第二千八百四十七話 飽くことなき(一)
「よく来たね」
声が聞こえて、自分が闇の中にいることに気づいた。
試練の扉を潜り抜けた途端、闇に飲まれることそのものは、なんら不思議ではない試練の扉の中は、不思議空間といって過言ではないのだ。
漠たる闇は、彼の全周囲を包み込み、どこまでも広がっているように想われた。立っているということは足場があり、その足場も安定しているということだ。手を伸ばし、左右に動かすが、なにかに当たる気配もなければ、動かしにくいというわけでもない。視界が闇に閉ざされている以上、歩きにくいことこの上ないのは確かだが。
「ぼくが持っている鍵で、五つ目」
声は、女性のものだった。それもかなり若く感じられる。声だけで判断するならば、少女といっても通るだろう。実際の年齢はともかくとして、だ。そして、聞き覚えのある声だった。どこかで、聞いた。すぐには思い出せない辺り、印象が薄い。
「鍵は全部で六つ。つまり、合格まであとふたつということ」
声は、いう。どこか刺々しく、拒絶的な声音は、セツナへの敵意に満ちている。これまでの試練で相対した眷属の中でも特に強烈な敵意だった。
「そして全部揃えれば、あのお方へのお目通りが適うというわけだ。それは実に素晴らしく、実に素敵なことだ」
そういうわりに声音は冷ややかで、祝福するどころか否定的ですらある。声の主がそうなることを歓迎していないということに違いない。その事実に対し、セツナはむしろやる気になった。
「あのお方に拝謁できるものなど、この数億年、ひとりとして現れなかった」
周囲を見回す。声は、どこからともなく聞こえてきていて、方向を定めることは出来ない。それにこの暗黒の闇だ。そろそろ目が慣れてくる頃合いのはずだが、それでもなにも見えないくらいに真っ暗で、その場から歩き出すことすら難しかった。どのような罠が待ち受けているかわかったものではないのだ。状況が動くまでは、待ちに徹するべきだろう。
「だから、疑問を持つんだ」
少女の声が、熱を帯びた。
「どうして、君なんだ?」
苛立ちが籠もった声にこそ、疑問を持つ。なぜ、怒りをぶつけられなければならないのか。
「君よりも余程、ニーウェのほうが相応しいのに」
「なんでニーウェの話が出てくるんだよ、ここで」
「単純な理屈だよ。ぼくがニーウェに肩入れしているから。それ以上でもそれ以下でもない」
その説明で、いままでのすべてに納得がいった。
「……エッジオブサーストか」
「御明察」
少女声の眷属は、嫌味っぽく肯定すると、拍手さえしてきた。
エッジオブサーストといえば、ザイオン帝国皇子ニーウェ・ラアム=アルスールが愛用した召喚武装たる魔王の杖の眷属だ。二刀一対の黒き短刀であり、その能力は、光弾の射出や座標置換による空間転移、時間静止、異界化など、様々だ。ニーウェが他の眷属の使い手を討ち倒し、セツナとの決戦に持ち込めたのも、エッジオブサーストの性能によるところもあるだろう。もちろん、ニーウェ自身の実力も大きいのだが。
エッジオブサーストが化身として取った姿は、少女だった。そのことをいまになって思い出す。黒髪に紅い目の少女。
「そう、ぼくはエッジオブサースト。そう名付けられたもの。本当の名は別にあるけれど、教える理由もない」
「それは聞いたよ。メイルオブドーターにな」
嘆息とともに告げる。エッジオブサーストがニーウェに肩入れしているということを明言した以上、彼女に嫌われるのも当然だと想えたし、メイルオブドーターやロッドオブエンヴィーがそうでもなかったのも納得できた。
かつてセツナがニーウェと戦ったとき、メイルオブドーター、ロッドオブエンヴィー、アックスオブアンビションは、エッジオブサーストに敗れ、吸収され、力の一部となっていたのだ。メイルオブドーターたちからしてみれば、エッジオブサーストから解放してくれたセツナに感謝こそすれ、ニーウェに肩入れする理由はないということだろう。もっとも、メイルオブドーターたちがセツナに感謝している様子はまったくなかったし、むしろ、黒き矛の使い手に相応しいかどうかのほうが重要なようだった。
