第二千八百四十九話 飽くことなき(三)
「とはいえ、これまぜ数え切れないほどの激戦を勝ち抜いてきた両者です。きっと、会場のみならず、全世界でご覧の皆様も興奮するような食べっぷり、飲みっぷりを見せてくれることでしょう!」
「期待しましょう」
いかにもな実況と解説の話を聞きながら、セツナは、鼻腔をくすぐる料理のにおいになんともいえない気分だった。空腹感は、卓上に料理が並べられているときから感じていた。それもとてつもない空腹感であり、いつのまにここまでお腹が空いたのか、まったくわからなかった。いや、いまのいままで、一切の飲み食いもなくここまで来られたことの方がおかしいのかもしれないが、ここは地獄であり、現実と隔絶された世界ならばと疑問にも想わなかったのだ。
それがいまや言語を絶するような空腹感に苛まれ、唾液が口の中に溢れている。
(食べっぷり、飲みっぷり……)
そもそも、暴飲暴食大会と銘打たれているのだ。
セツナがこれからなにをどうニーウェと競い合うのかは、巨大な卓に並べられた料理や飲み物の数々を見るまでもなくわかりきっていたことではあった。つまり、どれだけものを食べて飲めるのか、それを競うということだろう。ようは早食い対決のようなものだ。違うのは、料理が限定されていないことであり、同じ卓を囲んでいるということだろう。しかもそれぞれの面前に並ぶ料理に違いがある以上、なにを以て勝敗を判定するのかは不明だった。
それこそ、エッジオブサーストの気分次第でもおかしくはない。
「まさか、君と決勝戦でぶつかることになるとは、想いも寄らなかったよ、セツナ」
不意にニーウェが話しかけてきて、セツナは困惑するほかなかった。
「……えーと」
なんと応えるべきか戸惑うのは、当然だった。ニーウェは、本人ではない。エッジオブサーストがこの試練のために作り出した偽物であり、実体を伴う幻影といってもいい存在だった。セツナの記憶の中のニーウェよりも明らかに美化されているのもそのためだったし、彼がこの暴飲暴食大会に疑問ひとつ抱いていないのもそれだ。彼は、舞台装置に過ぎない。
「俺と君の宿命の戦い、その決着をこの場でつけようじゃないか」
ニーウェは、そう言い切ると、やはり優雅に微笑んできた。
ただそれだけで、観客席から膨大な数の黄色い声が上がってきたのだが、広大な観客席の遙か彼方からでもニーウェの笑顔が見えるというのだろうか。いや、観客席も試練のための舞台装置ならば、見えようが見えまいが関係ないのだ。ニーウェを賞賛するためだけに歓声が上がっているだけだろう。
そう断定すれば、多少はすっきりする。
理不尽だが、試練とはそのようなものだ。
地獄に堕ちて以来、セツナに有利な試練など、ただのひとつもなかった。
「それでは、第六百六十六回暴飲暴食大会決勝戦、開始です!」
司会者の合図とともにけたたましい鐘の音が鳴り響いた。
すると、ニーウェは、手元の銀食器を手に取ると、礼儀作法に則った流麗な仕草で肉を切り分け、まずはその一切れを口に運んでいった。あまりにも優雅で、セツナですら見惚れるほどの食べ方は、さすがは帝国の皇子として教育を受けて育っただけのことはあると想えたが、一方で、これでは勝負にもならないと確信を抱かせた。
色々と腑に落ちないことはあるものの、こうなった以上は、この勝負に勝つ以外に道はない。
セツナは、卓上の料理皿を手繰り寄せると、焼いた肉の盛り合わせとでもいうべきそれを口の中に掻き込んだ。なにより超絶的な空腹感に苛まれているということもある。一刻も早く腹を満たしたいという欲求に駆られ、また、ニーウェよりも多くのものを食べ、飲まなければならないという意思が、セツナを突き動かした。卓上の料理を手当たり次第に口の中に放り込み、咀嚼も適当に飲み物で押し流す。
「ニーウェ選手、相変わらず優雅で華麗な食事ぶりです。これには全世界でご覧の皆様もご満悦でしょう」
「ええ、本当に美しく、麗しいですね。調理され、食材となったものたちへの感謝の気持ちが表れているのでしょう」
「まさに王者に相応しい振る舞いでしょう!」
「はい」
実況と解説、そして数え切れない観客たちは、その大半がニーウェを応援し、支持していることは最初からわかっていた。いずれも決勝戦まで上がってきた同列の選手であるはずなのにだ。それこそ、これがエッジオブサーストの想像の産物に過ぎないことを示している。贔屓の引き倒しにもほどがあるが、致し方のないことだ。彼女の恨みを買ったのは、セツナ自身だ。それも、仕方のないことだったし、彼女を認めさせるには、この試練に打ち勝つしかないのだ。
「一方のセツナ選手。相変わらず豪快な食べ方です!」
「一言で言うと汚いですね」
「汚い……ですか」
「食い意地が張っていて、食材への敬意も感謝もなく、褒める点が一切見当たりません」
「おおっと、これは美徳点に減点ですか」
「残念ながら、そうなるでしょう」
(なんだよそれっ!)
