第二千八百四十一話 大いなる烙印(五)
獅子神皇。
古代語で獅子の神を意味する国の王だから、そのような大仰で傲慢な名乗りをしているわけではない。彼は、まさに神々の王であり、王の中の王に相応しい存在だからだ。
神という存在すら曖昧だった時代を生きてきたリノンクレアにはとても信じがたいことではあったが、数え切れない神々が彼に頭を垂れ、平伏し、付き従っているのは事実だった。神属と呼ばれる、人知を越えたものたちが確かに存在し、実際にこの宮殿を歩き回っていたり、なにやら話し込んでいたりする光景を目の当たりにしている。それらは、禍々しく醜悪な皇魔とは異なり、見るからにひとの心を圧倒し、平伏したくなるような神々しさを放ち、まばゆいばかりの光を帯びていた。
その在り様からして、人間とは違う。
神人や神獣とも、神将や獅徒とも異なる。
神なのだ。
人間よりも遙かな高次に存在するものたち。
それらが、彼の一挙手一投足に注目し、彼の機嫌を損ねまいと懸命になっている様は、皮肉めいているといっていいのかもしれない。
かつて、神々はこの世界を影から支配し、運命さえも操っていたという。
そんな神々が、元人間のレオンガンドに命運を握られているのだ。
とはいえ、そのことで痛快だと想うことも、溜飲が下がることもない。あるのは不安であり、不穏さだ。
レオンガンドは、人間ではない。
それだけは、ただの人間であるリノンクレアにもはっきりと認識できた。
白く染まった髪も肌も、人間のそれではない。神人や神獣と同じ、神の力に毒されたものの成れの果てのように見えたし、その点では神将も同じだった。獅徒たちもだ。この宮殿で生活するだれもが人間を辞め、超越者としてここにある。その在り様は、人間である彼女には不可解であり、不協和音を感じずにはいられない。
顔立ちは、整っている。
ガンディアが将来のため、愚物を装っていたときですら、容姿だけは賞賛に値するといわれたレオンガンドの容貌は、相も変わらず、彼女の理想とする造作をしていた。残念なのは、獅子の鬣の如く黄金色に輝いていた頭髪も、碧く美しかった瞳も失われてしまったということだ。髪は白く、両目は金色の光を帯びている。それこそ神々しいというほかなく、向かい合うだけで心がざわつくのは、そのためなのだろう。
神々の王たる彼は、神を超えた存在なのだ。
神々よりも神々しいのは、当然といえた。
「どうしたんだ? 呼んでくれ。兄上と」
レオンガンドは、そこに拘ったが、リノンクレアは、頑なにそう呼ばなかった。
「……しかし、陛下。それでは示しがつかないでしょう」
臣下の礼を取ることで距離を置き、心を落ち着かせる。相手は、神々の王なのだ。存在感だけで圧倒的かつ絶対的であり、ただ面と向かっているだけだというのに精神がすり減っていくような、そんな感覚があった。背筋が凍るとはまさにこのことだろう。これまで感じたこともないような緊張感が、リノンクレアを襲っている。
だが、レオンガンドは、気にした風ではない。彼自身、こちらに圧力をかけているつもりなどはないのだろう。ただ、そこにあるだけだ。池の畔に佇み、こちらを見ているだけのことなのだ。たったそれだけのことで、普通の人間は心をすり減らし、負けそうになってしまう。
それが、神々の王たるものの面前ということなのかもしれない。
「リノン。君がここにいるのは、わたしを補佐するためじゃあないのかい?」
「補佐?」
「そう、補佐」
彼は、当然のようにいったが、リノンクレアにとっては想定外の言葉だった。
「ネア・ガンディアは、わたしが目覚めてからというもの、加速度的にその版図を広げ続け、いまや世界最大の勢力であり、国家となった。そしてわたしがその歩みを止めない以上、世界全土を掌中に収めるまで、この躍進が止まることはない。だが、勢力を広げ続けるだけでは、いずれ破綻するのは目に見えている。たとえその破綻の修復が、わたしにとって児戯に等しいものであったとしても、そこに住むひとびとにとっては看過できる問題ではないだろう」
