第二千八百五十六話 飽くことなき(十)
先に視線だけでも背後に向けようとするニーウェの死角へ回り込み、滑り込むようにして斬りかかる。
足下から掬い上げるような斬撃は、しかし、ニーウェの翼が展開したことで受け止められ、耳障りな金属音と火花を散らした。セツナは舌打ちし、ニーウェがこちらに向き直るのを見越して飛び退きながら、彼の目線を咄嗟に掲げた黒き剣の腹で塞ぐ。
するとどうだろう。
ニーウェの視線を迸る闇色の熱線は、黒き剣の腹に直撃し、跳ね返ったのだ。
ニーウェがはっとなったときにはもう遅い。視線をずらそうとしたニーウェの胸に熱線が突き刺さり、彼は苦悶の声を上げながら飛び退る。セツナは、その好機を見逃さない。踏み込み、焼け焦げた胸元に黒き剣の切っ先を叩きつけるようにして突き刺した。ニーウェが叫ぶ。翼を広げ、羽根を撒き散らすが、しかし、そうやってばらまかれた羽根は、セツナを振り解くには至らない。黒き剣はニーウェの胸に食い込み、貫く。断末魔の絶叫が響き渡った。
異形化したままのニーウェの体が地面に落下し、そのまま動かなくなるのを確認すると、ともに地に降り立ったセツナは、その亡骸から剣を抜き取った。そして、安堵の息を吐く。
「なんとか勝てたな……」
ぼそりとつぶやき、ニーウェの亡骸に視線を戻す。異界転身によって悪魔の如き姿に変わったままのニーウェは、もはや物言わぬ死体と成り果て、身動きひとつしない。勝敗は決まった。勝因は、ニーウェが最初の戦いと異なる戦法を取ってくれたからだが、それもこれも、ニーウェの完璧なる勝利に拘ったエッジオブサーストの悪手だろう。この世界のニーウェならばどのような戦術を用いても、セツナを圧倒できると踏んだのが見当違いだったのだ。
セツナは、しかし、それでも変わらない状況に怪訝な顔をした。
ニーウェは倒れ、セツナは立っている。勝者はセツナであり、敗者はニーウェだ。エッジオブサーストの主催する試練は、これで終わったはずではないのか。セツナの勝利という形で、幕を閉じたのではないか。そう想ったのも束の間だった。
彼は、全方位を取り囲む無数の気配が同時に出現したことに、全身が総毛立つのを認めた。
はっと顔を上げれば、鬱蒼と生い茂っていた木々から緑の葉が失われていることに気づく。いや、葉が散ったわけではない。木々そのものが変化しているのだ。それも黒衣纏った人間の姿であり、つまるところそれは、ニーウェだった。
「はあ!?」
セツナは思わず素っ頓狂なまでの悲鳴を上げ、エッジオブサーストの暴挙とでもいうべき光景に愕然とした。
使者の森を再現したものだろう森の木々が、すべてニーウェに変わり、それらニーウェがセツナに向かって動き出していた。口々に呪文を唱え、それぞれにエッジオブサーストを召喚して見せる。一対の黒き短刀を手にしたニーウェたちは、一斉にその切っ先をこちらに向けた。同時に無数の光弾が撃ち放たれ、全方位からセツナに殺到する。
「くそがっ!」
吐き捨て、駆け出すことで光弾の着弾点から移動しながら、前方の光弾だけを見つめる。黒き剣を振り回して光弾を受け止め、ひたすらに弾き返すと、違和感が過ぎった。瞬時に跳躍すれば、幾重もの斬撃が足下に閃いた。時間静止とともに肉薄したニーウェたちによる一斉攻撃だが、かわしきれば問題はない。問題があるとすれば、そのあとのことだ。ニーウェたちは、こちらを仰ぎ見て、エッジオブサーストを掲げてきたのだ。刃が輝き、光弾が放たれようとしたその寸前、セツナが無意識に撃ち返した光弾が眼下のニーウェたちに直撃し、その行動を阻害した。その光弾は、飛び上がったセツナを狙い、遠方から飛来したものだった。
着地と同時にまずひとりを斬り倒し、残る複数人を立て続けに切り伏せる。その瞬間だけ光弾が止んだのは、ニーウェたちが壁となり、セツナを狙い撃ちできなかったからだろう。だが、ニーウェたちが地に伏した瞬間、光弾の弾幕が復活し、セツナに向かって殺到してくる。
(どんだけだよ!)
