物だ。二十代前半で軍団長に抜擢された彼は、部下からの信望も厚く、先の戦いではエイス=カザーンの首級を上げるという快挙を成し遂げたということでも知られている。若く、有望な彼に近寄ろうとする女は多いだろう。容姿も整っている。これで女が放っておくはずがないのだが、彼には浮ついた話はないという。
ウルが彼に近づいたのはそういう評判が耳に届いてきたからではなく、デイオン=ホークロウやシギル=クロッターよりも与し易いと判断したからにほかならない。レノ=ギルバースを誘惑したのも、同じ理由だ。持て余した暇を潰すには、それくらいの相手でいい。
北進軍の昼食は、妙に豪華だった。
というのも、ロック=フォックス率いる第三軍団には元料理人という変わった前歴の持ち主がおり、その人物が中心となって炊き出し部隊が結成されているからだ。ナグラシアからマルウェールまでの間、北進軍の士気が下がらなかったのは、彼ら炊き出し部隊の活躍によるところが大きいともいえる。炊き出し部隊の手作り料理の数々は、宮廷料理に慣れたウルの舌もうならせるほどのものであり、兵士たちにとってはこれ以上ないくらいの褒美だったかもしれない。
北進軍を構成するガンディア人とログナー人が、敵愾心をぶつけあったりしなかったことのひとつの理由はそこにあるのかもしれない。ナグラシアからマルウェールまでの行軍中、何度となく行われた食事休憩は、少しずつだが確実に、両者の溝を埋めていっていたのだろう。
出発当初は目を合わせることすら嫌っていた兵士たちが、同じ料理に舌鼓を打っている姿を見るのは、なんともおかしなものだ。もっとも、今となっては同じ国の人間だ。いつまでもいがみ合っているよりはいいはずだ。
(ザルワーンがガンディアのものになったとき、わたしは彼らをどう思うのかしらね)
ロックの瞳を覗きこみながらも、ウルの心の奥底には、キースの死が疼いている。彼女がたったひとり愛した男は、ザルワーンが動いたがために死ぬしかなかった。きみつをまもるためにはそうするしかなかったのだ。ザルワーンが放っておいてくれたら、などとは思うまい。彼らも生きることに必死だ。それは理解できる。だれもが生き残るために最善を尽くそうとしている。その結果、彼と彼の半身が死んだだけのことだ。それだけのことなのだ。
(それだけのこと……)
思い込もうとしたわけではない。事実を事実と認識したところで、割り切れないのが感情というものだ。怒りと悲しみ、憎悪や絶望が心の中で激流のように渦巻いている。それを制御しようにも、人形を操るようにはいかないのが困りものだった。
他人の心を支配するのは容易い。しかし、そんな魔女ですら自分の感情を制することができないというのは皮肉というべきなのかどうか。
そんなことをぼんやりと考えていると、目の前の青年軍団長が表情を曇らせていることに気づく。彼は、おずおずと口を開いた。
「どうされました? やっぱり、ぼくとの食事はつまらない……ですか?」
「そんなことはありませんわ。ザルワーンに入って以来、考え事をすることが多くなってしまって……せっかく誘っていただいたのに。これでは楽しい食事が台無しですわね」
悲しげな表情を作りながら彼の言葉を否定する。それだけでロック=フォックスの表情は明るさを取り戻すのだからわかりやすいものだ。もっとも、ウルの発言も嘘ではないのだ。つまらなければ彼の誘いに応じるはずもない。暇潰しとはいえ、つまらないことに時間を取られるのは、彼女にとっても苦痛にしかならない。
昼食休憩のためだけに用意された天幕の中、ふたりは仮設の食卓を挟んでいる。食卓の上には炊き出し部隊の手料理が並んでいる。スープに山盛りのサラダがあり、肉類も豊富だ。パンまで焼きたてなのには驚きを禁じ得ない。
食卓と椅子は、天幕の中にいくつもあり、どこを見てもむさ苦しい軍人ばかりだ。ウルは紅一点といってもいいような存在だったが、奇異な目を向けられることは少なかった。この天幕の中に入ってこられるような人間といえば一定以上の階級の軍人であり、一般の兵士が立ち入れる空間ではないからだろうか。食事休憩中だというのに、妙にぴりぴりとした空気が漂っている。とはいえ、だれもが黙々と食事をしているわけではない。大声で話している連中もいれば、こちらの様子を面白そうに見ているものもいないではない。
好奇の視線に曝されるなど、ウルにとって日常茶飯事といってもよかった。ガンディオンの獅子王宮に住んでいる間、そういう視線を感じない日はないといってもよかったのだ。もちろん、それも最初のうちだけで、次第に、だれもが彼女を見ることすら恐れるようになっていった。結果、王宮での暮らしほど退屈なものはなく、キースに甘える時間が増えた。自然の成り行きだった。
愛情とは、そのようにして育まれるものなのかもしれない。
「そうだったのですか。ぼくはてっきり、嫌われたのかと……」
