第二千八百四十話 大いなる烙印(四)
リノンクレアがレオンガンドと直接逢う機会は、神将ナルドラスによって速やかに設けられた。
ナルドラスが提案したその日の内のことであり、ナルドラスが再びリノンクレアたちの部屋に現れるまでに一時間も経っていなかった。そのあまりの早さには、ナルドラスの提案がレオンガンドによって却下されたものだと想わせるものだったが、実際は逆の結果だった。つまり、すぐに逢おう、というものであり、リノンクレアは、ナルドラスの話を聞いて驚かざるを得なかった。
レオンガンドは、ネア・ガンディアの王として多忙な日々を送っているという話だったし、そこには一切の疑問の余地もない。ネア・ガンディアは、ガンディア以上に巨大な国だ。国土という意味ではなく、有する戦力、掲げる野望、野心の大きさは、ガンディアの比ではないのだ。その野望を実現するためには、国王たるもの、その時間のほとんどを捧げる覚悟が必要なのではないか。
小国家群統一と世界統一では、規模が違う。
ナルドラスに連れられ、リノンクレアが向かった先は、神皇宮内の獅神殿と呼ばれる区画だ。従者はおらず、リノンクレアひとりだけが、ナルドラスとともに歩いて、そこに向かった。道中、すれ違ったのは人外の神々であり、いずれもがナルドラスに目礼しており、ナルドラスが神々をも従える将軍であることがよくわかった。肩書きを疑ったわけではないが、実際にその目で見るとより理解が深まるということだ。
かつて世界を影から支配していた神々が、かつて人間だったものたちに支配されるというのは、皮肉めいていると考えるべきか、どうか。
とはいえ、必ずしも心地よいものとは思えないのは、それこそ、ナルドラスが受け入れがたい存在だからだろう。彼がただの人間であれば、素直に受け入れ、神々を支配する様を見て、溜飲を下げたのだろうが、そういうわけにはいかなかった。
結局のところ、人外が人外を支配しているだけだ。
この国の人間は、立場が低い。
神皇宮の迷宮染みた回廊を進み、やがて獅神殿へと辿り着く。
獅神殿は、神皇宮内の北側の一角にあり、両開きの大きな門によって隔てられている。門前には、門番の如く佇む二体の石像があり、いずれも無数の翼を生やした天使のようだった。実際、その天使像は、門番でもあるのかもしれない。神々が跋扈し、人外異形が平然と存在する国だ。天使像が動き出したとして、なんら不思議ではない。
ナルドラスは、その天使像の間を通り抜けると、門扉に触れた。すると、彼の手の先から光が走り、門扉に複雑で精緻な紋様を浮かび上がらせる。そして門扉が音を立てて開いた。獅神殿の門は、だれもが開けられるものではないといことのようだ。
「陛下は、この中で待たれておられます」
ナルドラスは、こちらを振り返ると、恭しく門の向こう側を示した。門扉が開いた先には、神皇宮のどこか無機的で代わり映えのしない景色とは、一線を画する世界が広がっている。それはさながら森だった。白く輝く石の床は橋のように辺り一面の草原を渡り、草原の先には鬱蒼と生い茂る樹木が乱立している。木々は青々としていて、季節感など皆無だが、いずれもが生き生きとしているように見えた。咲き誇る花々の姿も散見される。その緑豊かな世界は、白く凍った神の城とはなにもかもが異なっていた。
それを目の当たりにし、しばらく言葉を失っていたリノンクレアだが、はたと気づき、ナルドラスに視線を戻す。
「ここまでの案内、ありがとうございます、ナルドラス卿」
「リノンクレア様……」
ナルドラスが複雑そうな表情を浮かべるのを見て、ちくりと心が痛んだ。が、胸中で頭を振る。彼は、アルガザードではない。そう自分に言い聞かせ、彼女は獅神殿の門を潜り抜けた。
