第二千八百四十二話 大いなる烙印(六)
「わたくしの力など、必要でしょうか」
精一杯の意見を、口にする。声が震え、手も震えていた。神々の王に意見を述べるなど、恐れ多いとでもいわんばかりの反応は無意識のものであり、意識して止めることもできない。これでは、決意も覚悟もすべて無為に帰してしまう、という恐れが、リノンクレアの心の深奥に生まれた。
「陛下には、わたくしの助力など必要とされていないように見受けられます。ネア・ガンディアの戦力は圧倒的で、国は盤石といっていい。そこに新参者のわたくしが参加したところで、不協和音を生み出すだけではありませんか?」
「不協和音?」
レオンガンドは、少しばかり困ったような顔をした。その表情がかつての兄を思い起こさせ、余計に決意が鈍りそうになる。もはや覚悟は決めた。止まることなどありえないというのに、だのに、目の前の人外は、彼女の記憶に触れ、想い出を呼び起こしていく。
だれよりも優しく、強く、気高かった彼の兄、その魂の片鱗がそこにあるのだ。
「なにを気にしているのか、まったくわからないな」
「陛下……?」
「リノン。君は、ガンディア王家の人間なのだよ。ネア・ガンディアは、ガンディアの新たな形だ。そこを治めるのはただのわたしではなく、ガンディア王家の代表としてのわたしなのだ。当然、わたしが倒れれば、その後継者には王家の血族から選ばれることとなるだろう。レオナはまだ幼く、この国にいない以上、リノン、いまは君が適任だ」
「わたくしが適任?」
それこそ、ありえないことだと彼女は想った。そもそも、レオンガンドが倒れるなど、ありえることだろうか。セツナがレオンガンドの前に敗れたという事実は、レオンガンドより強いものなどいないということではないか。神々の王だ。人知を超えた存在なのだ。たとえ突如として天変地異が起きたところで、彼だけは助かるのではないか。彼だけは、死ぬことなどあるまい。それは、確信に近い感想だった。
「まあ、それは可能性の話程度に聞いてくれればいい。確かなことは、君は、わたしの妹であり、ガンディア王家の一員にして、ネア・ガンディアの特権階級だということだ」
「特権階級……」
「そうだ。なんなら、神々への命令権を与えてやってもいい。君ならば、神々の思惑に振り回されず、上手く操れるだろう。そもそも、彼らがわたしの妹を出し抜こうなどとはすまいがね」
「わたしにどうしろと……仰るのです」
「先もいったはずだよ、リノン」
レオンガンドは、超然たるまなざしでもって、リノンクレアを見つめてくる。その黄金色の瞳が持つ力の前では、覚悟も鈍り、決意も霞んでしまいかねない。
「わたしを支え、ともにこのネア・ガンディアを盛り立てて欲しいのだよ」
「……陛下は、それが本心からの望みなのですか」
「そうだよ。そしてわたしの願いは、この地に家族が揃うことだ。ナージュもレオナも、母上も、そして君。この混沌たる時代を生き残った家族を集め、手を取り合って生きるのだ。ひとは、ひとりでは生きてはいけまい?」
レオンガンドは、そんなことをいったが、リノンクレアは、複雑な想いを抱いた。人間は、確かにひとりでは生きてはいけない。支え合い、寄り添い合って、ようやく生きていける。特にこのような時代では、ひととひとが力を合わせることがどれだけ重要か。
ザルワーン島での日々は、その事実を思い知らせてくれた。
だが、レオンガンドは、人間ではない。
神々の王たる、神をも超越した存在だ。
そんなものに人間の在り様を説かれるいわれはない。
「母上は、龍府で上手くやっています。だれもが母上を慕い、母上のためならば命を惜しまないものも多い。ザルワーン島がああまで纏まったのは、母上の人望あればこそ。たとえわたくしが戻れなくなろうとも、きっと、ザルワーン島の統治者としてやっていけるでしょう」