「嫌いな方と食事をするほど暇人ではありませんよ」
パンをちぎりながら笑顔を返すと、彼は顔を急激に赤くした。いかにも子供っぽい反応ではあったが、そこが彼の良い所だとウルは認識していた。こちらの一挙手一投足に注目し、いちいちわかりやすいくらいの反応をしてくれる。彼ほど手玉に取りやすい人間はいない。彼は支配する必要もなく、彼女のために動いてくれるのではないか。確信を抱くには早過ぎるが、時間をかけて関係を築いていけば、彼を虜にすることくらいはできそうだ。もっとも、それまでウルが彼に飽きなければ、の話だが。
「そ、そうですよね!」
あまつさえ目を輝かせる青年の純真さに多少心を痛めながらも、ウルは笑みを絶やさなかった。と。
「失礼だが、こちらの席は空いているのかな?」
そういってウルたちに声をかけてきたのは、ログナー方面軍第二軍団長レノ=ギルバースだった。群青の軍服を着込んだ男は、ウルに対しては微笑を浮かべたものの、ロックには敵愾心に満ちた視線を送ったように見えた。
「え、ええ……空いていますけど……」
ロックが不承不承といった風に、彼の問に答える。ロックの言うとおり、ウルたちが囲んでいた卓は二人用のものではなく、四人用だった。というより、どの席もそうなのだ。ひとつの卓に四つの椅子。体格のいい軍人たちには狭いのか、ふたりか三人が座るのが限界のようだが、理論上では四人までひとつの食卓を囲うことができるはずだ。
ウルは、突然の闖入者にびっくりしたものの、すぐに納得した。どうみても一人分には見えない食料を抱え込んだレノの額には汗が光っている。炊き出し部隊から食事を受け取ったレノは、ウルを探して走り回っていたのだろう。そして、ウルがロックとともにこの天幕内で食事をしていることを突き止めた彼は、急いでここまで走ってきたのだ。完全な憶測だが、そこまで間違ってはいないだろう。
いつも無愛想な受け答えしかしてくれない男とは到底思えないような行動力に、ウルは、妙な愛しさを覚えずにはいられなかった。男という生き物が持つ馬鹿馬鹿しいまでの可憐さに、彼女は笑いを堪えるのに必死にならなければならなかった。この気まずい空気の中で笑いだせば、ふたりの気持ちは一瞬にして冷めるかもしれない。
「けど、なにか問題があるのかな? ロック軍団長」
「い、いえ、問題はありませんよ、レノ軍団長……」
互いに牽制するような視線を交わしている。まるで戦場で剣をぶつけ合っているような緊迫感がふたりの間で生じており、周囲の軍人たちも興味津々といった風だったが、しかし、そのふたりがガンディア方面軍とログナー方面軍の軍団長だということがわかると、途端に無関心を装いだしたようだ。この簡易食堂とでもいうべき空間には、軍団長以上の階級のものは存在しないのだ。北進軍の中で彼らより上といえば左眼将軍とその副将くらいのものであり、デイオンがこのような状況に興味を持つとも思えなかった。
「まあまあ、三人でもいいじゃないですか」
「そ、そうですよね、ウルさんがそうおっしゃるのなら」
「では、遠慮なく」
レノは、手にしたトレイをテーブルに置くと、椅子を引いて腰掛けた。トレイの上には二人分の食事が乗っており、彼がウルの分まで見繕ってくれていたことは明白だった。彼がそこまで気を使ってくれるとは思ってもみなかったし、まさかロックとの間に割って入ってくるとも思わなかった。
ロックはわかるのだ。彼が自分に夢中だというのは、痛々しいまでに理解できる。自惚れではない。
レノが想像以上の強引さで割り込んできたことにロックは不満そうではあったが、ウルの手前、文句をいうこともできないようだった。いや、ウルの手前でなくとも同じことだ。彼はガンディア人として、ログナー人であるレノに多少の遠慮があるのかもしれない。ログナー人との間に良好な関係を築きたいというのがロックの望みだということを、ウルは彼との会話の中で聞いていた。
レノが同じような考えを持っているのは、彼もまた千人の兵を従える軍団長としての立場にあるからだろう。しかし、彼はロックと仲良くする気はないらしい。テーブル上に並んだ料理の数々を見やったあと、彼はウルに尋ねてきた。
「ウルさんはロック軍団長とも親しいのですか?」
「ええ、仲良くして頂いておりますわ」
「ほう……」
なにやら考えこむレノを見ていると、天幕の外が騒がしくなった。ほかのテーブルの軍人たちが何事かと立ち上がる中、当然、ロックとレノも席を立つ。ウルだけが椅子に腰掛けたまま、天幕の外に視線を向けた。大きな天幕ではあったが、出入口は開け放たれており、外でなにが起きているのかは一目瞭然だった。走り回る兵士たちの姿は、ただごとではないなにかが起きているのだと直感させるには十分だった。
兵士のひとりが、天幕の中に駆け込んできた。
「皇魔です! ブフマッツの大群が、こちらに接近中とのこと!」