セツナは、満たされない空腹感に突き動かされるまま、肉も野菜も魚もなにもかもを口に放り込みながら、胸中怒声を上げた。暴飲暴食大会というのだから、より多く食べ、より多く飲んだほうが勝ちなのではないのか、と、セツナは考えていた。だからこそ、満足に味わうこともなく、口に詰め込んだ料理を飲み物で押し流すようにして、胃袋に詰め込んでいるのだが、それがどうやら減点対象らしいという話を聞けば、手も止まる。
「などという冗談はさておき、このままではニーウェ選手は突き放される一方です」
「はい。そうですね。これは暴飲暴食ぶりを競う神聖なる戦いです。食事の作法の綺麗さを競うものではありません」
(冗談かよ!)
愕然とした途端、セツナは喉が苦しくなった。口に放り込んだばかりのものを無意識に飲み込みかけ、その結果、喉に詰まったようだった。呼吸が出来ず、苦しんでいると、食事を運んできた美女のひとりが飲み物を手渡してくれた。セツナは透かさずそれを口の中に流し込み、喉につかえていた料理を胃の中に追いやることに成功する。
「ありがとう、助かった!」
美女に感謝を述べると、悪魔めいた美女は、微笑み返してくれた。美女たちもこの試練の舞台装置に過ぎないが、どうやら、セツナにも平等に手助けしてくれるらしいということがわかった。すべてがすべて、ニーウェに有利に働いているわけではないらしい。もし、美女もすべてニーウェのためだけに動くのであれば、セツナは見殺しにされていたことだろう。もちろん、手元の飲み物を掴み取ることができれば、それも回避できたことではあるが。
もう一度喉を潤し、卓上に山のように積み上げられた料理の数々を睨む。
ランスオブデザイアやアックスオブアンビションとの激闘の末に死ぬのはともかく、食事を喉を詰まらせて死ぬのは、あまりにも格好が悪すぎる。
(なるほどな)
セツナは、エッジオブサーストがなぜこのような馬鹿げた試練を思いついたのか、納得のいく理由が浮かんた。
つまり、セツナをどれだけ惨めに負けさせられることができるか、に重点が置かれているのではないか。ニーウェが勝利することは既定路線だが、その場合重要となるのは、その経緯であり、過程だ。ニーウェがどのように勝ち、セツナがどのように負けるか。それも惨めに情けなく敗れ去り、セツナの精神に大打撃を与えることができるか。
それこそ、エッジオブサーストのニーウェへの拗れた愛情表現そのものといってもいいのではないか。
(……馬鹿げてる)
鍵の試練のひとつが、このような形で利用されるなど、彼女たちの主が知れば激怒するのではないか。
などと想ったが、即座に頭を振った。
むしろ、面白がっているかもしれない。
黒き矛には、そういうところがある。




