第二千八百四十三話 大いなる烙印(七)
「馬鹿なことを……」
レオンガンドは、呆然とするほかなかった。
「何故だ。何故このような真似をした」
もはや影も残らず、この世から消えてなくなった妹の姿を虚空に追い求めて、彼は視線を巡らせる。だが、そんなことをしてもなんの意味もない。それもわかっている。リノンクレアは、消滅した。獅子神皇の力が、無意識的な反射として、敵対者を滅ぼし尽くしたのだ。ただ肉体を破壊しただけではない。魂までも粉々に破壊し尽くし、泡の如く消えて果てた。
残っているのは、彼に刺さったままの銀の長剣だけだ。細く長い湾曲した刀身が美しい銀の剣。そこには、彼の力のほんの一部が吸い取られ、封じ込められている。
ほんのわずかばかり。
レオンガンドは、剣の柄に触れ、腹から引き抜いた。肉体的な痛みはない。あるのは、心に刻まれた深い悲しみであり、喪失感だった。最愛の妹を失った事実は、彼に虚無感をもたらし、剣の柄を握る手を震えさせた。
手に取ってみてわかったことは、この銀の剣は、神を封じるための器のようだった。
神を打倒する手段は、いくつかある。そのうちのひとつが、なにかしら強大な力を持った器に封じ込めるというものだ。かつてミエンディアに付き従う神々がミヴューラなる神を封じた卓も、それだ。不滅の存在である神も、封印されてしまえば、本領を発揮できず、世界に影響を及ぼすこともできなくなる。そうして信仰さえも失われていけば、いずれ滅び去るだろう。もっとも、そのためには長い長い年月が必要だが、封印によって、神の力、影響力を弱めることそのものには大きな意味があるだろう。
リノンクレアは、レオンガンドを銀の剣に封印しようと試みたのだ。
それは、なぜなのか。
レオンガンドには、まるで理解が及ばなかった。彼女は、今際の際、譫言のように言葉を並べ立てたが、それが理由とは思えないのだ。そんな理由だけで、あのような凶行に及ぶものだろうか。
「わたしは、獅子神皇だぞ。神々の王にして万物の支配者たるこのわたしを封じることなど、君如きにできるわけがないだろう。わたしが何者なのか、教えたはずだ。言って聞かせたはずだ。何度も、何度も……」
故に、レオンガンドには解せないのだ。
リノンクレアは、愚かな人間ではない。聡明で理性的、常に自分の立場を弁えて行動のできる人間だった。だからこそ彼は彼女を愛し、彼女がネア・ガンディアについていくと言い出したとき、心の底から歓喜したのだ。リノンクレアならば、彼の想いを理解してくれるだろう、と、彼自身、常々考えていたところだったからだ。最愛の妹でもある。側にいてくれるだけでも心強かった。
ゆくゆくは、ネア・ガンディアの政治を取り仕切らせるつもりだった。神々の中には不服に想うものもいるだろうが、そのときは、彼が命じればいい。彼の命令に逆らうことは、なにものもできない。
彼は、神々の王なのだ。
「何故だ……何故……!」
声を荒げ、天を仰ぐ。
剣が貫いた傷口は、とっくに塞がっている。傷口だけではない。彼が纏う衣も、無意識のうちに復元し、元通りに戻っている。穿たれたのは、心だ。胸の内、心の表面に亀裂がある。怒りではない。嘆きであり、哀しみであり、痛みだった。このような痛みを感じるのは、これで二度目だ。実の家族に自身を否定され、拒絶されたことによる痛み。
レオナは、まだ、いい。彼女は幼く、レオンガンドの記憶もほとんどないはずだ。なにが正しく、なにが間違っているのかが理解できていない彼女にレイオーンがなにかを吹き込んだ可能性がある。ガンディアの建国伝説に登場し、守護獣として語られるレイオーンがなぜいまさら姿を現し、レオナの側にいるのか。それがそもそもおかしな話だ。レイオーンが実在したというのならば、彼の父の時代、いやそれよりずっと以前の時代に姿を現し、ガンディアを導いてくれてもよかったはずだ。