セツナは内心悲鳴を上げながら、とにかく前方に向かって駆けた。それだけで全方位から受ける必要はなくなり、前方の攻撃にのみ集中できるものの、弾幕は凄まじく、剣で捌くのを少しでもしくじれば致命傷を受けることは間違いない。それはまさにエッジオブサーストのニーウェへの愛の重さがなせることだと思いつつ、ひたすらに剣を振り回し、光弾を弾き返す。弾かれた光弾はあらぬ方向に飛んでいくだけで攻撃手段にはなり得ない。が、回避できているのだから、それだけで由とする以外にはない。
再びの違和感。今度は、前方に向かって大きく飛んだ。その一瞬だけ、光の弾幕がなくなり、なにかが空を切る音が背後に生じる。黙殺し、前身を再開。ニーウェの森まで後少しといったところだ。ここまでくると、全方位の弾幕は、前方広範囲からの弾幕のみとなる。というのも、味方への誤射を避けなければならなくなるからだ。セツナをニーウェたちが包囲した瞬間、光弾が止んだのと同じ理由だ。ニーウェを愛するエッジオブサーストが、ニーウェを傷つけるような真似をすることなどできるわけもない。
(……そうか)
セツナは、脳裏を過ぎった悪辣な考えに目を細めると、三度目の違和感とともに大きく飛び退き、空間転移の如く出現したニーウェたちのうちのひとり、そのがら空きの背中を切り裂いた。そして、倒れ行く彼の首を左手で掴むと、前方に掲げる。攻撃を空振りし、こちらに向き直ったニーウェたちがその様を見てか、唖然とした。そして飛び退き、一対の短刀を交差させる。ニーウェたちがそのまま姿を消したことで、セツナは、にやりとした。
(いける……!)
セツナは、ニーウェの亡骸を前方に掲げると、そのまま駆けだした。ニーウェの死体を盾とすることで、ニーウェの森の光弾による攻撃を封殺しようとしたのであり、セツナの目論見通り、ニーウェの森は、光の弾幕を張らなくなった。ニーウェの森――つまり、無数のニーウェたちは、エッジオブサーストが生み出したものであり、エッジオブサーストによって制御されているものと考えられる。そして、エッジオブサーストは、ニーウェに多大なる好意を寄せ、深い愛情を抱いており、たとえ幻影であってもニーウェを傷つけたくはないと想っている。それが幻影の死体であっても、だ。それは、先程のニーウェたちの反応で明らかとなり、いま、弾幕が張られなくなったことで確定的なものとなった。
ニーウェへの愛の重さは、同時にその行動の枷ともなっている、ということだ。
死体を利用するなど人間の風上にも置けない行いだが、そんなことをいっている場合ではない。道徳や倫理を重んじて勝てる相手ではないし、状況でもないのだ。
勝つために手段を選んでいいのは、勝てるという確信があるときだけだろう。
そして、いまのセツナには、勝てる確信などはなく、勝つためにはあらゆる方法を取る覚悟があった。
ニーウェの死体を盾の如く掲げ、前進しているのもそれだ。勝つためであり、この試練を突破し、鍵を手に入れるためだ。目的のために手段を選んでいられるほど、いまのセツナには余裕はない。ここにいるのは、この地獄に堕ちたのは、力が必要だったからだ。
力を得るためならば、どのような手も尽くそう。
いまも地獄に堕ち、いずれもまた地獄に堕ちる身だ。
なにも恐れることはない。
森の木々の如く並び立つニーウェの群れに向かって突き進みながら、セツナは、剣を握る手に力を込めた。死体の盾を掲げているからといって、役に立つのはいまのうちだけだ。接近戦となれば話は別なのだ。死体の盾で防げない死角から攻撃される可能性が高まる。そのときには、セツナは、死体の盾に頼るのではなく、自身の能力をこそ頼らなければならない。
そう考えた矢先だった。
森が鳴動した。