門内に足を踏み入れた瞬間、異様な感覚が彼女を襲った。それは一瞬にして消え失せたものの、全身を駆け抜けた違和感は、そう簡単に拭い去れるものではなく、リノンクレアは、しばしその場に立ち尽くした。そして、周囲の景色を見渡して、さらに立ち尽くす。
外から見えていた部分だけでなく、色鮮やかな草原と森が視界一杯に広がっていたのだ。視線を巡らせる内、あり得ない光景を目の当たりにする。それは、リノンクレアが潜り抜けた門の後方にも草原と森があるということだ。門の内側からは、こちらを見守るナルドラスの姿と神皇宮の通路が覗いているのだが、門の上方や左右から見える後方には、広大な草原の風景が見えていた。
(これは……いったい)
どういうことなのか。
普通ありえないことだが、それを言い出せば、獅神殿の森そのものが通常ありえないものだ。獅神殿そのものが超越的な力によって作られたものであり、それ故、不可思議な景色が生まれているとしか考えられなかったし、そう考えることでそれ以上の思考を放棄した。
いまは、この獅神殿の構造を把握するよりも、レオンガンドの元へ向かうほうが先決だ。
草原の上に敷かれた石の床を進むうち、森へと至る。天に向かって目一杯枝を伸ばし、無数の葉を生い茂らせる木々は、生命力に溢れ、この亡者の国にあり得ないくらいのあざやかさを見せている。その木々が作る緑の天蓋の下を、石の床は進んでいく。
リノンクレアは、その光景に既視感を抱いた。
(王家の森に似ている……?)
王都ガンディオンの中心区画であるところの獅子王宮には、王家の森と呼ばれる一角があった。伝説では銀獅子レイオーンとの邂逅によって国を打ち立てた初代王が、そのレイオーンのための寝床として作ったのが王家の森であるといい、レイオーンの姿が消えた後も、歴代王や王家の人間たちによって管理されていた。王家の森には、木々の枝葉が織り成す天蓋と、その下を進む道があり、子供の頃からよく遊び回ったことを思い出す。
天蓋の通路を抜けると、大きな池があり、その畔にひとりの男がこちらに背を向けて立っていた。彼が獅子神皇レオンガンド・レイグナス=ガンディアであることは、聞かずともわかる。故にリノンクレアは精神的な緊張を覚え、全身が強張る感覚に歯噛みした。心から敬愛する兄と対面するときとはまったく異なる感覚だ。もっともそれは、彼女自身の精神状態によるところが大きい。
リノンクレアは、レオンガンドを警戒しているのだ。故に心身が強張り、表情も厳しいものとなる。冷静になろうとするが、中々上手く行かない。
男が、振り返る。足音に気づいたのか、それとも別な理由からか。いずれにせよ、こちらを向いた男の表情は、極めて柔らかく、穏やかだった。
「やあ、待っていたよ。リノン」
声音もまた、優しい。
慈しみに満ち、愛に溢れていた。
まるで実の兄と対面しているような、そんな感覚に襲われ、彼女は、思わず心が緩みかけるのを感じて、拳を握った。気を許してはならない。
相手は、神々の王であり、人間ではないのだ。
「こうしてふたりきりで話し合う場と機会を設けてくださり、恐悦至極に存じます、獅子神皇陛下」
リノンクレアは、礼儀作法に則り、深々と敬礼した。それは、自分の立場を明確に示す行為でもあった。リノンクレアは、ガンディア王家の人間ではあるが、ネア・ガンディアにおいては、獅子神皇の支配下の一員に過ぎない。
「兄上と、呼んでくれないのかい」
レオンガンド・レイグナス=ガンディアは、その白くも美しい顔をわずかに曇らせた。髪も顔も首も腕も、衣服に隠れていない部分はすべて真っ白であり、それが人間と人外を別つ肌の色合いであることに疑いの余地を持たない。それは人外の証明であり、彼が人間を捨てたことの印なのだ。
烙印。
そんな言葉が、リノンクレアの脳裏に浮かんだ。
人間を辞めたものの烙印。
右手のひらに視線を落とし、目を細める。獣に爪で引き裂かれた傷痕のような印があった。
それもまた、烙印に違いない。