リノンクレアの心がわずかに軽くなったのは、レオンガンドが池の水面に視線を落としたからだ。どこからともなく風が通り抜け、木々が揺れ、枝葉がざわめいた。葉が水面に舞い降り、波紋が広がる。水面に映るのは森の風景であり、空の色彩だ。
空。
いまのいままで意識しなかったことだが、獅神殿のこの空間には、空があった。
雲ひとつない青空が、頭上に広がっているのだ。
天井はなく、太陽もない。
理屈は不明だったし、考えている余裕などあろうはずもない。
「外征だけでどうにかなるほど、国の運営というのは簡単なものではない。国土拡大に、世界統一にかまけ、内政を疎かにすれば、国民を幸福に導くことなど不可能だ」
「国民の幸福……」
リノンクレアは、思わずつぶやき、はっとした。
「不思議そうだね」
いつの間にかこちらを向いていたレオンガンドの金色の双眸が、静かに光を湛えた。まるでこちらの胸中を見透かすかのような、神聖で透明な光。
「わたしはね、別に独裁者として君臨するため、この力を得たわけじゃあないんだよ。わたしは、世界統一を掲げた。それもこれも、この世界からあらゆる災厄、あらゆる邪悪を取り除き、国民が真に幸福を享受できる国を作り上げるためだ」
そして、彼は静かに続けた。
「かつて、わたしが小国家群統一を掲げた理由と、本質的には同じなんだよ」
それは、彼の本心なのだろう。
そのまっすぐなまなざしと揺れることのない声音からは、嘘を感じ取ることはできなかった。本音であり、本心であり、真意であり、真実なのだ。
かつて、レオンガンドが掲げた小国家群統一の志というのは、ガンディアという弱小国家の将来を憂えたからこそ掲げられたものではない。ガンディアの将来だけを考えるのであれば、小国家群統一などという大それた、それこそ無謀と受け取られるような願いを掲げはしないだろう。もっと大きな視野で、彼は世界を見ていた。
おそらく大陸小国家群史上、レオンガンドほど、多くのひとびとの生き死にを想い、幸福を考えたものはいないのではないか。
なぜならば、レオンガンドの野望は、大陸小国家群を統一し、支配することにあったのではなかったからだ。
大陸小国家群を統一することで、大陸四つ目の大勢力として纏め上げ、それによって大陸の均衡をより強固なものとすることにこそ、主眼があった。
ワーグラーン大陸は、大陸中央に犇めく小国家群と、三大勢力によって成り立っていた。その均衡は数百年に渡って維持されていたが、いつ三大勢力が動き出し、小国家群を蹂躙するものかわからない以上、小国家群の国々に絶対的な安寧というものはなかったのだ。三大勢力が動き出せば、それだけで小国家群は滅び去る。
三大勢力という眠れる巨獣に囲まれたまま、身を寄せ合う小動物たち。
それが大陸小国家群であり、その将来の不透明さを解決するべく立ち上がったのが、レオンガンドだったのだ。
ガンディアのみならず、周辺諸国――いや、大陸小国家群にいきとし生けるすべてのひとびとを纏め上げ、三大勢力という具体的な破滅から身を守り、幸福な将来を掴み取る。それこそ、レオンガンド・レイ=ガンディアが掲げた小国家群統一の本質だった。
ネア・ガンディアの世界統一が、それと同じだと、彼はいう。
リノンクレアは、そのことに信じられない想いがした。
ひとびとの幸福を願うというのであれば、なぜ、マルウェールを攻撃し、その住人を神人に変えてしまったのか。
彼女は拳を握り、レオンガンドを見据えた。だが。
「そのためにも、わたしに力を貸して欲しいのだ」
レオンガンドの声が耳朶に響くと、それだけで心が折れてしまうものだから、彼女は、憮然とした。