「……いずれは、ここに来てもらうつもりだが」
レオンガンドが渋い顔でいった。リノンクレアの話が唐突過ぎて、理解が追いつかないとでもいいたげな表情だ。
「レオナ様も、なんの心配もいりません。大丈夫。なぜならば、セツナ殿や皆がついてくれていますし、レイオーンが護ってくれると約束してくれました。護るだけではなく、導くとも」
「……なんの話をしている? レオナ?」
「もう、いいでしょう」
リノンクレアは、左手で右手のひらの刻印の力に触れた。銀獅子の爪印が力を発し、光が溢れた。光は一振りの刃となり、彼女の右手に収まる。それはさながら獅子の尾のように細く長く湾曲した刀身が特徴的な剣であり、鈍い銀光を発する刀身からは大きな力が感じられた。
それは、ガンディアの守護獣レイオーンが、リノンクレアに与えた力。
たいした距離もない。ただ踏み込み、突き刺すだけでよかった。それだけで、刀身は激しく輝きながらレオンガンドの体に食い込み、力のすべてを注ぎ込んでいく。
通常、人間に神殺しは不可能だ、という。
神は、信仰によって成り立つ存在であり、故にその信仰がなくならない限り、存在し続けることができるのだという。不老不滅であり、絶対無敵。そして、そのため、神々の争いというのは不毛であり、徒労に終わることが多い。互いに決め手に欠けるからだ。
だが、必ずしも勝敗を別つ方法がないわけではない。
神を封じこめれば、いい。
そうすれば、神は本来の力を発揮することができなくなり、場合によっては世界に干渉することすらできなくなる。
レイオーンの尾より生まれし封神剣には、それが為せる。
故に彼女は、ここにいる。
「陛下……いえ、兄上の苦しみは、わたしが一番理解しています。ガンディアの将来を背負って生まれ、そのためにすべてをなげうち、戦い抜いてきた。あなたはまさに獅子王と呼ばれるに相応しいひとだった」
「……リノン。君は……」
レオンガンドが驚きに満ちた目でこちらを見て、そして腹に刺さった剣に触れた。刀身を掴み、引き抜こうとしたが、指先から銀光に飲まれ、消失していく。封神剣は、まさに神を封じる力を発揮している。リノンクレアは、確信を以て、さらに踏み込んだ。
「しかし、いまのあなたは、神々を超える力に酔った化け物に過ぎない。人間を騙る化け物に」
リノンクレアは、全身全霊でもって告げた。それは、心の底から愛し、敬い、尊んだ兄への決別であり、断罪であり、謝罪でもあった。彼をここまで追い詰めたのは、だれなのか。
自分も、そのひとりなのではないか。
「兄上、ともに地獄に堕ちる覚悟はできております。地獄で、ハルとともに――」
封神剣の力を引き出すのは、簡単なことではない。
人間の魂を捧げなければならない。
つまり、発動すれば最後、使用者は最終的に死ぬということだ。
だからこそ、使いどころを考える必要があり、いまのいままで、封神剣の存在を隠し続けてきた。グレイシアやナージュ、レオナの身に危機が訪れたときにこそ使うべきものだと考えていた。
そしてそれがいまなのだ。
獅子神皇の存在そのものが、この世界にとって害悪以外の何者でもない。
そう、想った。
そして。
「そうか」
リノンクレアは、自分の意識が焼き切れていく中で、レオンガンドが優しく微笑むのを見た。
その透明な微笑は、まるで彼女のすべてを受け入れ、理解したかのようであり、彼女は、レオンガンドがようやく本来の彼に戻ったのだと想った。
人間、レオンガンドがそこにいる、と。
泣いて、縋り付きたかった。
(兄上)
声が出なかったのは、もはや魂が焼き尽くされていたからだろう。
だが、それでいい。
獅子神皇を封じることができるのであれば、それでいいのだ。
それだけで、満足だった。