だが、レイオーンは、ガンディア王家を黙殺し続け、ガンディアが滅び去るのを見届けると、突如としてレオナたちの前に現れたのだ。そして銀の獅子は、王家の守護者を名乗ったという。なんともおかしな話だ。ガンディア王家の守護者ならば、ガンディアが滅亡の危機に瀕したときにこそ力を貸してくれるべきではなかったのか。
やはり、レイオーンは信用するべきではない。すぐにでもレオナをレイオーンの元から引き離し、レイオーンを滅ぼすべきだ。
ガンディア王家の敵として。
彼は、神威でもって銀の剣を粉々に破壊すると、その器に封じられていた力を取り戻し、銀の剣の破片を塵も残さず消し去った。
つぎの目的は、決まった。
「あら……?」
不意に声が聞こえた。
視線を向ければ、彼の最愛の妻が森の道を歩いてくるところだった。
「リノンさんはもう戻られたのですか?」
「ナージュか」
「せっかくお茶を用意しましたのに」
至極残念そうなナージュの表情からは、彼女の本心が窺える。レオンガンドとリノンクレアを交えた三人で、ゆっくり談笑する機会を得られると想い、急いでお茶の用意をし、ふたりを呼ぶためにここまで来たのだろう。侍女を使えばいいものを、それをしないのは彼女なりの気遣いだ。レオンガンドとリノンクレアのいる場所に無関係な人間が入り込むのはよくないことだと判断したに違いない。
「君は……」
レオンガンドは、ナージュの黒く艶やかな髪が風に揺れる様を見た。白く美しい装束が黒髪と褐色の肌を引き立たせるようであり、彼女によく似合っている。いや、白だけではない。どんな色彩だろうとも、彼女に似合わない色はないのだ。
自分とは、違う。
レオンガンドには、もはや似合う色彩などはない。どのような色も、彼の白の前に平伏し、頭を垂れる。彼は獅子神皇。神々の王であり、万物の支配者なのだ。色彩さえも、彼を染め上げることはできず、むしろ彼に塗り潰されてしまう。
「どうされました? 陛下」
「君は、わたしの側にいてくれるよな……?」
「なにを仰るかと想えば……そんな当たり前のことを」
ナージュは、彼が冗談をいっているとでも想ったのかもしれない。穏やかで慈しみに満ちた微笑みを浮かべ、レオンガンドを見つめる。そのまなざしは、寒空の下に見る太陽のようだった。暖かく、身も心も包み込んでくれる。心に空いた穴を埋めるように。
レオンガンドは、ナージュに駆け寄ると、彼女を抱きしめた。優しく、柔らかく、だ。でなければ、人間の肉体など容易く砕けてしまう。
「そうだな。君は、わたしについてきてくれた。わたしとともに在り続けると、約束してくれた。ああ、そうだった……そう……」
「陛下――」
「そうだ。君がいる。君がいるんだ。君さえいれば、わたしは……」
そこまでいって、ふと、気づく。
ナージュの体を抱きしめている感触が消えていて、彼女の体温も息吹も感じられなくなっていた。腕を解き、見下ろす。なにもない虚空がそこにあり、石床の敷き詰められた通り道があるだけだ。
なにも、ない。
もしかすると、ナージュが現れたのは幻覚だったのではないか。だから、いま目の前に姿がなく、気配も存在しないのではないか。そう思い込もうにも、両手には彼女を抱きしめていた感触が残っていて、全身にその温もりがあった。ならば、ナージュはどこへ消えたというのか。
そのとき、彼は、自分の両腕がわずかに発光していることに気づいた。
その光は、神威の発露を示している。
それはさながら、烙印のようでもあった。
レオンガンドは、絶叫した。