その点、エッジオブサーストは、違った。
黒き矛に相応しいかどうかよりも、ニーウェのことのほうが重要らしい。
「あの淫婦は、君に骨抜きにされたようだけど……ぼくは、まだ君を認めていないよ」
「だからこその試練なんだろう?」
「話が早くて助かる。ただ、ニーウェのほうが遙かに察しが良かったけど」
「いちいち癪に障る言い方だな。比較せずにはいられないのか」
「常に」
エッジオブサーストは、冷ややかに告げてくる。その声音の冷ややかさは、ともすれば苛立ちのあまり怒号を発しかねない自分自身を抑えるためのようにも聞こえる。つまり、無理をしているのではないか。
だからどうということはないが。
「常に比較しているよ。ニーウェほど、杖の護持者に相応しい人間はいないと想っていたから」
それが、エッジオブサーストの中でわだかまりとして残り続けている。
「まさか、君のような人間に負けるだなんて」
「……いまさらだ」
「そうだね。いまさらだ。なにもかも、いまさらなんだ」
少女の声が諦念に満ちていた。
セツナはニーウェに打ち勝ち、エッジオブサーストはカオスブリンガーに敗れ去った。カオスブリンガーはすべての眷属を取り込み、完全体となったのだ。まさに魔王の杖の呼び名に相応しい存在となり、絶大な力を取り戻した。眷属もセツナの支配下に入り、セツナの召喚に応じるようになった。エッジオブサーストすら、セツナの召喚を拒絶できなかった。セツナが彼女を召喚し、酷使したことたるやどれほどか。
時は進み、戻らない。
ニーウェが再びエッジオブサーストの主になることもなければ、ニーウェが魔王の杖の護持者になることも、ありえない。
そんなことはわかりきっている、とでもいうのだろう。
「でもね、だからこそさ」
エッジオブサーストの声が響き渡る。
「悪魔はね、執念深いんだよ」
「そうかい」
(悪魔ね……)
魔王の杖の眷属ならば、悪魔と呼ぶに相応しい存在だとしてもなんらおかしくはないし、不思議ではない。なにより納得できる。
「さあ、セツナ。君がニーウェより相応しいということをぼくに示してごらんよ。そうすれば、鍵もぼくもすべて君のものだ」
エッジオブサーストが告げ、つぎの瞬間、光が頭上から降ってきた。あまりの眩しさに瞼を閉じ、ゆっくりと薄目を開けると、周囲を覆っていた闇が晴れていた。が、予期せぬ状況に直面し、思考が停止しかけることに気づく。まず視界に飛び込んできたのは、豪華な横断幕だった。視界上方に飾り付けられた横断幕には、日本語で文字が描かれている。
(第六百六十六回、暴飲暴食大会……?)
そうとしか読めない文字列を胸中で読み上げるだけで頭の中が混乱する。なにがなんだかわからない。いや、文字の意味はわかる。暴飲し暴食する大会、とでもいうのだろう。だが、なぜそんな文字を書いた横断幕が掲げられているのかがわからない。
わからないのは、それだけではない。
セツナは、舞台上にいた。
頭上から降ってきた光は、照明器具の光であり、横断幕は舞台の背景に掲げられていた。舞台上には、巨大な卓があり、その卓の右側にセツナは立たされていて、左側にはニーウェがいた。舞台ということは、当然、客席があるのだが、その客席の数たるや、凄まじいというほかなかった。何百何千どころの話ではない。客席と観客が視界を埋め尽くし、遙か彼方まで続いていた。何万、いや、何十万もの客席が用意されていて、それが埋まっている。もっとも、客席に座っているのは、人間ではない。人外異形の怪物たち。人間に近い姿形のものもいないわけではないが、ほとんどは人間とはかけ離れた姿をしていた。そのいずれもがなぜか熱狂的に舞台上を注目しているのだ。
なんとも奇妙な空間だった。
試練が段々と奇抜なものになっていっているような気がしてならなかった。
「ついにこのときがやって参りました!」
頭上から響いてきたのは、高音の男の声だ。機材を通して拡散される声は、全観客にもはっきりと聞こえたのだろう、熱を帯びた歓声が上がった。
「第六百六十六回! 暴飲暴食大会決勝戦です!」
大歓声が上がり、会場は、物凄まじい熱気に包まれた。




